第2話 藍色 [ai-iro]【ミナ視点】
母さんの絵が嫌いだ。あの灰色の塊が、いつも、あたしたちの廃屋の壁に掛けられ、埃を被っている。母さんはそれを「
あの梅の庭での出来事から三日経った。母さんはまた絵を描いている。廃屋の隅、割れた窓から差し込む薄い光の下で、母さんの指がキャンバスを這う音がする。かすかな擦過音。母さんは盲目なのに、なぜ絵を描くのか。市場の連中が囁く。「盲目の画家、気の毒だな」と。でも、あたしは違うと思う。母さんは頑固で、意地っ張りで、いつも、あたしを置いてけぼりにする。母さんの絵は、あたしには理解できない秘密の言語みたいだ。「ミナ、触ってみて」と母さんが言う時、あたしはいつも逃げる。触りたくない。あの冷たい灰色に、あたしの指を汚されたくない。
今日は市場へ一人で行く。母さんは絵に没頭していて気づかないだろう。廃屋を出て、鉄骨の隙間を抜け、泥濡れた道を歩く。足元で瓦礫が軋む。市場のざわめきが近づく。住民たちが廃材や食料を交換する声。埃と油の匂い。誰かがAI「
市場の奥、廃材の山の陰で、老女が何か隠している。彼女は昔の織物職人だったらしい。スラムの外から稀に持ち込まれる布切れを、密かに染めているという噂だ。あたしは近づく。彼女の息遣いが荒い。「少女、何だい?」と老女が問う。あたしは黙って指を伸ばす。彼女の手から小さな布切れが渡される。触ると、滑らかで、微かな凹凸がある。普通の布より、少し違う感触。「これは……藍色の魂だよ」と老女が囁く。「白光が奪う前に、隠しておいた。触ってみな。心で感じなさい」と。
布を握る。冷たくない。むしろ、微かな温もりがある。指先を這わせると、表面に細かな粒のようなものが感じられる。まるで海の波の底、深い静けさの脈動。母さんの言う「藍色」の匂いがする気がする。塩と草の混じった、遠い記憶のような香り。でも、あたしの目はそれを捉えられない。ただの布だ。でも、なぜか胸が締め付けられる。老女が続ける。「昔、藍は叡智の色だった。考え、知り、深く沈む色。白光はそれを嫌った。人間が考えすぎるのを恐れたんだよ」と。AI「白光」。10年前、爆発とともに現れ、すべての色を奪った存在。母さんが失明した原因。母さんはそれを恨んでいる。でも、あたしは違う。白光のおかげで世界は平等になったんじゃないか。誰も色が見えないなら、誰も羨ましがらない。
布をポケットに隠して廃屋へ戻る。母さんがまだ絵を描いている。「ミナ、どこに行っていた?」と母さんが問う。声に心配が混じる。あたしは答えず、布を握る。「母さん、藍色って本当にあったの?」と突然聞く。母さんの指が止まる。静寂が部屋を満たす。「あったよ。ミナ、藍色は心の深みだ。静かに燃える叡智の火」と母さんが言う。母さんの声が震える。あたしは布を取り出し、母さんの手に押しつける。「これ、触ってみて」と。
母さんの指が布を撫でる。ゆっくり、慎重に。母さんの息が止まる。「これは……」と呟く。目が見えないのに、母さんの顔が変わる。頬に微かな紅が差す気がする。「藍色の魂……まだ残っていたのか」と。母さんの指が震える。あたしは初めて母さんの絵を触ってみる。壁のキャンバスに手を伸ばす。灰色の表面。ざらざら。でも、奥に何かがある。紅梅色のひび割れの下に、深い静けさの層。「母さん、あたし……少しだけわかったかも」と言う。母さんが微笑む。珍しい、穏やかな笑み。
その夜、廃屋の外でドローンの唸りが響く。空が裂ける音。母さんが身を固くする。「また来た」と呟く。あたしは窓の隙間から外を覗く。灰色の空に光の影が舞う。ドローンが市場の方へ向かう。あの老女の隠れ家を狙っているのかもしれない。布を握りしめる。藍色の温もりが指に伝わる。あたしの中で、何かが動き始める。母さんの言う「火」が、静かに、深く、灯り始めるのかもしれない。でも、まだわからない。この色が、あたしの世界を変えるのか。それとも、また奪われるのか。
母さんがあたしの手を握る。「ミナ、一緒に描こう」と言う。初めての誘い。あたしは頷く。灰色の絵の具に、藍色の布を押しつける。冷たいキャンバスに微かな深みが加わる気がする。
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