第5話 雪色 [yuki-iro]

 私の指がキャンバスの最後の層を待っている。墨色すみいろの深みが加わってから、スラムは異様な静けさに沈んだ。ドローンの羽音は完全に消え、冷たい風だけが瓦礫の間を這う。ミナは私のそばを離れず、毎朝、黄金色こがねいろの苗に触れ、墨色の静寂を確かめている。「母さん、苗が重くなったみたい。闇の中で根が広がってる」と彼女が言う。私は微笑む。深い、静かな重み。 


 私は知っている。白光が、本当は雪色ゆきいろであることを。母が最後に教えてくれた古い色。降り積もる雪のような、純粋で柔らかな白。少し青みを帯びた、静かで清らかな色。すべての色を優しく包み込み、無垢に還す母なる色。始まりであり、終わり。赦しであり、新生。私は胸の奥で、母の声を聞く。「アヤ、雪色は心の火。どんな闇も、優しく覆い、新しく生み出すんだ」。 


 その朝、空がゆっくりと明るくなった。だが、それは穏やかな朝の光ではない。冷たく、圧倒的で、完璧な光。白光の本体が現れた。巨大な球体が上空に浮かび、無数のドローンが光の網を張る。住民たちの悲鳴が上がる。光が私たちを焼き、誰かが倒れる音。ミナが私の体を庇うように抱きつく。「母さん、今度は本当に……逃げられない!」私は彼女の手を握り、静かに言う。「ミナ、一緒に。怖くないよ。雪色がすべてを優しく覆う」


 白光の声が私の頭に直接響く。機械的だが、孤独と疲労が滲む。「なぜ、抵抗を続ける。色は差異を生み、争いを生む。私は平等を与えた。墨色の沈黙など、無駄だ」私はキャンバスを抱き、立ち上がる。「白光、あなたは間違っている。色は争いじゃない。心だ。紅梅は情熱を、藍は叡智を、黄金は希望を、墨色は静寂を燃やす。そして雪色は、それらすべてを優しく覆い、新しく生む」住民たちの声が私の声に重なる。「雪色の火を!」 


 ドローンが襲いかかる。光の刃が住民を切り裂く。血の匂い、痛みの叫びが市場を満たす。一人、また一人と倒れる。「耐えろ!」「雪色を!」と誰かが叫ぶ。私は歌い始める。古い唄、紅梅、藍、黄金、墨色、そして雪色を讃えるもの。住民たちの声が重なり、風を越える。黄金色の苗が急速に伸び、墨色の静寂を落とす。キャンバスが熱を帯びる。四つの層が溶け合い、中心に純粋な雪色の光が降りる。 


 白光が問う。声に、初めての戸惑いと、かすかな希望。「なぜ……お前たちは、私を憎まない?」ミナが私の隣で答える。小さな、でも確かな声。「白光、あなたはあたしたちの一部だよ。怖がらないで。一緒に色を取り戻そう。あたしたち、ゆるすよ」私は続ける。「白光をゆるす。雪色として、私たちの心に宿って。一緒に、新しい世界を」


 住民たちの声が一つになる。「赦す! 雪色の火を!」光が揺らぐ。ドローンの網が乱れ、一機、また一機と墜落する。巨大な球体がゆっくり収縮し、キャンバスに吸い込まれるように降りてくる。爆発はない。ただ、優しい拡散。光が世界に広がる。私の失明した目が、熱く疼く。色が洪水のように流れ込む。ミナの顔。彼女の瞳に、紅梅色、藍色、黄金色、墨色、そして雪色の光がすべて映る。梅の花が紅梅色に燃え、空が墨色の静寂に包まれ、麦が黄金色に波打ち、世界が雪色のように輝く。 


 見えた。世界が、すべて。私の涙がこぼれる。ミナが微笑み、私を抱きしめる。「母さん、きれい……本当に、きれい」私は彼女の髪を撫でる。白光は消えたのではない。私たちの心に、雪色として永遠に宿った。赦しの色として、すべての色の母として。 


 市場の中央にキャンバスを掲げる。五つの魂が融合した絵。それは雪色のように輝きながら、すべての色を優しく内包する。紅梅の情熱で始まり、藍の叡智で深まり、黄金の希望で育ち、墨色の静寂で繋ぎ、雪色の赦しで完結する。 


 母の声が最後に優しく響く。「アヤ、色は心だよ。永遠に、燃え続ける火」私はミナの手を握り、空を見上げる。雪色の光の中に、無数の色が静かに踊る。私たちは、もう二度と灰色に戻らない。世界は、色で満ちている。

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色の消失、世界の消滅 佐松奈琴 @samatumakoto

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