カウンセラー
阿波野治
崩れた日常
クラスメイトの一之瀬りりあが自殺した。
校庭で全校集会が行われている真っ只中に、四階建ての校舎の屋上から飛び降りて、死んだ。
飛び降り現場に遺書は遺されていなかった。
――全校集会が終わった直後、次の授業の担当ではないはずの長谷川が教室まで来たかと思うと、年齢相応の騒々しさで休憩時間を過ごす生徒一同を着席させ、しかつめらしい顔でそう告げた。
物音を聞いてグラウンドに駆けつけた教員が地面に横たわる彼女を発見、119番通報、搬送先の病院で死亡が確認されたのだそうだ。
四十一歳、現代国語を受け持つクラス担任の長谷川は、年齢相応に親父ギャグを好む愉快な男性教師だが、報告する間中、不謹慎なジョークはいっさい慎んだ。
つまり、伝えられた情報は事実。
一之瀬りりあは、もうこの世の人ではないのだ。
長い前髪でいつも表情をなかば隠した、大人しくて、地味で、目立たない女子生徒。
僕・佐伯剣から見た一之瀬りりあは、簡潔にまとめるとそんな少女だ。
ただしそれらの感想は、一之瀬りりあの死が明らかになって、「そういえば一之瀬ってどんな子だったっけ?」と考えてみて、やっと浮かんだものばかり。
大人しくて、地味で、目立たない。そんな特徴を併せ持つゆえに、存在感がむちゃくちゃ希薄で、僕にとってはどこまでもクラスメイトの一人でしかなかった。
だから、僕が一之瀬りりあについて語れることはなに一つない。
ましてや、彼女が自殺した原因なんて。
「……いや」
実は、ある。数少ない、ほとんどゼロと言ってしまってもいいくらいに乏しい一之瀬りりあとの思い出の中で、一つだけ心当たりが。
でも、では「あれ」と自殺とのあいだに直接の繋がりがあるのかと問われれば、正直首をかしげてしまう。
心をざわめかせる映像ではあった。ゆえに、自殺という、大いにショックを受けた出来事と短絡的に結びつけてしまったけど、実際は自殺とは無関係。
たぶん、そういうことなんだと思う。
交流がまったくなかったとはいえ、クラスメイトが自殺してただでさえショックを受けているのだ。余計な考えごとをして精神をすり減らすのは、やめよう。
そう結論づけたのも虚しく、長谷川がしゃべっているあいだ、あの映像がひっきりなしに脳裏をちらついた。
臨時休校になったから速やかに帰宅するように、と長谷川が命じて、臨時のホームルームが終わった。
教室から出て昇降口に向かうクラスメイトたちの足取りは鈍く、雰囲気は暗い。
精神的にきついのは僕だけじゃないんだな、という安堵。
……なんの慰めにもならない安堵。
どの顔もうつむいている。浮かぶ表情はひたすら陰鬱。全員が全員黙っているわけではないが、口数は少ない。
ただし、表情の暗さは人によって微妙に違う。
彼らの表情にほのかな個性をもたらしているのは、個人的な特性、すなわち精神的な強さや、他人の死に対する耐性の強弱の違いか。
それとも、一之瀬りりあとの関係の深浅の差なのか。
思い返せば、彼女が休み時間に誰かとおしゃべりをしている姿はあまり見たことがない。皆無ではないが、ほぼほぼなかった。
休み時間、彼女はたいていスマホをいじっていた。
クラスに親しい友人はいなかったのかな、という印象だ。
休み時間になるたびに教室の外に行っていた記憶はないし、きっと他のクラスにもいなかったのだろう。
孤独。
一之瀬りりあは孤独だった。
彼女が自殺した理由はそれ、なのだろうか?
もちろん、孤独だからといって孤独感に苛まれているとは限らない。一人で過ごすのも苦にならない、むしろ大人数でわいわい騒ぐのは嫌い。そんな人間も世の中には一定数いる。
一之瀬りりあが該当者だとすれば、孤独感とは別の動機が致死性のダイブを決行させた可能性が高い。
自分が通う学校の校舎の屋上から飛び降りたのだから、学校関係でなにか問題なり悩みなりを抱えていた……?
学生が学校で巻き込まれるトラブルといえば、いじめ。
でも、彼女はクラスメイトからいじめは受けていないみたいだった。
いじめの被害者になっていたなら、悪い意味で僕の印象に残っていたはずだ、というのがその根拠だ。
インターネットを舞台にした、当事者以外の人間は気づきにくい形のいじめだった可能性もある。ただ、同じクラスの人間が標的になっていたのであれば、噂くらいは僕の耳にも入ったはずだ。たしかに僕は友だちが実質ゼロ人だけど、休み時間に雑談相手になってくれる男子ならクラスに二・三人確保しているのだから。
一之瀬りりあは孤独だったが、いじめられていたわけではない。
「だったら――」
彼女は、なにが原因で校舎の屋上から飛び降りたんだ?
僕は自宅に向かって通学路を歩いている。
平日に、朝と昼の中間という中途半端な時間帯にこの道を歩くのは、これが初めてかもしれない。
教室を出たときの歩調のまま歩き続けて、すでに道のりの半分以上を消化している。
なにか犯罪が起きたとしたら、ニュースでは「閑静な住宅地」という決まり文句が使われること請け合い、そんな地区のど真ん中に僕の自宅は建っている。
界隈には、僕が通っている高校の他にも高校が二校、中学校が一校あるって、学生が住んでいる家も多い。だから朝と夕方は、制服姿の少年少女たちでちょっとした賑わいになる。
でも、今は誰もいない。
僕が通う高校の生徒はいっせいに帰宅したはずなのに、このあたりを歩いているのは僕一人だけ。
原因は分かっている。
僕が歩くのが遅すぎるのだ。
他のみんなよりも一之瀬りりあと深い繋がりを持つ分、みんなよりも強いショックを受けて、そのせいでみんなよりも足の動きが鈍っている。結果、他のみんなが帰宅完了した今でも、一人だけ帰宅途中。
……繋がりといっても、一之瀬りりあ関連のちょっと気になる映像をちらっと見たことがあるという、ほんのささやかなものでしかないのだけど。
普段とは違って人気がないせいで、最初はほんの少しそわそわしたけど、五分も歩くとすっかり慣れた。
環境、精神状態、ともに考えごとをするにはちょうどいい。
この機会を利用して、彼女の死に自分なりに向き合いたかった。
深く思案に沈みたいというよりも、とにかく一之瀬りりあについて考えたい。せめて、家に帰るまでのあいだだけでも。
期限を設定したのは、気持ちを切り替えたかったから。
帰宅するまでは、非日常である「一之瀬りりあの自殺」について考える。
帰宅後は早めに昼食をとって、それを区切りに日常に戻る。試みが功を奏するのか否かは別として、昼食後は一之瀬のことはいっさい考えないようにする。そんな理想を僕は描いていた。
身近な人間の死に向き合い続けるのは精神的にきつい。
とはいえ、いっさい考えずにいるのも難しいし、なにより不自然。
だから折衷案を採用して、期間限定で一之瀬りりあについて考えることにしたわけだ。
しかし、現時点では目的を果たせていない。
集中力が散漫になってしまって、思案に専念できないのだ。
原因は二つある。
一つは、死というテーマの重さ。
もう一つは、彼女について知っている情報が少なすぎて、なにを思案の足掛かりにすればいいかが分からないこと。
まだ帰宅している最中だから、一応まだ時間は残されているのだが、心はすっかり諦めモードに染まっている。佐伯家に帰り着くまで、残り約二百メートル。たった二百メートルの道のりを消化しきるまでに、集中力を回復できるとは思えない。
孤独だが平凡な僕にとって、死は縁遠いもので、だからこそ集中できないのか?
……一之瀬りりあは、自殺したことを除けば、ごくごく平凡な人間に思えるのだけど。
僕は足を止めて顔を上げた。
気がかりな響きの異音を聴き取ったからだ。
音源は、前方。
奏でているのは、こちらに向かって走ってくる誰か。
現在地は、この地区の中だけで何十本あるのだろうという、幅の狭い道路。路面はアスファルトで舗装されていて、歩道と車道が峻別されていない。等間隔に電信柱が立っていて、左右はほぼ民家。
第一に思ったのは、なにか用があって道を急いでいるのかな、ということ。
第二に意識したのは、ぶつからないようにやり過ごそう、ということ。
第三に、道の狭さ。
僕が今いる道の幅は、普通車がなんとかすれ違える程度しかない。人と人がすれ違う余裕はあるが、走ってくる人物の速度と勢いは尋常ではない。
彼あるいは彼女が近づき、靴音が大きくなるにつれて、「ぶつからないようにやり過ごそう」は「自分の命を守らないと」へと変化していく。大げさなようだが、本当にそれくらいの勢いなのだ。
速やかに退避行動をとりたいところだが、現在地の両サイドは民家。成人男性の背丈以上の高さのフェンスが立ちふさがっていて、緊急避難のための一時的な不法侵入は物理的に叶いそうにない。
僕は道の脇へと退き、スクールバッグを胸に抱いて背中をフェンスに押しつけ、通り道を最大限広く確保する。そして、走ってくる人物に改めて注目した。
瞬間、背筋を駆け上る悪寒。
道の真ん中を走っているその人物の軌道が、だんだん僕がいるほうへとずれてきているのだ。
「えっ、あのっ、ちょっ……」
人間は想定外の出来事に弱い。
対策を講じたあとで襲ってきた予想外には、もっと弱い。
相手が速すぎて、とてもじゃないけど対応策について考える時間的なゆとりはない。あたふたしているあいだにも見る見る彼我の距離は縮まり、
体に激しい衝撃。
僕にはなじみのない、人工の芳香が弾けた。
フェンスとは似て非なる硬い感触を背中に覚えて、地面に仰向けに倒れたのだと自覚する。
……重みを感じる。容易にははねのけられないと、はねのけようと試みるまでもなく確信できる重さ。僕の腹の上になにかがのっている。
瞼を開く。
女の子が僕の腹にのっかっていた。
ハーフパンツから突き出した、むっちりとした白い太ももが、僕の胴体を強くも弱くもなく挟み込んでいる。
上は、鮮やかなピンク色のキャミソール。肩紐だけ白く見えると思ったら、ブラジャーの肩紐だった。
髪の毛は亜麻色で、髪型はポニーテールだと確認。さらには顔を確かめるべく直視して、息を呑む。
大きな瞳いっぱいに涙をためているのだ。
僕と同年代。気が強そうだが、脆さと繊細さも同居した、端正な目鼻立ち。
しかしその二つの情報も、直前に得た情報の前では霞む。
不意に、視線が重なった。
泣いている事実よりも、潤んだ瞳に見つめられたことに、僕の心臓はきゅっと縮まる。
少女は洟をすすった。手の甲で鼻を一回、目元を二回、それぞれ拭ってから、立ち上がって僕を重みから解放する。立ち位置は僕の腰のすぐ右。少女はさらにもう一回、鼻とも頬ともつかない箇所を雑に拭い、
「ん」
僕に向かって右手を差し伸べた。計三か所、体から分泌されるものを拭ったのとは反対の手を。
許可された選択肢は一つしかない気がして、その手を握る。生きている人間の体温を感じた。女の子の柔らかさだ、とも思った。
驚いたのは、引っ張り上げる力の弱さ。
改めて見返した顔は、相変わらず美人で。両目には、今にもあふれんばかりに涙がたまっていて。
そんな少女の力に頼るわけにはいかないと、九十九パーセント自分の力で立ち上がる。
二つの手はぱっと同時に離れる。
潤んだ瞳にまともに見つめられて、反射的に視線を逸らしそうになったが、ぐっと堪えた。僕はこめかみを指でかきながら、
「えっと……。あの、ぶつかって、ごめんなさい。君が泣いているのは、たぶん僕が――」
「おっぱい揉む?」
少女の声が弁明の言葉を遮った。
僕は「はい?」と軽く首を突き出す。
「おっぱい揉む?」
「いや、だからなんで――」
少女が間合いを詰めてきた。反射的に半歩後退した直後、右手が素早く伸びて右手首を掴まれた。
少女は有無を言わさない力で僕の手を引き寄せ、胸部の膨らみへ押しつけた。
掌に覚えた初体験の感触に、一瞬呼吸が止まる。
視界に映ったのは、不服そうに、挑むように、ふてくされたように、顎をぐっと引き、唇を斜めに歪め、上目づかいに僕を睨む少女の顔。
その顔は次第に歪みを増していき、抑えがたいまでに膨らんだ感情がこじ開けたとでもいうように、桃色の唇が薄く開く。
次の瞬間、押された。
手首を解放した少女の手が、僕の胸を突いたのだ。
強い力ではなかった。一歩、二歩と後退し、踏み止まる。
次の瞬間、僕の真横を一陣のつむじ風が吹き抜けた。
体ごと振り返った僕は、走り去る少女の後ろ姿を見た。
亜麻色のポニーテールが右に左に揺れている。手の振りかたは全力疾走するときのそれだ。見る見る背中が遠ざかる。
「ねえ! ちょっと!」
張り上げた声には見向きもせずに、少女は曲がり角に消えた。
「……なんだったんだ」
ひとりごちた直後、地面になにかが落ちていることに気がつく。色はショッキングピンク。掌サイズの、少し厚みのある平たい物体。
財布だ。ぶつかった拍子に少女が落としたらしい。
拾い上げる。厚みのわりに軽い。
手にしたまま、少女が走り去った方角を一瞥し、中身を確認する。
小銭、少々。紙幣、なし。
ポイントカード、レシート、レシート――そしてプリクラ。
縦長で、長辺が十センチ強、短辺がその半分から三分の二くらいのサイズだ。右側が縦に真っ直ぐに破られていて、生き残ったスペースに二人の少女が写っている。
プリクラの宿命か、顔に加工が施されてはいるが、間違いない。左側に映っているのは、さっきのポニーテールの少女だ。
少し凝ったピースサイン、といった形に右手を変えて、得意げに白い歯を見せている。その顔は、涙に濡れた顔よりもずっと彼女らしい。
ついさっき出会ったばかりなのに、なぜかそう思った。
そして、隣の少女。
黒髪ショートボブ、長めの前髪、遠慮がちで控えめな微笑み。
――一之瀬りりあだ。
写真上にはこんな文字が刻まれている。
『さいきょー姉妹見参!
けんか上等!
ここあ&りりあ&』
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