屋上から見た世界

 ソフトクリームを食べ終えるか終えないかのタイミングで、「うわー、最悪」というここあの声。

 何事かと注目すると、彼女は眉間にしわを寄せて僕を見返した。左手はあと一口か二口といった残量のしながらコーンが握られていて、右手の一部が白く汚れている。

 ここあはコーンを口に押し込んで咀嚼、

「手、洗いたい。佐伯はティッシュ持ってないの?」

「持ってない。コンビニとかのトイレを借りるしかないね」

 しかしあいにく、店自体が近くには一軒もない。目的に適う施設を探して道なりに歩いていると、

「あっ、あった。あそこを使おう」

 ここあの視線の先にはアパートがある。六階建て。建物の正面、駐車場の隣の芝生の上には子ども向けの遊具などが置いてあり、ちょっとした公園のようになっている。駐車場に近い場所に水飲み場兼水道が設置されていて、ここあはそれのことを言っているらしい。

「勝手に入っていいの? オープンな雰囲気ではあるけど」

「だめだと思うけど、無視しよう。死ぬほど手を洗いたいから」

「相変わらず自分勝手だよね。一之瀬さんがいたら絶対に怒られてるよ」

「怒られようが怒られまいが、あたしが洗うと決めたからには洗うの」

 ここあは手早く目的を果たした。敷地の入口に立って待つ僕のもとに戻ってくるのではなく、水道のすぐそばに佇んでアパートを見上げる。

「ここあ、どうしたの? なにか気になるものでも?」

「屋上まで上ってみない? ていうか、上ろう」

 屋上。

 その単語を聞いた瞬間、僕の周りの空気の温度が少し下がった気がした。周囲で聞こえていた音も遠のいた。

「……ここあはもしかして、最初からここに来るつもりだったの?」

「まさか。偶然見かけただけの、なんの縁もゆかりもないアパートだよ」

「じゃあ、どうして? 屋上、本当は――」

「いいから上ろう。ほら、行くよ」

 なおもためらっていると、ここあはおもむろに僕へと歩み寄り、まだ濡れている手を僕のシャツの裾になすりつけた。どこか意味深に僕に微笑みかけ、アパートへと歩を進める。

 戸惑い、ためらいながらも、彼女に続く。

 ここあの頭の中は、はっきり言って読めない。

 仲がよかった姉が死んだ、屋上。飛び降りた現場ではないとはいえ、同じ屋上。できれば近づきたくない場所のはずなのに。

 ここあが先頭、僕がその後ろという隊列で外階段を上る。

 僕に頼みごとをしたのも、あくあに対する怒りと憎悪をたぎらせているのも、すべて現実に向き合っているからこそ。

 そういう人間は自ら死を選ばない、気がする。

 仮にりりあのあとを追うつもりなら、りりあと同じ高校の校舎の屋上を選んだはずだ。赤の他人の僕のことなんか放っておいてさっさと飛び降りたはずだ。

 アパートの近くに来たことで、急に自殺願望が湧き、決行を決めたという雰囲気でもない。

 ただ、ソフトクリームを舐め、りりあの思い出話をしながら歩いていたときとは、明らかに雰囲気が変わった。

 緊迫感がほのかに漂い始めたのだ。

 たとえば僕がなにかつまらない冗談を口にしたとすれば、これまではいっしょになって馬鹿笑いをしていたのが、「耳障りだ」と怒りを表明しそうな。

 最後の物理的関門たる重厚な鉄のドアは、不用心なことに無施錠だった。

 四本の手で押し開いた僕たちを出迎えたのは、地上よりも六階分近くなった青空と太陽。

 味気ないコンクリートの床が一面に広がっている。広さはバスケットコート二面分くらい。

 空間を囲繞しているのは、僕たちの背丈よりも高いが、乗り越えようとすれば乗り越えられそうな高さの金網フェンス。

 中途半端の高さと錆びついた金網の組み合わせは、どこか投げやりで退廃的だ。

 荒涼とした眺めに、僕はなんだか厳粛な気持ちになる。

「一之瀬りりあは飛び降り自殺をした」という事実が胸を圧し、少し息苦しい。

 その場から一歩も動けない僕とは対照的に、ここあはすたすたとフェンスへ向かう。

 動き出した瞬間はひやりとしたが、足取りはしっかりとしている。

 ここあは金網フェンスにしがみつき、下界を見下ろす。

 かしゃり、という音が僕を金縛りから解き放った。

 少し深めに息を吐き、足音を立てないように歩いてここあの横に並ぶ。横顔を見つめる。

 第一印象としては、物憂げ。

 なにかに思いを馳せているような。ここではない世界に存在するなにかを見つめているような。

 いや、なにかじゃない。分かりきったことじゃないか。

 りりあだ。ここあは現実世界に生きながら、現実世界には存在しないりりあを見ている。

「ここあ、大丈夫?」

「ん? なにが?」

「だって、屋上は一之瀬さんが……」

「知ってるよ。でも、別にこの屋上から飛び降りたわけじゃない。距離だって離れているし、階数だって違う。四階建てだって聞いたけど」

「そうだね、四階建ての校舎の屋上からだった。ここあはどうして、このアパートの屋上まで行こうと思ったの?」

「近づきたかったからだよ。りりあが死んだ状況に近づきたかったから。

 でも、いざ来てみると、全然実感湧かないな。校舎じゃないとか、建物が四階建てじゃないとか、たぶんそういうちっぽけなことじゃなくて、もっと根本的ななにかが違うんだろうね」

 僕もここあに倣って金網フェンスの網目越しに世界を見下ろしてみる。

 ここあが言う「根本的ななにか」がどこかに落ちていないだろうか、という気持ちで。

 僕たちが上ったアパートは、ソフトクリームの店があった通りから少し入った場所に建っている。

 僕たちが貼りついているフェンスが面しているのは、通りの反対側。

 住宅が多い。割合としてはアパートやマンションよりも、断然一軒家。

 上からだと庭の全容がよく見える。狭い庭、広い庭、雑草が繁茂し放題の庭、庭木や花壇や家庭菜園が整備された庭。

 道を歩いている通行人や自転車もちらほら見かける。

 一言で評せと無茶振りをされたとすれば、強いて挙げるなら、のどか。いい意味でと言うべきか、それともよくも悪くもと言うべきなのかは、正直かなり微妙なところだけど。

 生活があるな、と思う。

 ただし、僕たちがいる世界からは遠い。隔たりを感じる。

 この景色が、自殺を決意したりりあの目にどう映り、なにを感じさせたのかは知る由もない。

 これと同じ景色は絶対に見ていないのだから、想像するのは無意味なのかもしれない。

 それを承知であえて想像するなら――たぶん、自殺の意思が揺らぐことはなかったんじゃないか。

 見下ろした地上が僕に示したのは、優しい無関心。

 りりあの心がいっそう陰ることはなかったにせよ、やっぱり飛び降りるのはやめておこう、という方向に気持ちは動かなかった気がする。

 同じく、反発心を生きる力に転換することも。

 一言でいえば、本質的に自分の力にはなってくれなさそうな感じ。

 だから、怒りも悲しみもない。

「力になってくれない」と悟った瞬間には、もしかしたらどちらかの感情が込み上げたかもしれないが、すぐに鎮静してしまうような。

 肩にこもっていた力は少し抜けたと思う。ただし、行おうとしていることに支障がない程度に。

 無関心というのは、ようするにそういうものだ。

 あとになって振り返れば、もしかしたら、「そういうものなのだ」と悟れたかもしれない。

 しかし、りりあは跳んでしまった。死んでしまった。

 だから、もう永遠に気がつけない。

 死というのは、ようするにそういうものなのだ。

「こうやって地上を見下ろしてさ」

 かしゃり、と金網が鳴る。

 屋上に来て初めて、ここあが僕に顔を向け、口を開いた。

「跳ぶ前になにを考えていたのかな、とか、怖かったのかな、とか。いろいろ想像してみたんだけど、しっくりくるものとは出会えないね。全然ぴんとこない」

 少し眉根を寄せた顔で、もどかしそうに頭を振る。

 口元はどうやら微笑もうとしているらしいが、形になっていない。

 僕は思う。

 ここあはたぶん、「屋上に上る」という選択肢を思いついた時点で、屋上に行ってみさえすれば、なんとなくりりあの気持ちが分かるはずだと踏んでいたんじゃないか。

 しかし実際は、現実は――。

「佐伯、どう? ちょっとは分かった? 自殺直前のりりあの心境」

「……どうだろう。想像してみたけど、一之瀬さんというよりも、僕が自殺するときの心理になってしまうよ。僕が飛び降り自殺をすることになった場合の心の中に。一之瀬さんの場合にも当てはまるかと問われても、自信をもって首を縦には振れないよ」

「だったら、参考までにそれを教えて。佐伯がどう感じたのかを」

「包み隠さずに言うと……。自殺する前に、僕たちみたいに景色を見下ろしたとしても、自殺をやめる理由は見つけられなかったと思う」

「……そっか」

 ここあは小さくため息をつき、金網の外へと顔ごと視線を戻した。

 直後、なにかを思い出したように双眸を少し大きくした。そうかと思うと、表情を引きしめてこちらを向き、真面目腐った口調で、

「双子の姉の気持ちが分からないって、やっぱりやばいかな?」

「無理もないんじゃないかな。だって、りりあが自殺を決行した理由がそもそも不明なんだから」

「……そっか」

 またため息。今度は肩を落とすしぐさつきだ。

 金網越しの世界に顔を戻したのも同じ。

 ただ、今度はもはや僕のほうを向こうとしない。見ようとしない。

 無力感を噛みしめている顔つき。景色以外に意識が向いている人間特有の眼差しだ。

 悔しいというよりも、さびしいのかもしれない。

 そう思いながら、中断する前と同じ景色を見下ろす。

 閑静な住宅地。

 のどかな景色。

 本質的な無関心。

 眺めていても、心が躍り出すことも、世界を変えるなにかが下りてくることもないのだろう。

 凡庸だからというよりも、世界がこちらに無関心だから。

 二度目の「そっか」以来、ここあはずっと口をつぐんでいる。

 横顔を何度かうかがったが、ぼーっとしているようで集中しているような、そんな顔つきがずっと維持されている。

 長くなりそうだけど、文句もため息も吐き出さずに、ここあの気が済むまで付き合おう。そう心の中で決意した。

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