僕はきっと、
物思いに耽ってしまう。
耽るだけの時間と心のゆとり、その両方を確保できたのは、りりあが死んでからというもの、このアパートの屋上に来た今が初めてだ。
黙ると気分が沈んでしまいそうだから、なるべくしゃべっていたかったんだけど、つい口をつぐんでしまった。
ただ、結果オーライ。次から次へと考えや想いが胸に浮かんできたおかげで、ネガティブな感情に心を囚われる事態は免れた。
佐伯も空気を読んであたしを放っておいてくれている。あいつはなんだかんだ、空気を読むのが上手いなって思う。
いろいろなことを考えたり思い返したりした。
中でも印象深く振り返ったのは、ソフトクリームを食べながらりりあとの思い出話を話したさいに、よく感極まらなかったな、ということ。
なるべく明るく楽しくという方針のもとに話したから、というのももちろんあると思う。でも一番の要因は、たぶん、悲しみの感情の噴出口に蓋をしているからだ。
一つのエピソードを掘り下げるのではなく、いろんな思い出を短いスパンで紹介していくという形をとったのも、悲しみに囚われない対策の一環だった。
あたし自身も途中から忘れちゃっていたけど、りりあのことを話したそもそもの目的は、佐伯にりりあのことをもっと知ってもらうため。
数を打つこと。質を追求すること。どっちも同じくらい大事だと思うけど、あたしの語りは前者に重点を置いたものになった。
『交通マナーを守るって話が出たから、佐伯はりりが生真面目な子だっ思ったかもしれないけど、そうとは言えない部分ももちろんあるよ。基本真面目なんだけど、ずるい一面も普通に持っているしね。あたし相手には子どもみたいにあまえてくることがあって、そのときはわがままになんだ。でも芯はいい子だなって分かる感じのわがままで、それがまたかわいくて。具体的なエピソード? 多すぎて一つに絞るのは難しいけど、かわいいやつで言えば――』
そんなふうに、一つの単語では表しきれない、りりあという個人の深みがあって広がりもある唯一無二の個性を紹介したかった。理解してもらうという意味でも、大好きな双子の姉についてしゃべりたいという意味でもしたかったんだけど、自制心に「やめておけ」と忠告されて、それに従った。
ひとえに、あんな悲しみをもう二度と味わいたくなかったから。
そのくらい、りりあが自殺したと聞いた直後の悲しみは絶大だった。
体が千々に引き裂かれるような――この世の終焉が来たような――一生涯で味わう悲しみと絶望がいっぺんにまとめて襲いかかってきたような――。
言葉を紡いでいて自分でも大げさだと思うけど、それくらい巨大な感情だった。
あの危機を乗り越えて、よくぞこうして佐伯といっしょに過ごせているなって、自分で自分に感心してしまう。
あまりにも普通すぎて自覚が薄かったけど、冷静に考えるとこれはマジで凄いことだ。
あのあくあと日常をともにすることで、精神力が鍛えられたのが功を奏したのかもしれない。
本来、大切な人を亡くした人間が立ち直るには、もっと長い時間をかけるのが普通だと思う。
専門家や身近な人間などの力だって借りないといけないだろう。
でもあたしは、こんなにも短時間に、佐伯一人の力を借りただけで、その目標を見事にクリアしてしまった。
建物に例えれば、外観的にはビルを建てられたというだけで、少しの揺れで崩れてしまうような不完全な完成なのでは?
もし崩落するなんてことになったら、あたしの心はどうなってしまうの?
そんな最悪の事態を未然に防ぐ心得のようなものはないだろうか?
ついつい考え込んでしまうけど、そろそろ行かなくちゃ。りりあから賞賛されたように、あくあから侮蔑混じりに言われたように、あたしは元気と行動力だけが取り柄なんだから。
さっきからずっと佐伯の視線を感じることだしね。
「そろそろ帰ろっか」
おもむろに金網フェンスから体を引き剝がし、全身を使った伸びをして、僕のほうを向いてのここあの呼びかけだ。
声をかけられるまで、僕はここあが貼りついていたのとは対面のフェンスに背中にもたれて胡坐をかき、彼女の尻を眺めていた。スマホをいじるとか、他にもいろいろやったけど、なんだかんだその時間が一番長かったと思う。
いつの間にか、西の空はうっすらと赤らんでいる。
「ところで、佐伯は前向きになってくれた? あくあからりりあが自殺した事情を訊き出す件」
「あ……忘れてた」
「なんのために一人でそんなところに座らせたと思ってるの、まったく。座禅を組んでおいてこの体たらくはないでしょ」
「座禅はしてないから。待っているあいだはたしかにいろいろやったけど、座禅はレパートリーの中になかったからね」
「いろいろって、具体的には?」
「それは……」
「どうせエロい妄想してたんでしょ。無防備なあたしをバックから犯すとか」
そこまで過激ではなかったが、同じベクトルの空想をしたのは事実なので反論できない。
ここあは腰に両手を当ててため息をつくという、芝居がかったしぐさをした。僕は気を取り直すように空咳をしてから言う。
「真面目に答えると、気持ちは多少前向きになった、かもしれない」
「じゃあ、頼まれてくれる?」
「まだ抵抗はあるね。まだ怖いよ。だって、りりあに対する親しみは深まっても、君のお姉さんに対する恐怖心が減退したわけじゃないから」
「ああ、なるほどね」
「ここあに協力したい気持ちはあるよ。その気持ちは時間が経つにつれてだんだん高まってきてる。でも、最初に比べるといくらか和らいだかもしれないけど、関わりたくない気持ちは不動だよ。残念ながら変わっていない」
「あと何押しくらい必要?」
「十押し、くらいかな」
「は? 多すぎなんだけど」
「正直に言っただけだよ。残念ながら誇張じゃない。自慢じゃないけど、僕はびびりなんだ」
情けないセリフだと思いながらも、我が身の安全に関わることはちゃんと主張しておこうと、せいいっぱい毅然とそう言葉を返した。
ここあは感情を鎮めるように長く息を吐いた。
「同じ景色を眺めるのも飽きるから、場所を替えて説得を続行しようかな。気分が変われば佐伯の気も変わるかもしれないし」
「次はどこに行くつもり?」
「秘密基地に帰る。暗くなるし、そろそろ食事がしたいしね。途中でコンビニとかに寄って晩ごはんと明日の朝食を買おう。もちろん、食後のデザートも」
「なんか食べてばかりだなぁ」
「ばーか。それが生きるってことでしょ」
帰り道、背の低いビルとビルに挟まれて心療内科が建っているのを見かけた。
看板にもっとも大きくつづられている文言は「〇×クリニック」だが、注釈するように隅に小さく「心療内科」と記銘されていたので、そうだと分かった。
行きに存在に気がつかなかったのは、幼稚園児のようにソフトクリームに夢中になっていたからだと思う。
僕はこのあたりにはあまり来ないから確証はないが、少し前まではたしかこんな建物は建っていなかったはず。
現代人の心は病んでいるし、荒んでいるから、引く手あまたなのだろう。
一之瀬さんも心療内科の診察を受けていれば、もしかしたら――。
後の祭りだと分かっていても、そんなたらればを思ってしまう。
心が少し痛んだけど、努めてあの映像のことは思い出さないようにした。
「なんか無性に食べたくなるんだよねー、揚げ物の総菜。マジ美味いからね、アジフライとか」
緩やかに沈んでいく僕の心など知りもしないで、ここあは夕食に食べたいものについてべらべらしゃべっている。
能天気というか、なんというか……。
でも、りりあの死に囚われて、浮かない顔をしているよりも千倍ましだから、相槌を打ってしゃべりたいだけしゃべらせておく。
――心療内科。
僕自身も家族も世話になった経験がないし、親戚知人が世話になったという話を聞いたこともない。
主にフィクションの物語などに描かれた情報などを参考に構築された僕の心療内科のイメージは、気軽に入れる精神科。
入口に設置されたハードルは決して高くないと思うのだが、それすらもりりあは越えられなかったのだろうか?
あるいは、診察を受けた甲斐なく屋上から跳んだとか。
……暗澹たる気分だ。
今、僕の心に垂れ込めている雲は、暗いとか黒いとかじゃなくて、頑固。よほど効力が高い薬でも処方しないかぎり、決して立ち退いてくれそうにない。
本当に、どうして自殺なんかしてしまったんだろう。
たしかなのは、りりあは途方もなく濃く、深い闇を抱えていたということ。
死という形でしか清算できないような巨大な闇を。
その闇は、己の内側から湧き出てきたものなのか。それとも、外側から押しつけられたものなのか。
ここあは、後者だと言う。
双子の姉妹の一つ上の姉のあくあのせいだと。
そのあくあに、なぜりりあが死ぬことになったのかを俺に訊き出してほしい、そうここあは要請した。
……僕にできるのか?
血が繋がった姉妹のここあでも無理だった相手に、赤の他人の、部外者の僕が太刀打ちできるのか?
「でさ、必ずポテトサラダを買っちゃうんだよね。なんの捻りもないシンプルなポテトサラダ。揚げ物とポテサラだとかなりカロリー高くなっちゃうのに、気がついたらかごに入っているっていうね。ポテトコロッケを買ったのにポテサラっていう、わけの分かんない事態にもたまになって――」
ここあが妙に熱くスーパーの総菜について語り、僕が物思いに耽っているあいだも、合計四本の脚は絶え間なく動き続け、心療内科の建物はやがてビルの陰へと消えた。
しかし、僕の胸に心療内科の四文字は残り続ける。
仮に、りりあが生前、僕に悩みを相談してきたとしても。
僕はきっと、カウンセラーとしての役割は果たせなかっただろうな。
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