妹でした

 スマホを確認すると、午前十一時半を回っていた。

 現在地で待機し始めてから、早くも半時間。

 ポニーテールの少女とぶつかった細道、財布が落ちていたあたりの民家のフェンスに背中を預けて、僕は彼女を待っている。

 手にはショッキングピンクの財布。プリクラはちゃんと元のポケットに戻してある。

 交番の場所なら知っている。僕の自宅からはわりと近い。だから、届けてもよかった。一般常識を考えれば、むしろそうするべきだろう。

 でも僕は、あの子を待ちたかった。

 臨時休校になったから暇だ、というのもある。

 でもそれ以上に、また会いたかった。

 泣いていたのが僕とぶつかったせいなら、その償いもしたい。

 でも、最大の動機はそれらではなくて。

 プリクラには「さいきょー姉妹」と書いてあった。

 その「姉妹」とは、文字どおりの意味、すなわち血の繋がりがある姉妹ということなのか。

 それとも、女の子同士の親密な横の繋がりを姉妹になぞらえてそう呼んでいるのか。

 どちらにせよ、あのポニーテールの少女に関わり合うのは、一之瀬りりあを今以上に知ることに繋がるはずだ。

 正直、むちゃくちゃ知りたいわけではない。

 ただ、今知っている情報だけしか知らないまま終わるのは嫌だな、と思うのだ。

 現在地は公道で、真後ろは民家の敷地。その民家の住人は、幸い今は留守にしているようだが、歩行者や車は普通に道を通る。居心地が悪かったが、辛抱強く待った。

 あと何分粘ったら、諦めて交番に行こうか。

 そんな弱気な考えがちらつき出してから、一分も経っていなかったと思う。

「ちょっと!」

 突然耳元で爆ぜた大声に、僕は「ひゃあ」と情けない声を漏らしてしまった。財布を取り落としそうになったが、二回のお手玉を経てなんとか掴み直す。

「あんた、あたしの財布知らない? あんたとぶつかったときに落としたと思うんだけど。ていうか、なんでまだ現場に――あっ!」

 財布を指差し、再び大声。目にもとまらぬ素早い手つきでピンク色のそれを奪い取り、胸に押し当てて僕を睨みつけてくる。

 間違いない。小一時間前に僕とぶつかったポニーテールの少女だ。

 瞳に宿る強い感情に気圧されて、思わず一歩後ずさる。

 罵倒されそうな気がして身構えたが、少女は僕から視線を切って財布の中を検めた。真っ先にプリクラの有無を確認し、ほっとした表情が顔に灯る。

「大事なものだったんだね。交番に届けようか迷ったけど、直接渡せてよかったよ」

 少女が財布をハーフパンツのポケットにおさめたところで、そう声をかける。

 瞬間、彼女の眉が十度から四十五度へと跳ね上がった。柔和な印象が一瞬にして跡形もなく消え、攻撃的なそれへと様変わりした。

「は? ふざけんなよ、カス。あたしはさっきまで交番行ってたの。二度手間になったんだけど! なに出来の悪い忠犬みたいに現場で待ってんだよ。届けろよ、交番に。常識でしょうが」

「ご、ごめんなさい……」

 剣幕に押されてさらに一歩下がる。少女の右手が動いたので反射的に身を竦めたが、財布をポケットにきちんと押し込んだだけだった。

「なにびびってんの? 別にそこまで怒っていないから。無駄足踏まされたのはむかついたけど、財布を拾ってくれたことには感謝してる。サンキューね」

「あ、どういたしまして」

「いちいち頭下げんなって。謝れば済むと思っているビジネスマンかなにか? 気持ち悪い」

 少女は大きくため息をついた。聞こえよがしのため息というやつだ。

「お金なんて、小学生の小遣い程度しか入っていないよ。でも、お金以上に大事なものも入っているから」

「プリクラだよね。左端に君が写っていて、反対の端がやぶれている」

「……やっぱり見たか」

 芝居がかった挙動で肩を落として、今度は短くため息。

「いや、別に困りはしないんだけどさ。今まであたしだけの秘密だったから、それを赤の他人に暴かれたっていうのは、なんていうか気持ち的にこう――って、なによ、その物欲しげな目は。財布を拾ったお礼が欲しいってこと?」

「もらえるなら、ぜひ」

「拾った人には何割渡す決まりだっけ。でも財布の中身は五百円くらいだから、半分だとしても缶ジュース二本分――」

「違う、違う。プリクラについて教えてほしいんだ」

「は? なんで?」

「クラスメイトが写っていたから。一之瀬りりあさん」

 その名前を出した瞬間、少女の顔は明らかに強張った。

「『さいきょー姉妹』って書いていたよね。一之瀬さんってもしかして、君の妹さん?」

「惜しい。姉だよ、双子の姉。これも書いてたと思うけど、あたしの名前はここあ。かわいい響きでしょ?」

 うなずくと、ここあはすかさず、

「名乗ったんだから、名乗ってよ。それが礼儀ってものでしょ」

「佐伯剣。剣はソードの剣ね。さっき言ったように、一之瀬りりあさんとはクラスメイトなんだ」

「ぶつかったときは制服だったよね。りりあの自殺の件の説明が学校であって、その帰りだった、という理解でいいのかな」

「そのとおりだよ。先生の説明では、四階建ての校舎の屋上から飛び降りて、病院で死亡が確認されたって」

「そっか。あたしが医者と警察から受けた説明と同じだね」

「えっと、その……お悔み申し上げます」

 僕は頭を下げる。若干タイミングが唐突だった気もするが、そのセリフだけは言っておきたかった。

 ここあは無言だ。いつの間にか、彼女の目には透明な雫がたまっている。

 恐ろしいものを見てしまったような、いけないことをしまったような気持ちになり、顔を背ける。

 流れるのは、沈黙。気まずい無声状態。

「じゃあ、僕はこれで」と告げて立ち去ってしまおうか――なんて思いも過ぎったが、さすがに冷たすぎる。双子の姉に今朝自殺されたばかりの女の子にしていい対応じゃない。

 姉妹。

 きょうだいがいない僕には想像するしかないが、友だちとも恋人ともまた違う、独特の絆で結ばれた関係なのだろう。

 人によって距離感は当然違ってくるのだろうが、基本的には仲よくやろうという意識のもとに付き合っているはずだ。

 一之瀬りりあ・ここあの姉妹は、仲睦まじい部類に入るんじゃないかと思う。

 二人は、いっしょにプリクラを撮っている。

 ここあは、死んだ姉を想って涙を流した。

 実際は姉妹喧嘩が絶えないのだとしても、その二つの事実だけで、姉妹の仲は良好だったと認定してもいいはずだ。

 ここあのためになにかしてあげたい。

 一之瀬りりあの死の真相について知りたいのと同等か、もしかするとそれ以上の強さで、そう思う。

 僕はおせっかいな人間じゃない。だから普通は、助けてほしいと言ってこない人間にわざわざ手を差し伸べたりしない。

 でも、ここあは今、誰かの助けを欲している。言葉で伝えてこないし、今は元気そうに振舞っているが、過去には涙を流していたのだから。

 ここあの顔色をうかがうと、ちょうど顔を上げた彼女とがっつり目が合った。

「なに? あたしの顔にごみでもついてるの?」

「えっと……。一之瀬さんは今、とてもつらいと思うから、だからその――」

「付き合ってよ」

「えっ?」

「家に帰りたくないけど、やることは特にないからさ。佐伯の学校、りりあが自殺した影響で休校になったんだよね。暇なんだったら、いっしょに食事しよう。まだ少し早いけど、昼食」

「ああ、うん。それはまあ、いいけど」

「なに、その嫌そうな顔は」

 思いきり眉をひそめて睨んでくる。

「いや、そんなつもりは。もともとこんな顔だから。個性的な……」

「そう、それは気の毒。でも、それもやめてくれない」

「え?」

「そのびくびくした態度! 腹が立つから。りりあのクラスメイトだから、タメだよね? だったら敬語禁止ね。あと、あたしのことは下の名前で呼んで。『一之瀬さん』だとりりあもそうだよね、ってなるでしょ」

「呼び捨てなんだ」

「当り前。ねえ、佐伯はどこかいい店知らない? チェーンの飲食店が何軒か近所にあるのは知ってるけど、そういうところって絶対人が多いでしょ。うるさくて嫌なんだよね」

「多くはなくない? まだ正午になっていないし」

「ありきたりな店には行きたくないってこと。行間読めよ、行間。いらいらするなぁ、もう」

「あ……ごめん」

「謝るな! そういうのはやめろって警告したばかりでしょうが。三歩歩けば記憶失う鳥かよ。一歩も歩いていないのに失念するなっての」

 ……圧されている。僕が慰める立場のはずなのに、慰められる側のここあに。

「まあ、いいや。行くぞ、ほら」

 顎をしゃくって歩き出したので、ついていく。

 波乱万丈な時間が待ち構えていそうな、そんな予感がした。

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