ヘミングウェイ

 りりあが死んだ。

 通っている高校の校舎の屋上から飛び降りて、十六歳で帰らぬ人となった。

 遺書すら遺さずに逝ってしまった。

 原因は分かっている。

 あの子の一番近くで生きてきたあたしに、分からないはずがない。

 原因は、あいつだ。あいつ以外に考えられない。

 大切な人を突然亡くした悲しみと喪失感は尋常じゃなかった。

 それでいて、小一時間顔にはどん底の精神状態から脱せたのは、復讐という明確な目標が生まれていたからに他ならない。

 ただ、敵はあまりにも強大で。

 認めるのは悔しいけど、あたし一人の力では太刀打ちできなくて。

 でも、あたしの力になってくれそうな人間に心当たりはなくて。

 いったん抑え込むのに成功していた悲しみと喪失感がぶり返して、自暴自棄になって、平日昼間の人もまばらな駅前交差点であたしは突如として足を止め、声のかぎり絶叫した。そして、しゃにむに駆け出した。どこへ行きたいのか、なにから逃げたいのか、自分でも分からないままに。

 閑静な住宅地まで来たところで制服姿の少年とぶつかって、また走って、走り疲れて歩みを止めて、財布を落としたことに気がついた。

 キャッシュレスのご時世だし、金なんて数百円しか入っていない。

 でも財布には、金よりもはるかに大切なものも入っている。りりあといっしょに撮ったプリクラが。

 本当に大事なものはデジタルでは代用できない。アナログで、肌身離さず持っているからこそ意味がある。

 現場に引き返そうかとも考えたけど、財布は少年とぶつかったときに落としたはず。真面目っぽい彼なら交番に届けているはずだと考えて、目的地を変更した。

 でも、届いていなかった。

 そこで現場に行ってみたら、冴えない顔をした少年があたしを待ち構えていた。あたしとぶつかった、あの少年が。

 顔を見た瞬間、あたしは予感を覚えた。

 再会したときは私服に着替えていたけど、ぶつかったときの彼は、りりあが通う高校の制服を着ていたことを思い出したから。

 立ち話をしてみた結果、予感は的中した。なんとその少年――佐伯剣は、りりあのクラスメイトだったのだ。

 あたしは運命を信じない。でも、自分に都合のいい偶然はとことん利用してやろうって思う。

 喧嘩は弱そうだし、頭が切れるって感じでもない。ちょっと話をしてみたかぎり、お世辞にも話術は巧みとはいえないし、強靭な精神力の持ち主でもなさそうだ。

 協力者として見た場合、ランクとしてはたぶん最弱。

 なんなら、他の候補者を一からあたったほうがいいんじゃないの、くらいの。

 だとしても、あたしはこの偶然に乗っかってみようと思った。

 ひとまず、あたしたちがするべきことは――。


「佐伯、腹ごしらえしようか。なにか食べたいものはある?」

 歩き出して約五分、沈黙を破ったのはここあだった。

「うーん、特にないかな」

「うわっ、なにそれ。そういうオールオッケー的な返事、寛大に見えて無責任だから、一番テンション下がる。あんた、つまんないことしか言えない呪いにでもかかってるの?」

「かかってないよ。食べたいものが浮かばないって、そんなにだめなことなのかな」

「もうちょっと面白いこと言ってよ。ウィットのきいたさぁ」

「僕には難しい、かな」

「ほんと情けないな。絶対に女にもてないでしょ」

「それは放っておいてよ。そう言うここあはなにが食べたいの?」

「がっつりしたものがいいな。肉とか、揚げ物とか。でも矛盾するようだけど、量か質かだったら後者なんだよね。もちろん、ある程度のボリュームを確保するのが絶対条件だけど。どうせ食べるなら、ありきたりなチェーン店じゃなくて、個人経営の薄汚い店でもなくて、若くてちゃらちゃらした女の客がいないようなところがいいな」

「注文多っ。むちゃくちゃこだわるね」

 若くてちゃらちゃらしているって自分のことじゃないの? そう思ったけど、口にはしない。今のところ、ため口で気軽にやりとりできているけど、ちょっとした失言で暴力的なリアクションが返ってきそうな怖さはある。

「前の二つは分かるけど、若い女性がいる店は嫌って、どういう理屈なの」

「そういう店は見映えばかりに気をつかって、肝心の味は全然美味しくないから。あと、皿が異様にでかくて、余白にソースで落書きしてる」

「凄い偏見だね。嫌な思い出でもあるの?」

「いや、マジでそんな感じだから。さては佐伯、おしゃれなカフェとか行ったことないな」

「恥ずかしながら、ないよ。ここあはカフェ巡りが趣味なの?」

「嫌いではないけど、そもそもこの町におしゃれなカフェってあんまりないから」

「やっぱり偏見じゃん」

「おしゃれかは別として、たまに行ったりはするから。……って、ツッコミ役やらせないでよ。あたしはボケたいの」

 無駄話なども交えながら言葉を交わす中で、テラス席があるカフェで食事をとろう、というふうに話がまとまってきた。

「おっ! あった、あった」

 商業施設が数多く建ち並ぶ通りに入ってすぐ、テラス席が設けられたカフェを見つけた。ここあを先頭に僕たちは入店する。

 テラス席には二人掛けのテーブルが四セット用意されていて、いずれも空席だ。

 店内はおしゃれだが敷居は高くない印象で、三十歳前後の女性が数名と、大学生と思しきカップルが一組。

 僕たちは彼らを素通りしてテラス席の空席に向かい合って座り、メニューを広げる。特定の国や地域の料理ではなく、ポピュラーな洋食を幅広く取り揃えました、というラインナップだ。

「おっ、エビカツサンドだって。あたし、これにしよっかな。エビってさ、なんかそれだけでもうテンション上がらない?」

「分かる。料理にエビが入っていると、それだけで格段に魅力的に見えるよね」

「だよね、だよね。トンカツサンドは――残念ながらないね。和食だからかな。……ん? トンカツって和食だっけ? それとも洋食?」

「ないってことは和食扱いなのかもね。文明開化のときに外国から入ってきたはずだから、洋食っぽいけど」

「じゃあ、かき揚げも洋食だね。かき揚げサンドはメニューにないから」

「なんで急にかき揚げ?」

「トンカツと同じで、洋食か和食かよく分からない揚げ物でしょ。佐伯はかき揚げの具材だとなにが好き? あたしはサツマイモかな」

「いいね、サツマイモ。僕は、なんだろう。にんじんとか?」

「にんじんって……。山ほどある候補の中でそれを選ぶ? なんか違くない?」

「ぱっと浮かんだのがそれだったんだよ。いいでしょ、にんじん。火を通すと甘くなるし、栄養価も高くて」

「なに、その必死な弁明は。もしかしてあんた、前世はうさぎ? それともにんじん農家の跡取り息子?」

「前世は知らない。親は、地方公務員とパートタイマーだよ。むちゃくちゃ平凡でしょ」

「公務員か。いいじゃん、安定してて。佐伯も安定感ある料理選び、見せてくれるんでしょうね」

「普通に食べたいものを選ぶよ」

 ここあは食べたそうにしていたエビカツサンドはスルーし、スクランブルエッグサンドとペペロンチーノを選んだ。

 普通に食べたかったので、代わりに僕がエビカツサンドを注文する。

 エビカツサンドは、むちゃくちゃ美味しかった。

「まずまずじゃん。さすがは皿が大きすぎないだけある」

 一方のここあもなかなかの高評価だ。

「今まであまり経験がなかったけど、日の当たる屋外で友だちといっしょに食事って、いいね。凄く新鮮だし、楽しいよ」

 今日の天候に触れるような軽い気持ちでそう言ってみる。

 ここあはスパゲティを大量に巻きつけたフォークを虚空に止め、「なに急に言い出してんの、こいつ」的な目で僕の顔を見た。

「ヘミングウェイの小説にあった、パリのカフェで食事をするシーンを思い出したよ。『日はまた昇る』だったかな。といってもこまかい描写までは覚えてなくて、主人公一行がカフェかどこかで食事をする場面が描かれていたな、程度の記憶しかないんだけど」

「ヘミングウェイって、小説を書く人?」

「そうだよ。アーネスト・ヘミングウェイ。ロストジェネレーションにカテゴライズされている、超がつくほど有名なアメリカの作家だね。代表作は『老人と海』に『誰がために鐘は鳴る』、それから――」

「いや、知らん、知らん。本なんて興味ないから」

 ここあはペペロンチーノをやっと口に押し込み、咀嚼のち嚥下してから語を継ぐ。

「作品名を列挙されても、分からないよ。そのおじさんの個人的な面白エピソードでも教えてよ、文学少年」

「いや、文学好きってほどじゃないけど。ヘミングウェイのエピソード、か。あまり詳しくないけど、ヘミングウェイは男らしい作家っていうイメージはあるかな。闘牛が好きで、狩りとか釣りとかも趣味だったみたいだね。だけど最後は猟銃で自殺――」

 はっとして息を止める。

 ここあはアイスコーヒーのストローに口につけてフリーズしている。表情が消えた顔が少し持ち上がり、僕を見返した。

 道を行き交う自動車の走行音さえ聞こえなくなった。

「どうしたの? 急にしゃべるのをやめちゃって」

「いや、その……」

 グラスがテーブルに置かれ、氷の音を奏でられた。椅子の背もたれに背中を預け、腕組みし、空を仰いでため息。すぐにポーズを解いて上体を真っ直ぐにする。

「少しのあいだくらい嫌なことを忘れたかったんだけど、無理か。なんとなく分かっていたけど、やっぱり小手先の誤魔化しは……」

 ひとり言のようなここあのつぶやきは、僕を責めるのではなく、己の過ちを静かに悔やんでいた。

 僕は思い知らされた。

 その表現が間違いだというのなら、思い出したと言い換えよう。

 一之瀬りりあの自殺がここあに与えたダメージは、あまりにも大きすぎる。

 当たり前だが、ただのクラスメイトの関係でしかない俺とは比べものにならないくらいの大ダメージ。

 沈黙が息苦しい。

 この状態を終わらせるのは、たぶん僕の義務なのだろう。

 ただ、下手なことを言って傷口を広げたり、感情を逆撫でにしたりする結果になったらと思うと、怖い。

「佐伯が自殺って単語を口にした瞬間、固まっちゃったよね。琥珀の中の昆虫みたいになっちゃった」

 弾けるような瑞々しさは微塵も感じられない、平らな印象の声が沈黙を破った。

 浮かれていた人間の姿勢を正させるような。もともとしゃんとしていた人間の全身を石にするような。

「佐伯が話を振ってきたらそのときは話そうかな、みたいなつもりでいたんだけど、やっぱりだめだ。まあ、平気なんだったら事前に言っているよね。姉のことは全然気にしていないから、りりあのことでなにか知りたいこと、話したいことがあれば遠慮なく言って、とかなんとか。それがなかった時点で――まあ、そうだよね。いっしょに暮して、あんなことになって――はぁ……」

 ため息。それとともに顔をうつむける。というよりも、項垂れた。

 無力感を覚えながらそれを見つめることしかできないでいる僕の頭の中に、もう一人の自分の声が響いた。

『おい、佐伯剣。お前はこの子を助けるって決めたんだろ。決めたのは一時間も経っていない過去のことなのに、もう忘れたのかよ。自分に都合が悪い事実だからって、忘れたふりをするなよ、軟弱な卑怯者』

 目が覚めた思いだった。

 ここあの言葉を待つ、だって?

 そんな受動的な姿勢、間違っている。

 助けないと。消極的に振る舞っていてもその目的は果たせない。こちらから動かないと。

 失言したあとだけに凄く勇気がいる。勇気がいるけど、

「ねえ、ここあ」

 それでも腹を決めて、呼びかけた。

 エビカツサンドを皿に置いたのを、真剣な話を始めた証拠だと受け取ったらしく、フォークをとろうとしていたここあの手が止まった。

「僕を食事に誘ったのは、なにが理由? 財布を拾ったお礼がしたいから? ……本当にそれだけなの? 違うよね。もしかしてだけど、なにか僕にしてほしいこと、あるんじゃないのかな」

 ここあのまばたきの頻度が多くなった。眼差しの方向は僕の顔だけど、僕ではないなにかを見据え、そのなにかについて思案を巡らせているような、そんな表情にも見える。

 ここあはおもむろに小さくうなずくと、フォークに巻きつけていたペペロンチーノを口に押し込んだ。

「ご明察。というか、まあ、察さないほうが馬鹿かな。思惑がなければ、今日知り合ったばかりの男子をごはんに誘ったりしないもんね。イケメンならともかく、佐伯みたいな冴えない男子を」

「罵倒するくらいなら、質問に答えてほしかったな」

「冷静に言い返したってことは、このくらいの悪口を言っても問題なしってことね。佐伯、あんた童貞でしょ」

「ちょっと!」

「おっと、ごめん。今はふざけるところじゃなかったね。質問の回答だけど、あるよ。佐伯にちょっとしてもらいたいことがあって」

「してもらいたいこと?」

「本当はすぱっと切り出すつもりだったんだけど、思いのほか話しにくくてさ。だから、場所を替えよう。さっさと食べてさっさと出発しようぜ」

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