もう子どもじゃない

「ていうかさ」

 なんの用があるのか、台所でなにかしているここあに向かって僕は声を送る。

 夕食が済み、作戦会議は単なる無駄話へと堕し、やがてそれにも飽きて互いにスマホをいじり始めたが、それにも若干飽きが来つつある、という現状。

「んー? なにー?」

 返ってきた声の方向から、いつの間にか風呂場に移動しているのだと分かった。

「僕、なんでこの家にいるのかな」

「決まってんじゃん。泊まるためだよ」

「帰りたいんだけど。家族も心配してる」

「嘘つけ。電話とかラインは来た?」

「それは、来てないけど」

「ほら見ろ。もう泊まっちゃいなよ。宿泊の準備は万端整っているから。布団もあるしね。一人分」

 整ってないじゃん、と心の中でつぶやく。

 じょぼぼぼぼ、という水音が聞こえてきた。湯船に湯を張っている音だ。

「いつの間にか巻き込まれていたけど、別に泊まる理由はないよね。僕がいいと思うやりかたであくあとコンタクトをとって訊き出す、というのが最終決定だよね? だったらもう解散でいいんじゃないかな」

「いや、まだ教えてないことがあるよ。一之瀬家がどこにあるのか」

「あ、そうか。じゃあ、教えて。教えてもらったら明日行ってきて、またここに帰ってきて報告するよ」

「だめ。教えない」

「は?」

 心なしか、水音が大きくなった。

「なんで? 教えるだけだよ? ここあにデメリットないと思うんだけど」

「さびしいからに決まってんじゃん。だってりりあ、死んじゃったんだよ?」

 僕は軽く息を呑み、口をつぐむ。

 ……ずるい。ずるいよ、ここあ。その理由を掲げられたら、断れないじゃないか。

「りりあに死なれたばかりの状況で、一人きりで秘密基地で夜を過ごすって、地獄だよ。電気も通っていないし。孤独と喪失感を誤魔化してくれる存在、あたしには佐伯くらいしかいないのに、どっか行っちゃわれたら困るよ。佐伯は困らなくても、あたしは困る」

「……ごめん。気づかなかった僕がアホだった」

「気にしなくていいよ。悪意からとぼけたんだったら殴ってたけど。で、佐伯はどうするの?」

「親に電話してみる。よくよく考えたら、必ずしも家に帰らなきゃいけないわけではないしね」

「親、厳しいの?」

「分からない。友だちの家に泊まったことないから」

「へえ! それはさびしい」

「なんでちょっと嬉しそうなんだよ。放っておいてくれ」

「さびしい同士仲よくしましょうってこと」

 からかうような調子ではあるが、こちらを見下したような響きは感じられない。

 ここあの受け答えは、いっときよりも少し優しくなっている、気がする。

「少し優しく」というのが、リアル感があって、むずがゆくて、そわそわしてしまう。

 会話しているあいだ、ここあはずっと風呂場にいたので助かった。僕がそういう姿を見せると、あいつは確定で笑いものにしてくるから。

 もしかすると、ここあも照れていて、だから長々と風呂場にとどまっているのかもしれない、なんて思った。


 母親に電話で「友だちの家に泊りたいんだけど」と告げると、僕が犯罪に巻き込まれているのかと疑ったようで、質問攻めにしてきた。

「母さんは心配しすぎだって。僕はもう子どもじゃないんだから」

 定番といえば定番のセリフだが、心配性を笑い飛ばすような言いかたが効果的だったらしい。

「明日も学校は休みみたいだけど、晩ごはんの時間までには必ず帰ってきなさいよ」

 そんな母親らしい言葉を最後に、親子の通話は終わった。

「苦戦してたね。でも、説得成功おめでとう」

 通話途中から戸口に佇んで盗み聞き、もとい堂々と聞いていたここあが拍手をした。

「大事にされてるんだねー。よっ、箱入り息子!」

「入れられていたとしても、せいぜいボロボロのダンボール箱だよ。僕が普段しない行動をとったものだから、母さんが心配性を発揮しちゃってさ」

「だとしても、いいじゃん。少々うざくても、うちみたいに狂っているよりもずっといいよ」

 布が擦れる音に顔を上げると、ここあがキャミソールを脱いだところだった。

 キャミソールの下は黒のブラジャーだけだ。胸は着衣状態のときよりも大きく感じられる。

「……なにやってんだ」

「いっしょにお風呂入ろう。そうしたら、あたしの家がどこかを教えてあげる」

「なんだよ、その交換条件。意味分かんないんだけど」

「照れてるんだ。かわいいねー。で、入るの? 入らないの?」

「ここあさ、そういう脅すような不平等な取引持ちかけてくるの、多くないか」

「かもね」

「……ずるいな」

「褒めてくれてありがとう」

 にかっと白い歯を見せ、腰に両手を宛てて胸を張る。すぐさま僕に背を向け、

「どうせ入るでしょ? 裸、見たいでしょ? さっさと入ってくれば」


 真っ暗な脱衣所からすりガラス越しに見た風呂場にはほのかな明かりが灯っている。

 ここあがスマホを持ち込み、ライト機能をオンにしているのだろう。

 入りづらいな、と思う。

 そう思う僕が全裸なら、待ち構えているここあも全裸。だからこその、ためらい。

 体にタオルを巻いている? あいつはそんな小細工をするような女じゃない。

 体にタオルを巻いて入る? あいつはそんな小細工を許すような女じゃない。

 しかし、約束してしまった以上、「やっぱりやめます」は通用しないわけで。

 一之瀬の住所を教えてもらうためには、気乗りがしないこともやらなければいけないわけで。

 嫌とは言い条、同年代の異性の生まれたままの姿を拝みたい欲望、入浴をともにしたい願望は、健全な思春期男子である僕にはしっかり備わっているわけで。

「――行くか」

 息を長く吐いて腹を決め、ドアを開く。

「おっ」

 真っ先に飛んできたのは、僕を待ち構え、待ち侘びてもいたらしい人の声。視線はしっかりと僕の股間を捉えている。

 その視線が上昇し、僕の視線と重なり、ここあはにやける。

「……なんすか?」

「いや、なんていうか……うん」

 先客は右手で口元を隠して笑いを押し殺した。

 ここあは湯船の中でふんぞり返っている。透明の湯面越しに、ハーフパンツを履いていたときよりも細く見える脚が沈んでいる。

 ついでに、股間の繁みも見えた。

 胸の膨らみは半分以上湯面から露出している。

 当たり前だが、全裸。

 視線を切ってしゃがみ、かけ湯をする。いつもしていることなのに、動きがぎこちなくなっている気がする。ここあが無遠慮に凝視してくるせいだ。

 むずがゆい。落ち着かない。しかい抗議の声を上げる気力はないという、我ながら情けない精神状態。

 バスタブに入るさいには、縁をまたぐために脚を開く。必然に股間のものをさらけ出すことになる。隠しながらだと、「またいで中に入る」という行為の難易度が嘘みたいに跳ね上がり、挙動は欠陥ロボットのそれに近づく。開き直って堂々と振る舞ったほうが楽なのに、自分の一挙手一投足を意識してしまう。

 ここあが水中でゆっくりと脚を動かして膝を立てた。生じた隙間に僕は体を押し込む。そう窮屈ではないが、体と体が触れ合わずに済む物理的なゆとりがあるわけではない。

 隙間に体が収まる。向かい合う形だ。小島のように浮かぶ膝頭、小島と呼ぶにはいささか刺激的すぎる一対の膨らみ、にやついた顔。入浴中ということで、髪の毛は後頭部で団子状にまとめられている。

 ここあは恥じらうそぶりはいっさい見せない。

「どうしたの、佐伯。人の顔をまじまじと見ちゃって」

「見てないよ」

「じゃあ、なにを見ていたの。おっぱい?」

「顔だけど、まじまじとは見ていないっていう意味だよ」

「それだけじゃないよね。入るとき、あたしの体を見ていたよね。舐めるように。そのせいでバスタブに入る動作がむちゃくちゃスローになってた」

「むちゃくちゃではないだろ。見てもないし。暗いから慎重になっていただけだよ」

「どうだか」

 ここあが両脚を伸ばし、僕の脚に軽く押しつけてくる。逃げ場がないので、弱い圧力を受け入れるしか選択肢がない。湯とはまた違うぬくもりが伝わってくる。

「で、どう? 今まさにあたしと混浴している感想は」

「……なんでこうなったのか、さっぱり分からない」

「そんなの、親睦を深めるために決まってるでしょ。裸の付き合いってやつ」

「裸じゃなくても親睦は深められるだろ。ていうかさ、そこまでしなくても、僕たちの仲は充分に深まってないかな」

「いや、まだまだ。深ければ深いほどいいものだからね、男女の仲は」

「語弊がある言いかただね。友情と言い換えてほしいな」

「男と女の繋がりではあるじゃない。で、あたしのおっぱい、どう?」

「……はあ?」

「はあ、じゃない。言葉どおりの意味で訊いてるの」

 ここあは僕を蹴ろうとしたが、動かせるだけのスペースが足りない。押しつけられた脚が押しつけられたまま動いたのが物理的に伝わってきただけだ。

 ただ、状況が状況だけに、そんなささいな動き一つだけでも体温は上昇する。湯に浸かってまだ五分ほどだが、もっと熱い湯に半時間くらい浸かっているかのようだ。

「なにもつけていない状態だと、着衣状態とはかなり印象が違うでしょ。感想、どうぞ」

「それは……。大きいな、とは思うよ」

 なにを真面目に答えているんだ、僕は。

「形、きれいでしょ。大きさと形の大きさが両立した理想のおっぱいだと思うんだよね。もう少し大きいと、どうしても重量に屈しがちになっちゃう。あと、乳輪はどうかな? きれいなピンク色で、そそるでしょう? 整った形と相俟って」

「僕にどう答えてほしいんだよ。話したいことがあるなら、さっさと本題に入ってくれ」

「えっ! そんなにお気に召さなかった?」

「いや……そんなことはない。きれいではある、と思うよ」

 ほんと、なにを言っているんだ、僕は。

「美しいけど、美しすぎて直視しがたくて、感想が言うのが恥ずかしくて、ついぶっきらぼうな言いかたになってしまった。そういうこと?」

「だから、自分が言ってほしいセリフを言わせようとするの、やめろって」

「どうしたいと思った? 舐めたい? 触りたい? おっぱいを揉むときは脇の下から手を通す派? それとも腕ごと抱きしめたいタイプ?」

「もういいよ。なんなんだよ、この話の流れは……」

 満足に出てきてくれない言葉に代わって、湯面を叩くことでいら立ちを表現しようとしたつもりが、中途半端な弱い一撃になった。

 それをひっくるめて、僕のリアクションが愉快でならない、愉快なやりとりを長く続けたかったから我慢していたが、それも我慢の限界だとでもいうように、ここあは朗らかな笑い声を浴室内に響かせた。

 抗議の意味を込めて睨んでやったが、顔を直視できなかった。話題に上ったばかりの胸の膨らみに、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。

 情けないような。いっそのこと、開き直って魅惑的な映像を堪能したいような。

 自分でも自分の気持ちをどう表現すればいいかが分からなくて、物理的にはもちろん、心理的にも無抵抗に、年齢よりも幼く感じられる笑い声をただ聞いている。

 マジでなんなんだろう、この時間は……。

「じゃあ、あたしの感想もいい? 佐伯の裸を見た感想」

「えっ、なにそれ。怖っ。やめろよ……」

「あ、そういうリアクションなんだ」

「そりゃそうでしょ。嬉々として訊きたがるここあが異常なんだよ」

「あたしはそうは思わないけどなー。気にならない? 他人からの評価」

「裸を批評されたくないよ。自慢できるようなものを持っているわけでもないし」

「たしかに、普通だったよね。佐伯のちんちんのサイズ」

「ピンポイントかよ」

「女の子が気になるところなんてそこ一点でしょ。いいよね、男子は。おっぱいとあそこ、二か所も見所がある。で、ちんちんに話を戻すと」

「戻すな」

「印象論で申し訳ないけど、ちんちんってどれもだいたい同じに見えるんだよね。同じものは一本としてないのは分かるんだけど、顕著な違いがないっていうか。ちんぽがたくさん用意されていて、その中から佐伯のちんぽを選び出しなさいっていう問題が出されたとしたら、あたし正解踏める自信ないよ。無理ゲーだなって思う」

「なんだよ、その狂ったシチュエーションは。この世の終わりじゃん」

「たとえだって、たとえ。逆に、男から見るとどうなの? 女の子のおっぱいとかあそこって、区別つく?」

「上は、わりと分かるかもしれない。無数の中から選び出しなさい、的なテストが仮にあったとすれば、男が対象の場合よりは正解率は高いんじゃないかな。下は、隠れている部分も多いし、男の下よりも分かりにくいと思う」

「……なに真面目に答えてんの、きもっ」

「ここあが答えろって言ったからだろ!」

 この流れだと大丈夫だと思ったのに。……くそっ、恥ずかしいな。

「とにかく、ありがとう。男女差が分かって勉強になったよ。むちゃくちゃ参考になった」

「親睦を深めるのが目的じゃなかったのかよ」

「こういうくだらないやりとりも役に立っているんじゃない? あたし、楽しくて好きだけどな」

 ここあは両手を組んで頭上に突き出し、ぐっと伸ばす。使っているのは上半身だけだが、全身で伸びをする猫を僕は連想した。

 なんというか、自然体だ。

 今過ごしている時間が楽しいんだろうな、と伝わってくる。

 その姿は、互いが置かれている状況も、裸のことも忘れて、まっさらな気持ちで見とれてしまうような魅力がある。

 この状況でそんな瞬間が訪れたことが信じられなくて、呆然としてしまって、見とれる時間は長引く。

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