根城訪問

 M公園を発って約十分、僕たちは一之瀬家に到着した。

 二階建ての一軒家だ。屋根は藍色、外壁はベージュ。外観は平凡で、大きくも小さくもない。前後左右がすべて更地になっているので、ぽつんと孤立して建っている印象を受ける。

 玄関前の、左半分が二台分停められる駐車スペース、右半分がささやかな庭になっている。庭には雑草が疎らに生えていて、土しか入っていないプラスティックの植木鉢がフェンス際に三つ置かれている。うち一つは横倒しで、その状態で放置されたまま。一之瀬家の現状を象徴しているようで、軽く気が滅入った。

「どう? ラスボスの根城感、ある?」

 にやついているが、その底に緊張感が漂っているような表情をこちらに向けながら、ここあが問う。

「いや、普通の家だね。ごく普通の住宅。あの中にお姉さんがいるんだよね?」

「いるよ。あいつはひきこもりだから。家の外にいるほうが珍しいっていうか、ここ二・三年は一歩も出ていないと思う。だから確実にいるよ」

「……やらなきゃいけないのか」

 つく予定のなかったため息をついてしまった。しかも、聞こえよがし感たっぷりの大きめのやつを。

「嫌そうだね」

「僕一人でやるんだよね?」

「もちろん。あたし、佐伯ががんばっているあいだは隠れているから。女神みたいに見守ってる。あそこの家の生垣の陰で」

 斜め後方を指差す。今現在いる住宅地の雰囲気に溶け込んだ一軒家で、一之瀬家からは十五メートルほど離れている。

 走ればあっという間に辿り着ける距離とはいえ、少し心細い。実際に一人にされると、かなり心細くなりそうだ。

「言っておくけど、ステレオタイプのひきこもりをイメージしていたら痛い目遭うよ。あいつはそんなひ弱じゃない。猛獣と戦うつもりでレッツトライ!」

「ねえ、ちょっと。直前になって不安がらせるようなことを言わないでくれるかな」

「だって事実だし。言っておかないと文句垂れるでしょ、佐伯のことだから」

「できればもっと早く言ってほしかったな」

「ほら、言ってほしいじゃん」

「そういうことじゃなくて――ああ、もう!」

 破れかぶれな気持ちで玄関ドアを睨みつける。焦げ茶色の、なんの変哲もない木製ドア。

 あの向こう側に広がる世界に、一之瀬あくあがいる。

 りりあを日常的に虐待し、自殺に追い込んだ女が。

 猛獣にも例えられる、凶暴で獰悪な女が。

「行ってくる。すぐに終わらせる。のんびり見物でもしてて」

「期待してる。あたしたちで悪夢に終止符を打とう。頼んだ……!」

 背中をばちんと強烈に叩く。静かな昼前の住宅地に銃声にも似た音が響いた。

 僕は歯茎が見えるほどくっきりと微笑む。

 ここあは「幸運を祈る」とばかりにサムズアップし、すたすたと歩いて離れていく。

 その姿が生垣の向こうに隠れるのを見届けずに、一之瀬家の玄関ドアへと歩を進める。逡巡しても緊張が高まるだけだ。ひと思いにインターフォンを鳴らしてしまう。

 機械音が鳴り、余韻が薄れ、静寂。

 永遠にでも続いていきそうで。

 緊張感が凄まじくて。

 逃げ出せるものなら逃げ出したい。

 だが、逃げるわけにはいかない。

 ここまで来て、逃げるわけには。

 現実世界でも音が途絶えているのか、緊張のあまり一時的に聞こえなくなっているのか、それすらも判然としない。

 静寂の中、耳を澄ませる。

 足音は聞こえない。人の気配も感じない。

 あくあはひきこもり生活が長く、今は二階の元の自室を捨てて、一階のリビングを自室代わりにしている――ここあはそう言っていた。

 リビングは一階にあるはずだから、訪問者を応対する意思があくあにあるなら、そろそろインターフォンを介して応答するなり、その手間を省いて玄関ドアを開けるなりしてもおかしくない頃合いだ。

 それにもかかわらず、音沙汰なし。

 最初から応対する意思がない?

 それとも、訪問したのが見知らぬ若い男だから警戒している?

 だんだん集中力が切れてきた。無意識に上半身をドアに近づけていたことに気がつき、遠ざけた、次の瞬間、

『お前、誰?』

 低音だが、たしかに若い女性のものと分かる声。

 一之瀬あくあだ。

「あ、えっと……。一之瀬りりあさんのご家族のかた、ですか?」

 返事は、ない。

 順番を間違えたことに、その沈黙を聞いた瞬間に気がついた。

「申し遅れました。僕は一之瀬りりあさんのクラスメイトで、佐伯といいます。一之瀬さんの分のプリントを持っていくように担任の先生に言いつけられたので、持ってきました。ご家族のかたに受け取ってほしいのですが」

 死んだ人間宛にクラスメイトがプリントを持ってくる。

 実際に口にしたことで、その設定がいかに不自然でいびつなのかを、本当の意味で思い知った。

 反応は、ない。

 伝えるべきことは伝えたので、黙って返答を待つべきか。

 それとも、警戒心を解くためになんらかの言葉を追加するべきなのか。

 判断がつかず僕は黙り込む。しかし、その沈黙にもすぐに耐えられなくなる。

「プリントを届けたいだけなんです。開けてください。お願いします」

 このアプローチ、「郵便受けにでも入れておいて」とでも返されたら終わりじゃね?

 そう思ったのと、玄関ドアが開いたのはほぼ同時だった。

 開き始めはゆっくりに見えたが、三十度ほどまで開いたところで急加速し、あっという間に全開に。

 現れたのは、長身痩躯の素っ裸の女。

 身長百七十二センチの僕よりも少し高い。

 一目見た瞬間のサイズ感から、男だと思った。

 否定したのは、胸部から突き出した大層ご立派な剥き出しの膨らみ。

 その上の顔は、冷気が漲った三白眼で僕を見下ろしている。

 僕は息を呑んだ。

 大女は胸を張るようにして頭上に両手を上げていたのだが、その両手に金属バットが握りしめられているのだ。

 僕の視線の先で、バットのヘッドが動いた。

 世界がスローモーションになる。

 振り下ろす軌道。推測される着弾地点は、僕の脳天。

「あああああ!」

 素早く回れ右し、不格好なヘッドスライディングをするように跳んだ。

 胸に硬い衝撃。痛さというよりも熱さに呻く。地面に擦ったのだ。視界に映る一之瀬家の門は遠く、全然跳べていないと知る。

 首を捩じって肩越しに振り向く。蛙のように開いた僕の両脚のあいだ、コンクリートの地面に金属バットが突き立っていた。

 跳ぶ前にちょうど僕が立っていた地点。

 背筋が寒くなった。

 女がバットを持ち上げる。

 一歩、こちらに踏み込む。

 僕は俊敏に四つん這いの体勢になり、高速ではいはいをして遠ざかる。

 空気が縦に切り裂かれる音。

 次の瞬間、尻の柔らかい部分に、ふざけた同級生の男子に軽く殴られた程度の衝撃。

 振り下ろす一撃がかすったのだ。

 逃げられれば最高だった。可能なかぎり敏速に立ち上がり、短距離走者のように四肢を振ってのダッシュで。

 ただ、気が動転してしまったせいで手を滑らせてしまい、顎から地面に叩きつけられてしまう。

 逃げるのに失敗したことで、この場から遠ざかりたい気持ちは急速に減退し、敵の現状を把握したい欲求が上回った。

 横方向に転がって仰向けになる。

 敵はまた一歩踏み込んできた。

 僕の脚と脚のあいだに女の右足が下ろされる。

 攻撃の態勢に入る前兆。

 バットを振りかぶる。

 バッターなのにピッチャーのように。スイカ割りをするのだとすれば、破片は何メートル飛ぶのかという高さに。

 僕は窮屈ながらも素早く、なおかつ力強く右足を動かし、僕の両脚のあいだにある右脚に足払いをかけた。

 女の体が大きく前傾する。

 女は金属バットを杖代わりに転倒を阻止しようとした。僕の右手のすぐ横に下ろされた凶器のヘッドは、斜めからの着地となった。不安定な角度では体重を支えきれず、女は前のめりに地面に倒れる。金属バットが手から離れ、ちょうど僕の右手の近くにまで転がってきた。

 僕はそれを手に俊敏に立ち上がる。

 しかし、逃走というコマンドを選ばなかったのは失策だった。

 敵を叩きのめそうとしたのではない。確実に逃げ切るために、何発か攻撃を加えてから逃げようと考えただけなのだが、這いつくばる女の姿を一目見た瞬間、恐怖から全身が硬直してしまう。

 女が体勢を立て直す。身のこなしがスムーズで、動いた、と思った次の瞬間にはもう立ち上がっている。

 ただ、こちらには金属バットがある。

 僕は凶器を両手に握り、構える。

 上半身は微かに震え、下半身は逃げ腰だ。

 ただ、闘争心はある。

 来るなら、来い。

 しかし、女は予想外の行動をとる。

 こちらに背を向けたかと思うと、開きっぱなしのドアから家の中に入っていたのだ。普通の歩行と速足の中間の足取りだった。

 逃げたのだ、と思った。武器を奪われ、失ったから、退散したのだと。

 予想に反して、女は三十秒足らずで戻ってきた。なにかを右手に握りしめて玄関ドアから姿を見せ、ずんずんと大股でこちらへと歩み寄ってくる。

 傘。

 雨の日にコンビニに足を運べば、店頭の傘置き場に一本は置いてあるような、なんの変哲もない透明なビニール傘。

 足の裏あたりで発生した寒気が足先から脚を経由して胴体を駆け上り、頸部を通過して脳天から抜けていった。

 女はフリーだった左手でも傘を掴み、腰をぐっと落として武器を後方に引く。

 突きの構え。

 速やかにこの場から離脱しなかった後悔の念が込み上げる。

 女の体が動く。

「だあああ!」

 咄嗟に、しゃがんだ。

 一瞬ののち、頭上を風の筋が高速で通過し、僕の短い髪の毛を浮き上がらせた。

 顔。

 というよりも、目だ。

 狙ってきた。突こうとした。ビニール傘の先端で。固く閉ざされた扉をぶち破ろうとするように、ありったけの力を込めて。

 こいつ、マジで僕を殺る気だ……!

 今度は傘を振り下ろしてきた。咄嗟にバットを横に倒して受け止める。手が痺れるような衝撃。

 攻撃は連続して放たれる。凄まじい力での連打。一撃ごとに体が地面に沈み込むかのようだ。あっという間に、あと三十センチほどで尻が地面につくところまで追い込まれた。凄まじい音が頭上で響き続けている。どう考えてもビニール傘のほうが脆いのに、バットのほうが先にいかれてしまいそうだ。

 防戦一方。

 反撃の余地、なし。

 このままだと、負ける。殺される。

 唐突に猛攻がやんだ。

 はっとして顔を上げる。

 再び、突きの構え。

 かわせない、と直感した。

 凶器を突き出す動きがスローモーションに見える。

 ――殺られる。

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