色の消失、世界の消滅

佐松奈琴

第1話 紅梅色 [kōbai-iro]

 私の指がひび割れた梅の花びらに触れる。スラムの市場、住民が廃材の山から掘り出してくれたこの花びらは脆く、触れるたびに粉がこぼれる。紅梅色こうばいいろのはずだった。

 

 母が教えてくれたその色は、冬の静寂の中で脈打つ情熱だ。


 だが、私の目はそれを捉えられない。10年前のあの爆発以来、私の世界は指先の感触、風の音、埃の匂いだけでできている。


 市場のざわめきが鉄骨の隙間を抜ける。東京スラムの市場は瓦礫と廃材に囲まれた交易の場だ。


 私とミナの家、市場のすぐ裏の廃屋から毎朝ここへ来る。住民が食料や噂を交換し、かつての祭りの記憶を囁き合う。


 AI「白光びゃっこう」が紅梅色を奪ってから住民の声には情熱が薄れた。「何も変わらない」と誰かが呟く。その言葉が私の胸を刺す。母が言った。「アヤ、紅梅色は心の火だよ。どんな冬でも、燃えるんだ」だが、その火は消えた。


 私は花びらを握り、スラムの外れへ向かう。梅の庭──神域だ。かつて神社だった場所、梅の木が立ち、色の魂が宿ると老僧が言う。


 家を出て市場を抜け、瓦礫の道を歩く。ミナの小さな足音が後ろで響く。彼女の息遣い。「母さん、また無駄なことをするの?」と彼女が言う。私は答えず、花びらを撫でる。ミナは色を知らない。彼女が生まれた時、世界はすでに単調だった。私の娘なのに、彼女の瞳は紅梅色の輝きを見たことがない。


 道は泥に濡れ、足元が滑る。風が冷たく、私の頬を叩く。梅の庭に着くと、梅の木の枝が軋む。神域の空気は重く、雪の匂いが漂う。私は膝をつき、地面に手を這わせる。乾燥した花びらが指先に触れる。ひび割れが私の皮膚を刺す。だが、その奥に微かな香りが宿る。紅梅色の魂がまだここにあると信じたい。


 私は灰色の絵の具の瓶を開ける。冷たい。まるでスラムの冬のように。私の指が絵の具に触れ、キャンバスに這う。紅梅色の魂を呼び戻したい。ミナが私の袖を引く。「母さん、色なんて無意味だよ」彼女の声は鋭い。私は答える。「ミナ、紅梅色は心の火だよ。冬でも燃えるんだ」だが、声が震える。ミナは知らない。色が世界を動かしていた時代を。「母さんの絵、嫌い!」と彼女が叫ぶ。彼女の足音が遠ざかる。私は呼び止める。「ミナ、待って! ちゃんと私の絵を見て」だが、彼女の息遣いが遠のいていく。


 その時、突然、空が裂ける。AIドローンの唸りだ。鋭い羽音が私の心を切りつける。次の瞬間、風が巻き上がり、花びらが私の手からこぼれる。花びらが粉となって散る。私は叫ぶ。「やめて!」だが、声は風に消える。神域の霧が濃くなる。精霊の影が揺れる。いや、私の心の幻かもしれない。「情熱は心の火」と囁きが響く。母の声か、精霊か、私の願望か。


 ドローンが去り、静寂が戻る。私はキャンバスに灰色の絵の具で紅梅色の魂を刻む。私の指が震える。花びらは失われた。だが、私は諦めない。この冷たい絵の具に冬の情熱を宿す。

 

 私の指がキャンバスを撫でる。灰色の絵の具は氷のように冷たい。あの爆発の日、視力を失った瞬間を思い出す。炎が私の世界を焼き、母の声が遠ざかった。「アヤ、逃げなさい!」と。だが、私は動けなかった。煙が私を飲み込み、母は消えた。彼女の最後の言葉、「アヤ、色を信じなさい」が頭に響く。だが、色はどこにもない。梅の庭の風が私の髪を揺らす。

   

 ミナの叫び声、「母さんの絵、嫌い!」が胸を刺す。私の娘なのに紅梅色の情熱を伝えられない。私の失敗だ。母として、彼女に火を灯せなかった。


 いつかの市場の住民の囁き声が聞こえる。「盲目の画家」と。彼らの笑いが私を試す。見えない私がなぜ絵を描くのか。AIが魂を奪うなら、私の絵は抵抗なのか。紅梅色の魂を呼び戻せるのか。「情熱は心の火」と精霊の囁きが響く。母の声かもしれない。私の心が作り出した幻かもしれない。それでも私は信じたい。


 梅の花びらのひび割れを指先で思い出す。あの庭で、母が私の手を握り、花びらに触らせた。微かな香り、柔らかさ。私の指がそれを覚えている。だが、今、触れるのは灰色の絵の具だけだ。


 ドローンが花びらを奪った。私の心も奪おうとしている。私は絵の具に触れる。冷たい。私の無力感のようだ。だが、止まらない。母の言葉が私を突き動かす。「アヤ、色は心だよ」紅梅色は冬の情熱だ。私はキャンバスに触れる。ひび割れた花びらの形を刻む。見えない目で私は情熱を感じる。私の指先が紅梅色の脈動を捉える。神域の静寂が私を包む。この絵がミナの心に火を灯すと信じたい。

  

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