疾駆

 と思った、そのときだった。

「佐伯っ! 無事なの!」

 飛んできた大声が僕の鼓膜を震わせた。

 ここあの声だ。

 大きさか。声の主か。どちらが原因かは定かではないが、女は硬直した。攻撃が放たれる寸前で止まった。

 呆けたような顔を目がけてバットを投げつける。

 女は反射的に傘でガードしたが、攻撃の勢いを殺しきれなかったようで、よろめくように一歩二歩と後退する。

 僕は立ち上がり、敵に背を向けて脱兎のごとく駆け出した。

 敷地の外に出るまではあっという間だった。振り返ると、女はその場に立ち尽くしていた。

 顔を進行方向に戻し、加速する。

 脇目は振らない。逃走に全意識を注ぎ込む。ここあの助けを無駄にするわけにはいかない。

 追ってくる気配はない。民家の生垣まであと数歩というところで振り返ったが、女の姿はなかった。こちらは全力疾走しているから、先回りしていることはないはず。

 生垣の陰からここあが現れ、一之瀬家から遠ざかる方角を目指して走り出した。飛び出した瞬間に僕を一瞥し、以後は僕には見向きもせずに。

 僕はここあと競争するように走る。互いに黙ってただ四肢を振る。

 やがて僕たちの脚は止まる。

 乱れに乱れていた呼吸をなんとか整え、あたりを見回す。一之瀬家があった地区と似たような雰囲気の住宅地だ。

「ここ、どこ?」

「うちの近く。徒歩だと五分もかからないんじゃない」

「そっか。かなり走った気がしたけど」

 逃げるのに必死で時間感覚が狂ったのかもしれない。そう考えたところで、はっとしてここあの顔を見る。

「あの女は、あくあは、どうなった?」

「振り切ったよ。ていうか、そもそも追ってきてない。あいつは内弁慶なところがあるから、家から離れてしまえばこっちのもの。佐伯が呼吸を整えているあいだにちょっと道を引き返して、家の中の引っ込んだことも確認済みだから」

「……そうだったんだ。ずっと近くにいてくれた気がしたけど」

「とにかくもう大丈夫。追ってきていないと見せかけて時間差で追いかけてくる、なんてこともないから。あいつはそういうやつじゃない。同居しているあたしが言うんだから間違いないよ」

「安心したよ。さっきはありがとう。マジで助かった」

「やけに素直じゃん。佐伯らしくないね」

「もともと君よりも素直だよ。仮に君よりも素直じゃなかったとしても、あの場面を助けてくれたんだから感謝の気持ちしかないって。……あいつ、マジで僕を殺そうとした」

 ここあは真剣な面持ちでうなずく。

「やばい、やばいとは聞かされていたけど、あそこまでとはね。ベクトルも、程度も。……でも、ここあはなんで助けてくれたの? あんなにあくあの前に出るのを嫌がっていたのに」

「殺されそうになっていたからに決まってるでしょ。あんな場面を見ちゃったら、助けるしかない。いくらあくあと関わり合いたくなくてもね。細かいことを言うと、生垣で身を隠しながら叫んだだけだから、別にあいつの面前に姿をさらしたわけじゃないし」

 改めて感謝の念を示すように深くうなずいたものの、胸の片隅で違和感が蠢いている。

 生垣からでも玄関付近の様子は見えた。僕は何回か悲鳴を上げたし、バットと傘がぶつかり合う音は大きく響いていた。

 僕が防戦を強いられているという情報は、かなり早くここあに届いていたはずだ。

 そのわりには、助けに入るのが遅かった気がする。

 助けてくれていなければ僕は殺されていた。感謝の気持ちはもちろんある。むしろほぼ百パーセントその気持ちだ。

 でも、なにかもやもやする。

「佐伯、とりあえず移動しよう。ここじゃ落ち着かない。落ち着ける場所に行って、腹ごしらえをしながら、今回の失敗について意見を交換しよう」


 あくあは生まれつきの異常者ではなかった。

 暴力的、というわけでもなかったと思う。

 むしろ、どちらかと言えば物静かで穏やか。あたしとりりあよりも三つ年上なのもあって、いっしょになって遊ぶというよりも、少し離れた場所から見守ってくれていた印象が強い。優しくて頼りがいのあるお姉ちゃん、なんて表現は月並みだけど、一言で評するならそうなる。

 初めて異常な暴力が行使されたのは、何年前のことだっただろう。

 あたしたち三姉妹は自宅近くの公園で遊んでいた。近くに大きくて遊具がたくさん置かれている別の公園があるから、他の子どもたちからはあまり人気はなかったけど、周りを気にせずに遊べるから選択肢としては悪くない。なにより、あちらの公園にはない砂場がある。

 あたしとりりあは砂場でお城を作っていた。とにかくでかくて高い山を作ろうとするあたしに、細部の装飾にこだわりを見せるりりあ。遊びかたは違えども、夢中になって砂とたわむれるという意味ではさすが双子、というところだろうか。

 無我夢中で遊んでいたあたしたちの手は、あくあの声を聞いて止まった。

『お母さんから電話あったよ。もうじき晩ごはんができるから帰っておいで、だって』

 一人ベンチに座っていたあくあが、スマホ片手にそう告げたのだ。

 あたしは返事もせずに砂遊びを続けた。食いしん坊だけど、そのときは遊びたい気持ちのほうが強かったから。

 一方の生真面目なりりあは、「はーい」といかにも優等生って感じの返事をした。だけどうらはらに、遊びをやめようとはしない。

 まだ遊んでいたかったのはりりあも同じ。あくあや母親に対して申し訳なく思う気持ちは、あの子のことだからきっと持っていたはずだ。でも、いっしょに遊んでいるあたしが遊び続けているから、「ここあがもう少し遊ぶみたいだから、わたしも」という気持ちになったんだと思う。

 あくあがベンチから立ち上がり、砂場へと歩み寄ってくる姿を、あたしは視界の端に捉えた。ゆっくりした歩調、穏やかな足運びで、怒っている様子は全然なかった。

 だけど、あたしたちのもとに到着した三姉妹の長姉は、妹たちが予想もしていなかった行動をとる。

 無言でいきなり、砂の城を思いきり蹴飛ばしたのだ。

 飛び散った砂はあたしやりりあの服や髪の毛にもかかった。あたしはそれを払おうともせずに、愕然としてあくあを見上げた。りりあはどんなリアクションだったのか、あの子のほうは見なかったから分からないけど、たぶんあたしと似たような感じだったと思う。

 あくあは満面の笑みで二人の妹に告げた。

『りりあも、ここあも、くだらないことしていないで帰ろう。帰ってごはん、食べよう』

 あたしは意味が分からなかった。あたしとりりあがいっしょに遊ぶとき、夢中になってしまってあくあや両親の命令を無視するなんて、よくあることだ。そのときのあくあが、普段と比べて特別不機嫌だったわけでもない。

 それなのに、なぜ?

 たしかなのは、ただ一つ。その出来事があったのを境に、あくあが家族に対して暴力を振るうようになったこと。まずは気の弱いりりあがターゲットにされて、次にあたし、それから両親。

 あたしは怖かったし、戸惑った。あの優しくて妹想いのあくあお姉ちゃんが、どうして急にこんな野蛮な真似を?

 原因にはまったく心当たりがない。あくあは中学生のときは休みがちで、高校生のときは一年も持たずに自主退学と、集団生活に苦労している印象はある。でも、なにかトラブルを起こした、あるいは巻き込まれたという話は聞いたことがない。なにより、妹たちに対しては模範的な優しさを見せていた。

 あくあは突然おかしくなってしまった。

 あたし自身も納得がいかないけど、そう結論するしかなかった。

 暴力が常態化すると、ただただ戸惑い、ただただ恐怖するだけじゃなくて、理不尽な仕打ちに対する憤りを覚えるようになった。なんとしてでもやめさせなければ、と思った。反抗も反撃も抗議もした。原因を究明し、不幸に終止符を打つ方法を模索した。

 しかし、止まらなかった。

 やがて、一之瀬家の被害者たちを諦めが蝕み始めた。殴られたら殴り返し、蹴られたら声を荒らげて抗議することはあっても、心の奥では仕方がないことだと諦めていた。本当の意味での危機感を持てなかった。

 そして、りりあが死んだ。

 遅すぎたのかもしれない。だからといって手をこまねているわけにはいかない。佐伯剣という協力者を得て、あくあのもとに行ってもらったのだけど、呆気なく追い返された。

 高校は中退。中退してからはひきこもり。

 もしかしたら外部の人間からの働きかけに弱いんじゃないか、という期待も込みでの助っ人・佐伯剣の派兵だったわけだけど、あえなく打ち砕かれた。見通しが甘かったと言わざるを得ない。

 今、あたしと佐伯は道を歩いている。言葉は一言も交わさずに歩いている。

「状況は絶望的だ」と口にしないだけ、まだ持ちこたえているほうなのかもしれない。

 ……そんなことくらいしか慰めがないくらい、あたしたちが置かれている状況は絶望的だ。

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