意気地なしとジャンクフード
目覚めると、隣の布団から静かな息づかいが聞こえてくる。
外ではスズメが鳴いている。秘密基地のすぐ近くの地面をついばんでいるようなさえずりの音量、距離感。
朝チュンというネットスラングがあるが、僕たちのあいだにはなにもなかった。
残念ながら、遺憾ながら、本当になにもなかった。
僕が読んだことのある小説に、似たようなシチュエーションが描かれていた作品がある。作者は夏目漱石で、タイトルは『三四郎』。あの作品の中で、女性と一夜をともにしながら手を出さなかった主人公の青年は、女性から「意気地なし」と冷笑されていた……。
苦笑いしたいような、そうするのもなにか情けないような、複雑な気持ちで上体を起こす。すると、ちょうどここあも体を起こしたところで、視線ががっつりと重なった。
「おはよう」
「……おはよう」
声を聞いたのを境に、意識が急速にクリアになっていく。
先に言ったのは僕だった。タッチの差とはいえ、目覚めたのはここあのほうが遅かったはずなのに、先に笑ったのは彼女。
シンクロニシティに気がついたことによる笑み。ともに朝を迎えられた喜びの笑み。今日も一日がんばるぞ、という意味の笑み。
釣られて僕も笑っていた。
足並みを揃えたのではなく、自然と微笑んでいた。
今日という一日が始まる。
なにが起きるかは分からないが、とりあえず、出だしの気力は充分だ。
夕食とともに買っておいた菓子パンとコーヒー牛乳で胃の腑に流し込み、手早く身支度を整えて僕たちは家を出た。
「こういうときはさっさと行動に移ったほうがいいからね」
出発して早々のここあの発言だ。今日の彼女はキャミソールではなく、桜色の半袖のTシャツを着ている。下はハーフパンツ、髪型はポニーテールと、この二点は昨日と変わりがない。
「だね。やる気があるときに動かないと」
珍しく、と言っていいのかは分からないが、僕たちの意見は輪郭線がぴったり一致した。
朝九時過ぎ。そう早いわけではないが、起床してから出発するまでが慌ただしかったので、なんとなく早朝感はある。
それにしても、午前九時。
「普段なら学校が始まっている時間だね。学校が通常どおりあるんだったら、外泊は絶対に許可してくれなかっただろうな、うちの親は。ていうか、いつから再開なんだろう」
「さあね。佐伯があくあに会っているあいだ、学校まで様子を探りに行ってこようか? あたし、高校の場所は知ってるから」
「見守っててよ。心細いから」
「佐伯、授業参観に親が来ないとふてくされるタイプでしょ」
「それとこれとは話が違うだろ。……怖いんだよ、ここあの姉ちゃん。まだ顔も知らないけど、話を聞いたかぎり、なにをしてくるか分からない感じがあって」
「まあ、死にはしないんじゃない? 話が通じるか通じないかが問題なだけで」
住宅、住宅、ときどき田畑。そんな環境を歩く僕たちは、勇み立って秘密基地を発ったわりにのんびりと歩いている。早すぎない朝の独特の緩い空気がそうさせるのかもしれない。
いきなり不吉な言葉を吐かれてしまったが、それを引きずることがないくらいに、僕たちを包む空気は穏やかだ。
ただ、小石につまずくまでは早かった。
「あ、そうそう。あくあだけどね、生活習慣が乱れまくって朝が遅いから、今行っても起きていない確率大だよ」
地味な外観の歯科医院を前方に見ながら、子どものころの歯医者にまつわる思い出話を語らっているさなか、ここあが思い出したようにそう言ったのだ。
「えっ。それ、だめじゃん」
「そう、だめなの。仕方ないから、テキトーに時間つぶそう。二時間くらい。M公園が近いから、そこに行こっか」
そういう大事なことはもっと早く言ってくれよと思ったが、こうも平然といい加減な発言をされると、抗議するのも馬鹿らしくなる。
「別にいいけど、でも、二時間も公園で時間をつぶすのはきつくない?」
「お詫びにいっしょに考えてあげるよ。あくあとコンタクトをとる方法」
「昨日はけっきょくなにも決まらなかったよね。『佐伯がよかれと思う方法でコンタクトをとってください』で終わって。ここあはなにかいいアイディアはないの? 一夜が明けて、なにかこう、画期的なアイディアは」
「ないよ、そんなの。でも、今から考えるから心配しないで。三人寄れば文殊の知恵って言うしね」
「一人足りないけど」
「二人ともが一・五人分がんばればいい」
「前向きなんだか、いい加減なんだか……」
道中でここあが「なんかおなか空いた」と訴えたので、コンビニでフライドポテトとから揚げとコーラを買った。
M公園は川に沿って設けられた細長い公園で、遊歩道が占める面積が広い。
むしろ遊歩道しかない印象すらある。たぶん、ジョギングや犬の散歩などに勤しむ人が多いからだろう。
久々に足を運んだ本日も、それらが目的の市民たちの姿であふれていた。人口密度でいえば、二十秒につき最低一人が視界に入るくらい。平日の朝九時半過ぎだと考えればなかなかの盛況ぶりだ。
「まずはあくあを部屋から引きずり出さなきゃいけなくて、そこからさらに情報を吐き出させなければいけない。道は険しいよねぇ」
ここあはフライドポテトをいっぺんに三・四本つまんでは口に押し込みながら、どこか他人事のように言う。
から揚げもポテトも、さっきから食べているのは彼女ばかり。まるで朝食なんて食べていなかったかのような食べっぷり。本当によく食うやつなのだ、ここあは。
「難しいよね。僕が思いついたから執着するわけじゃないけど、りりあのプリントを持ってきました作戦? 無理を承知でその作戦でいくしかないのかな」
一口飲んで僕はそう返した。
それを超えるようなアイディアは、今のところ出ていない。
この調子では永遠に出そうにない。
脂っこいジャンクフードばかりが腹の中にたまっていく。
「そうだね。ま、実行するのはあたしじゃなくて佐伯だから。なんでもいいっちゃなんでもいいんだけどね」
ここあは能天気にそう言って、一口で食べるには少し大きいサイズのから揚げを口に押し込む。買うさいに「昨日の夜も食べたよね」と僕は指摘したが、お構いなしだった。
「真面目に考えてよ。協力を惜しむつもりはないけど、ここあももうちょっと積極的にっていうか、真面目にやってほしいんだけど」
「真面目もなにも、アイディアが浮かばないんだからどうしようもないでしょ。もうそれでいこう、それで」
「いや、もう少し探そうよ」
「でも、りりあを絡めていくのは悪手ではないと思うけどね。日常的に虐待していたということは、見方を変えれば依存していたってことなんだから。家事だってりりあの担当だったからね、親が出て行ってからは。一之瀬家におけるりりあの存在感、本当に強かったから。態度のでかさでいったら断然あくあだけど」
「子どもだけで暮らしているんだ。それはあくあが……」
「あいつのDVのせいで親が出て行ったと思った? そうじゃなくて、転勤になっただけ。父親が会社員だから。でもまあ、母親が夫についていった原因は確実にあくあだから、間違っているとは言い切れないかもだけど」
会社員という呼称は範囲が広いが、ちゃんとした企業にちゃんと勤めているまっとうな社会人なのだろう。
家族が壊れていると言ったが、個々人に問題があったというよりも、まともだった人間があくあのせいで壊れてしまった、ということなのだろう。
僕が知るかぎりりりあは普通の女の子だったし、ここあも個性的ではあるが普通から大きくは逸脱していない。
一之瀬家の普通さを垣間見たとたん、相対的にあくあの異常性がこれでもかと際立ち、諸悪の根源に相対するのが本格的に嫌になってきた。
でも、僕はもうここあと約束を交わした。
恐怖やその他諸々のネガティブな感情を抑えつけて、困難に挑むしかない。
スマホを確認すると、ここあが「二時間くらい時間をつぶそう」と一方的に決めてから、早くも一時間半が経とうとしている。
「他にいいアイディアもなさそうだし、覚悟を決めるしかないと思うよ。『いや、実行するのは僕だから』っていうセリフは金輪際禁止ね。腹括るしかないよ、佐伯。男らしく。ファイト!」
「でもここあ、プリントも用意していないのに、どうするの」
「『プリントを持ってきた』は大義名分でしょ。手ぶらで行こう、手ぶらで。あいつは応対に出るとしても、インターフォンのモニター越しにいちいち確認したりしないから」
「そう? じゃあ、それでいいけど。……でもなぁ」
「佐伯、いい加減覚悟決めなよ。もうその道しかないんだから」
作戦はそれで確定、あとは僕の気持ちの問題、僕が決心をつけられないせいで実行に移れない、そう言いたいらしい。
納得がいかない思いはある。ここあはずるい、とも思う。
一方で、ぐずぐずしていて一向に決心がつけられない自分に嫌悪しているのも事実。
男らしく、すぱっと決断しろ。
ジェンダーだのなんだのとうるさいご時世になっても、男はけっきょくその言葉でつつかれると弱い。少なくとも僕はむちゃくちゃ弱い。
「分かったよ。挑戦してみる。もうそろそろ起きている時間じゃない? 出発しよう」
「おっ、急にやる気出してきたね。さすがはあたしが頼りにした佐伯剣くんだ」
冗談めかしているが、重大な家庭の問題の進展を赤の他人に託した時点で、一定の信頼をおいてくれているのはたしかなはず。
ならば、それに応えようじゃないか。
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