取り壊される秘密基地の中で
「ここあはどこに行こうとしているわけ? ここあが僕にしてもらいたいことって、けっきょくなんなの?」
斜め前を歩くここあの背筋の伸びた上半身に向かって、僕はおもむろに問うた。
食事を終えて店を出たここあは、大通りをしばらく道なりに進んでから脇道に入った。僕の自宅や、彼女が財布を落とした場所から遠ざかる方向だ。
どちらかというと足取りはのんびりしている。なにかに追われているわけでも、なにかを追いかけているわけでもない歩調。
斜め後ろというポジションからもときどきうかがえる横顔は穏やか。剥き出しの白い肩だってほどよく力が抜けている。
「なに急に。てか、訊くの遅っ」
肩越しに振り返り、少し眉根を寄せて僕の顔を見つめながらの発言だ。
「ごめん、考えごとをしていたから」
「なによ、考えごとって」
ここあは足を緩めて僕の隣に並んだかと思うと、耳元に唇を近づけ、
「いやらしいこと? わざとあたしの後ろ歩いていたもんね。お尻を眺めるためでしょ」
「言いがかりはやめてよ。行き先が分からないから、ついていっているだけだから」
「胸を見るよりも、後ろから心置きなく尻を眺めるほうがいいっていう、陰キャ精神ね。あさましい。尻フェチの可能性もあるかもだけど」
「だから、違うってば」
「やっぱりおっぱい派? あたしの乳揉んだもんねぇ。出会って十秒で」
「あれはここあが無理やり――」
「どう? 気持ちよかった?」
「唖然呆然だよ。感想を持つ以前の問題だ」
「では、ここで佐伯に質問です。あたしはなんのために佐伯におっぱいを触らせたでしょうか?」
「それよりも目的地を教えてくれないかな。場所を替えるって言ったけど、ここあは僕をどこに連れて行こうとしているの? 教えてくれないんだったら、僕の役目はもう終わったと見なして、帰るよ」
「もう、怒んないでよ。ノリ悪いなぁ」
小さく舌打ちして僕の耳から唇を遠ざける。
「別にやばいところじゃないよ。入居者がいないアパートがあるの。周りに人がいない静かな環境でゆっくり話をしたくて」
ここあはハーフパンツの尻ポケットに手を突っ込み、ご当地キャラのストラップがついた鍵を顔の横にかざしてみせた。
「……犯罪の香りがするんだけど」
「合法だよ。うちの親が大家をやっている、というかやっていたアパート」
「えっ、マジで? 不動産王?」
「死んだおじいちゃんが経営しているアパートを親が引き継いだの。入居者が一人もいなくなったから、耐震基準の問題もあって取り壊しが決まって。でもまだ工事が始まる前だから、自由に使っても差し支えないわけ。近隣住人からは大家の娘って認識されているから、入っても別に『工事前になにかやることがあるのかな』って思うだけじゃないかな。ちなみに、鍵は勝手に借りてる」
「それは普通に犯罪なのでは?」
「親のものは子どものものでしょ。佐伯もあるよね? 親の財布から万札を無断で借りたこと」
「ないよ。普通は頼まない? まあ頼んだとしても、たいていは断られるけど。高校生になってからは、『欲しいものがあるならバイトしなさい』の一言でばっさりと」
「佐伯家、なんか普通だね。面白味なくない?」
「異常よりはましだよ。ここあの家は面白味があったの?」
「壊れてるよ。家族構成が変わっても状態は昔からずっと同じで、壊れたまま。第三者から見れば面白いだろうね」
壊れている。その言葉が持つシンプルなインパクトの強さに、僕は相槌も打てない。
「お察しのとおり、りりあが校舎から飛び降りた遠因は、うちの家族が、一之瀬家が壊れていたから。詳細は部屋についてからのお楽しみにしておくけど、そのあたりの事情を語りつつ、佐伯に頼みたいことがなにかを伝える形になると思う。それから、りりあが生きていたころの話もしたい。あの子がどんな子だったのかを、佐伯にも知ってもらいたい。だから、目的は一つともいえるし、二つともいえるし、三つでもあるって感じ」
ここあは少し無理をしたように表情を和らげる。
「やめてよ、そんなシリアスな顔。あたしはもっと明るく語りたいの。こんな暗い雰囲気のまま空気を吸ったり吐いたりしていたら、精神をやられて死んじゃうって」
それに続けてなにか言おうとしたが、声は発せられなかった。
暗い雰囲気は嫌。ごもっともだと思う。
でもここあは、おそらくは無意識に、無理に明るく振る舞おうとしている。その方針は、彼女が望んでいる雰囲気を遠ざけてしまうだけの結果しか生まないのでは?
そう思ったが、言えなかった。
言えるわけがないじゃないか。姉を自殺という形で失ったばかりの人に、そんな心ないことは。
しばらく無言の歩行が続いた。
「あれだよ。あそこにずらっと建っているやつがそう」
いきなり強く背中を叩かれたと思ったら、ここあの細い人差し指は前方を指している。
アパートと聞いて、三階から五階建てくらいの建物をなんとなく想像していたのだが、粗末な木造平屋が何棟か連なった建物群だった。長屋、という言葉を僕は思い浮かべた。
「ぼろすぎてびびった?」
問建物を指差したままここあは問う。なぜかにやにやしている。
「老朽化してるね。取り壊すのも仕方ないかな、レベルで」
「なにせおじいちゃんあばあちゃんの代から建っているからね。住人が何人かいたけど追い出して、新しいアパートを建てるんだって。そのほうが儲かるから」
「新しくきれいな建物を建てるんだね」
「そういうこと。ぼろくて家賃も安いから、わけありの連中しか借りてくれなかったんだ。生活保護受給者とかね。おばあちゃんが軽度の認知症だったから、それにつけ込んで一か月分の家賃を誤魔化そうとするアホとかもいて」
「それは、なんていうか……」
「底辺だよね、底辺。社会の最下層のドブ。うちの親も、ようやく負の遺産を清算する気になったってわけ。……一番大きくてやっかいなごみは手つかずだけど」
ここあが真っ直ぐに歩み寄ったのは、もっとも手前にある一戸。
長屋は間近で見ると、遠目から見たときよりもみすぼらしく見える。
ここあが鍵を開ける。建てつけの悪い木戸が醜い音を立ててぎくしゃくと開く。
中は埃っぽくて、薄暗くて、狭い。全室見て回った感じ、全体的に年季が入っていて、ごみが落ちていないのに薄汚かった。そりゃ取り壊しも決まるよね、というような。
「どう? あたしの秘密基地は。やばいっしょ?」
「やばいね。住みたくはないかな。トイレ、和式だし」
「風呂は狭いしね。あ、ちなみに水道は通っているから、嫌な思いをしながらうんこもできるよ。風呂だって一人さびしく入れる」
「謹んで辞退するよ」
「ちなみに、裏口のドアの鍵は壊れていて施錠できないし、トイレットペーパーは買い忘れて残り一ロールしかない」
「最悪じゃないか」
僕たちは和室に移動した。人が住んでいたころは居間だっただろう一室で、四畳半の中央に白いローテーブルが置かれている。僕たちはそれを挟んで腰を下ろす。座布団も敷物の敷かれていないが、清潔さは特に問題なさそうだ。
「秘密基地ということは、たまにここに来て過ごしているんだね」
「そうだよ。たまにじゃなくて、わりかし頻繁かもしれない。こんな場所でも家よりはましだから。時と場合によってはね」
「でも生活感っていうか、誰かが使っている感はあまりないね」
「どうせもうすぐ取り壊しになるから、物をたくさん置いておくのは抵抗があって。もう少し過ごしやすく改造したい気持ちはあるんだけど」
ここあは天板に肘をついてこちらに身を乗り出した。胸元から白く透き通った谷間が覗く。姉妹では最大ではないかもしれないが、充分にでかい。
「じゃあ、話を始めちゃおうかな。もったいぶるようなことでもないし。流れの中で『佐伯にこうしてほしい』って言ってほしい? それとも、先に言ってから説明する?」
「じゃあ……流れの中で」
「やっぱり。びびりっぽいもんね、佐伯は」
どこかほっとしているようにも見える顔つきで、ここあは語り始めた。
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