死に対して

 電気がなかった時代の就寝時間は早かったんだろうな、と思う。

 電気が通っていなくて、しかも暗いとなると、本当になにもやることがない。

「スマホいじってばかりもなんだし、もう寝る?」

 提案は僕からした。

 さっきから会話が途絶えていて、だらだらとネットサーフィンをするだけ。電池の残量だってもう残り少ない。起きている意味は、はっきり言って皆無だ。

「そうだね。こういうときって、実際に感じている以上に疲れているものだから」

 だらけきった声でのここあの返答。四畳の和室の真ん中、ローテーブルを脇にどけて布団を二枚並べている。ただ、もともとここあが泊まる用の一式しか置いていなかったので、厚手の掛け布団を敷布団の代わりに敷き、掛け布団は毛布と薄手の布団。

 今が六月でよかった。この一言に尽きる。

 二枚の布団の間隔は三十センチくらい。横になってみると、近すぎず遠すぎずという実感だ。

 風呂場でのことを考えると、布団をくっつけて敷こうとか、いっそのこと一枚に統一しようとか、バカップル的なやりとり、もとい茶番があるだろうなと想定していたのだが、いっさいなかった。

 混浴したことでおなかいっぱいになったのかもしれないし、今日一日いろいろありすぎて疲れているからかもしれない。残念なような、ほっとしたような……。

「同意してくれるんだ。てっきり、就寝時間早すぎ、小学生じゃあるまいし、とかなんとか言われるかと思ったけど」

「今日はマジでいろいろあったからね」

 ここあは声を伴った大きめのあくびをした。

「じゃあ、もう寝ようか。僕にちょっかいかけるのはやめてよ」

「それは、なに? してほしいからあえてそう言ったってこと?」

「してほしくないからお願いしたんだよ」

 くだらないやりとりが続くかと思ったが、こちらがスマホ画面をブラックアウトすると、ここあも同じことをした。布団に潜り込む音。そして静寂。

 ようやく落ち着ける時間がやって来たらしい。

 今日あったことを振り返ろうとしたが、思うように集中力を保てない。

 要因はいろいろあると思う。強いて一言でまとめるなら、ここあが言っていたように「いろいろあったから」になるのだろう。

 そして、明日もいろいろある。あってほしくないが、おそらく、いやきっとある。

 振り返るのは、明日、すべてが終わったあとでいい。

 今日はもう、寝よう。

 開き直ると心が一気に楽になった。その流れのまにまに入眠できるかと思ったのだが――眠れない。

「あたしね、今日は予想外のことが三つもあって」

 急にここあが口を開いた。ボリュームは抑制されているが、発音は明瞭。ひとり言ではなく、明らかに僕を意識しての発言。

 眠れないのはここあも同じだったのだ。

「まず一つ目が、りりあの自殺。

 りりあとあくあの仲がよくないのは、ずっと昔から分かっていたの。仲がっていうか、あくあが一方的にりりあを虐待するだけの関係だから、その表現はなにかしっくりこないけど」

 ここあは少し笑った。疲れている人間の笑いかただ。

「やばいかも、やばいことになるかもって、ずっと前から危機感を抱いていたんだけど、まさか自殺するなんて思いもよらなかった。あの子はあたしに相談もしていたし、なんだかんだ強い子だと思っていたけど、双子とはいえしょせんは他人ってことなのかな。

 あくあのことを分かりたい気持ち、あくあにあたしのことを分かってほしい気持ち、両方あったと思うよ。少なくとも、あたしにはあった。

 ……でも、あたしにはあくあに対する嫌悪感が根本にあって。あくあ本人や、あくあに関係するすべてから遠ざかりたい気持ちがあって。今になって振り返れば、それがりりあへの対応に悪影響を及ぼしていたんだと思う。目には見えないけど、ほんの少しずつ誠実さを欠くというか、ベストを尽くせていない対応が重なって、重なって、その結果が自殺。ようするに、あの子が自殺した責任の何パーセントかはあたしにあるんじゃないかなって。今までは百パーセントあくあのせい、あくあだけが悪いんだって思っていたけど、どうもそうとは言い切れないぞって。

 あくあが日常的に、常習的に馬鹿なことをやらなければ、たぶん、いや絶対に、りりあが自ら命を投げ出すことはなかった。その意味であくあの責任は重いし、諸悪の根源はあくあっていう思いは消えていないよ。だけど、あたしの責任でもあるのかなって思うと、うーんってなるよね。考え込んじゃう。飛び降りる決め手となったわけではない、とは思う。……そう信じたいけど、ベストを尽くせなかったせいで死期を早めちゃった可能性は、あるんじゃないかな」

 どう答えればいいか分からない。

 人が深い苦しみの中にいるとき、どんな慰めも効果を発揮しないものなのでは?

 息を吸って吐く頻度さえ落としてここあの言葉を聞きながら、そんなことを思う。

 下手な言葉をかけると、感情的になって強い言葉をぶつけてきそうな、そんな危うさを今の彼女からは感じる。

 怒りをぶつけられるのが怖いんじゃない。

 怒らずにはいられないほど傷つけてしまうのが怖いんだ。

 僕は深く、深く沈黙する。

 ここあに話を振られてもしゃべり出せないんじゃないか、レベルの深みにまで沈み込む。

 逃げかもしれない、と思う。

 傷つけない慰めの言葉がなにかあるなら、たぶん、臆さずになにかしゃべりかけたほうがいい。

 それらを理解したうえでの、沈黙という選択。

 僕は、無力だ。

「おっと、ごめん。予想外のことが三つあったって話だよね。

 二つめはね、佐伯。あなたに声をかけて、行動をともにして、今こうして隣り合った布団の上で寝ていることだよ。

 たしかに、あくあの件はもはや一人の手には負えないってもともと感じていて、自殺したと知らされてからは気が動転して、とにかく誰かの助けを借りたかった。それが具体的に誰なのかは全然イメージできていなかったんだけど、まさか初対面の同い年の男子とはね。しかも常識的で、それなりに親切で、欠点はいろいろあるけどいいやつだなんて。ボケたらツッコんでくれるし、文句言いつつも言うことを聞いてくれるし」

 ここあは声を出さずに笑ったらしい。暗くて顔が見えなくても雰囲気で分かる。

 独りのさびしさをまぎらわせるという、風呂場で僕が意識した役割。

 それを別のところでも果たせた、という発見。

 重たい話のあとで、ここあが笑ってくれたこと。

 二つの事実に安堵したのも束の間、彼女の声がシリアスなものに戻った。

「三つめは、大切な人に死なれても相応の悲しみを抱けないこと。

 今日、外出たじゃん? りりあの話をしてあげるって言って。そのさいに、あたし、絶対泣くと思っていたのね。思い出とかを語っているうちに、込み上げてくるものがあって、感極まっちゃうんじゃないかなって。でも、そんなことはなかった。

 いや、うるっとくる場面ならあったよ? 気づいたかは分からないけど、ちょっと言葉に詰まるとか、自覚しているだけでもわりとあったと思う。でも、なんか、全部我慢できる範疇なんだよね。揺れるけど乱れない、乱れたとしてもすぐに元に戻る、みたいな。

 別に、涙を流さないイコール悲しみを感じていない、なんて言うつもりはないよ。実際、こぼれ落ちなかっただけで涙ぐんではいたからね。確実に感極まっていたし。でも、号泣はしなかったし、込み上げてくる感情に言葉が詰まることもなかった。佐伯とぶつかったときは涙が出ていたけど、あれは衝突した弾みで出ちゃったようなものだし。

 だから正直、ちょっと違和感あったな。あれっ、あたしって冷たいやつだったの? りりあのことが大切じゃないの? ……みたいな」

「案外、そんなものじゃないかな」

 言葉が途切れるや否や僕は発言した。気軽に会話できるとは言いがたい空気だが、沈黙してしまうと余計に話しづらくなるとだけだと思ったから。

「子どものころって、身近な人間の死をまだ経験がしたことがないから、死を実質以上に深刻なものに捉えちゃうんだよ。だから、実際に身近な人の死を経験したときにギャップを感じて、悲しむよりも戸惑っちゃうんじゃないかな」

「……佐伯」

「唐突で申し訳ないけど、僕の死んだおじちゃんのことを話してもいい?」

「いいよ。ていうかむしろ、聞きたい。どうせすぐには眠れなさそうだし」

「分かった。長くかかる話とかでは全然ないんだけど」

 ものすごく聞きたいという感じではないが、関心を抱いているのはたしかみたいだ。だから、期待に応えることにする。

「中一のときに、僕の父方の祖父が亡くなったんだ。交通事故に遭って寝たきりだったんだけど、一か月くらい入院した末に亡くなって。お盆やお正月に家に遊びに行くくらいの関係で、親しいとかでは全然なかったんだよ。だから、亡くなったって急に言われても実感が湧かなくて。

 わけが分からないままおじいちゃんの家に駆けつけたんだけど、冷たくなって布団に横たわっている姿を見たとたん、ぼろぼろ泣いちゃって。でも、葬儀に参加しているあいだはずっと冷静で、涙が流れることもなくて。お別れのときが刻一刻と近づいても、悲しみが込み上げてくるどころか、逆に落ち着きを増していって。火葬場で骨が焼き上がるのを待っているあいだは、不謹慎だけどあくびを連発していた。たしかに待ち時間が長くて退屈だったけど、それを差し引いても、前々日に号泣していたとはとても思えない態度だったよ。小説を読んでいると、主人公が葬儀に参列するシーンがよく出てくるけど、全然違っていたね。

 なにが言いたいかというと、フィクションじゃなくてリアルの場合、身内の死ってそんなものじゃないかな。寝たきりになってしまったおじちゃんが亡くなったのと、双子の姉妹が急に自殺してしまったのとでは、もちろん話が違うよ。悲しみも喪失感も全然違うだろうし、比較するのはナンセンスなのは分かってる。でも、親しい人間が死んだけど泣けない、むちゃくちゃ悲しいわけではなかったとしても、異常でもなんでもないと思うよ」

「なんだ。シンプルに思い出話をしているのかと思ったら、あたしを慰めてくれていたんだ」

「うん。今の僕にできること、それくらいしかないし」

「でも、あまりにも平然としすぎてないかな。どう思う?」

「ここあの場合、悲しみはあとから来るのかもしれないね」

「それはちょっとやだなぁ。できれば明るく楽しく生きていきたいのに」

 ここあはどこかぎこちなく笑った。

「まあでも、りりあが自殺を選んだ真相を知るまでは、本当の意味では泣けないものなのかもしれないって、薄々思っていたことではあったの。それとも、やっぱりあたしの心に欠陥があるのかなって、何度も疑ったし、悩んでもいたんだけど――うん、話をしているうちにちょっと楽になった。ありがとう、佐伯」

「どういたしまして」

 声に少し元気がなくて、それが気になったものの、僕はそう返した。

 会話は途絶えた。

 ここあはもう話しかけてくる気配すら漂わせない。

 僕は毛布を顎まで引き上げて瞼を閉じた。

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