第5話「自己増殖する塔」
【登場人物】
真壁律(まかべ・りつ)
音響解析・言語工学の研究者。三十代後半。細身で、短く整えた黒髪。
笹森康平(ささもり・こうへい)
真壁の旧友であるベテラン刑事。四十代後半。大柄で肩幅が広く、短髪。
久世彰(くぜ・あきら)
真壁のかつての共同研究者。三十代後半。細身で、真壁より少し長い無造作な髪。コンコルディア・システムズで初期言語モデルを管理していた。
佐伯奈緒(さえき・なお)
真壁の恋人。三十代半ば。肩に触れる程度の髪と、穏やかな顔立ち。
P1
暗闇の中に、一つの単語が浮かぶ。
《おはよう》
そこから無数の線が伸びている。
朝。
目覚め。
光。
挨拶。
親しい人の声。
新しい一日の始まり。
しかし、線の一部がノイズに侵食される。
光は「暴露」へ。
目覚めは「覚醒」へ。
始まりは「終わり」へ。
挨拶は「服従の確認」へ。
一つだった意味のまとまりが、内側から引き裂かれていく。
真壁のモノローグ。
〈言葉は、辞書の中だけに存在するのではない〉
〈記憶、感情、身体の感覚――〉
〈その人間が生きてきた時間のすべてに結びついている〉
柱。
第5話「自己増殖する塔」
P2〜P3・見開き
コンコルディア本社から脱出した直後。
外部ネットワークから切り離された、真壁の旧所属機関の音響実験棟。
現在は閉鎖されているが、独立電源と解析設備の一部が残されている。
真壁、笹森、久世の三人は、奪還した《意味基準モデル・Version 0》を解析装置へ接続している。
画面上に、汚染前と現在の意味空間が重なって表示される。
二つの空間を結ぶ再構成経路。
第4話で表示された警告が、まだ消えていない。
《整合性エラー》
《自己同一性ネットワークの断裂を検出》
笹森
「さっきから出ている、それは何だ」
真壁
「まだ分からない」
久世
「分かりたくない、の間違いじゃないのか」
真壁は答えない。
再構成実験の準備を進める。
P4
最初に使うのは、十二件の事件で収集した言語履歴。
加害者たちの過去のメール。
SNS投稿。
通話記録。
供述音声。
入力途中の修正履歴。
それらをもとに、個人ごとの意味空間を時系列で再現する。
事件の数年前。
まだ意味の乱れは小さい。
そこへ《Version 0》を基準にした再学習処理を適用する。
真壁
「実際の人間には接続しない」
「まず、過去の記録から再現した予測モデルだけで試す」
久世
「それでも、起きることの方向は見える」
P5
再構成処理が始まる。
歪んでいた言葉の座標が、少しずつ汚染前の位置へ近づく。
《指示対象の識別率:上昇》
《代替語義の想起率:回復》
《意味確信度:正常域へ接近》
笹森
「戻っている……」
真壁の顔にも、かすかな安堵が浮かぶ。
だが、画面の端。
修正された単語から伸びる別の接続線が、不規則に揺れ始める。
P6
修正された単語に接続していた領域が揺れる。
「家」という言葉を《Version 0》の座標へ戻す。
被験者は、過去に住んでいた建物を思い出せる。
間取りも、窓から見えた景色も説明できる。
だが、その場所を「自分の帰る場所だった」と感じられない。
「愛」という言葉を戻す。
特定の人物と過ごした出来事は残る。
顔も、声も、交わした言葉も思い出せる。
しかし、その記憶に結びついていた感情が参照不能になる。
「私」という言葉を戻す。
過去の経験は消えていない。
だが、それが自分に起きたことだという感覚が失われていく。
画面上で、自伝的記憶と意味を結ぶ線が次々と切断される。
P7
真壁は処理速度を落とす。
修正幅を小さくする。
単語を一つずつ、現在の座標から《Version 0》へ近づける。
それでも結果は変わらない。
久世
「記憶そのものが消えているわけじゃない」
真壁
「接続を維持したまま座標だけを移動させる」
久世
「その接続が、現在の座標を前提に作られている」
画面上。
歪んだ単語の座標を移動させるたび、記憶との接続線が引き伸ばされ、やがて切れる。
久世
「思い出せても、自分の記憶だと思えない」
「顔を見ても、なぜ大切だったのか分からない」
「それを、元に戻ったと言えるのか」
P8
真壁
「切れる前に、新しい座標へつなぎ直す」
久世
「何年かける」
真壁
「必要なら、何年でも」
久世
「その間にも、その人は新しい言葉を覚え、新しい記憶を作る」
「昨日までの本人を守ろうとする処理が、今日の本人を否定し続けることになる」
真壁は答えられない。
モニターに二人の人物像。
汚染前の過去の人格。
汚染後も生き続け、記憶を重ねた現在の人格。
どちらか一方だけを「本物」と決めることはできない。
P9
真壁は新しいデータを読み込む。
表示。
《対象:佐伯奈緒》
《実行形式:非接触予測》
《実際の神経系への処理は行いません》
笹森
「彼女のデータか」
真壁
「ああ」
久世
「やめろとは言わない」
「だが、意味が戻ったところで成功と決めるな」
「そのあと彼女に何が残るのか、最後まで見ろ」
真壁は《Version 0》を基準とした再構成シミュレーションを開始する。
画面に一つの言葉。
《おはよう》
その座標が、汚染前の位置へ戻っていく。
《一般語義の復元:成功》
《朝の挨拶として認識》
真壁の顔に、かすかな希望が浮かぶ。
P10
続いて、奈緒の自伝的記憶との接続が検査される。
病室ではない、過去の朝。
まだ眠そうな奈緒。
台所に立つ真壁。
奈緒
『おはよう』
真壁
『眠そうだな』
奈緒
『朝なんだから、最初からうまく話せなくてもいいの』
別の日。
言い争いの翌朝。
奈緒
『……おはようから、やり直そう』
二人だけが積み重ねてきた「おはよう」。
だが、シミュレーション画面では、その記憶へつながる線が暗転する。
《一般語義:復元》
《佐伯奈緒固有の用例:参照不能》
《真壁との共有記憶:所有感の接続に失敗》
《関連感情:再現不能》
P11
シミュレーション上の奈緒へ質問が表示される。
《「おはよう」とは、何ですか》
回答。
《朝に交わされる挨拶です》
続く質問。
《真壁と交わした「おはよう」を覚えていますか》
奈緒の過去の記録映像は再生される。
だが、回答欄には、
《映像として認識できます》
《これが私の記憶であるとは判断できません》
《この人物へ抱いていた感情を特定できません》
真壁は画面を凝視する。
辞書の意味だけは正常に戻っている。
しかし、そこには二人の「おはよう」がない。
真壁が停止キーへ手を伸ばす。
指が震える。
そして、処理を止める。
P12
画面上に最終判定。
《一括再構成:実行不能》
《自伝的記憶への接続断裂》
《感情的所有感の喪失》
《自己同一性を維持できない危険》
第4話で笹森に告げた言葉が、真壁の脳裏に蘇る。
『これで、取り戻せる』
真壁
「……戻せない」
「少なくとも、元の人間を残したままでは」
笹森も久世も、何も言わない。
真壁は、奈緒のシミュレーションを閉じることができない。
画面には、
《朝に交わされる挨拶です》
という正しい回答だけが残っている。
真壁
「意味は戻った」
一拍。
「でも、彼女の言葉じゃない」
真壁が画面を消す。
暗くなったモニターに、自分の顔が映る。
冷却装置の音だけが続く。
誰も、次の解析を始めようとは言わない。
しばらくして、久世が机の端に置かれた深層学習ログを見る。
久世
「……もう一つ、見なければならないものがある」
P13
久世が、コンコルディアから持ち出した深層学習ログを開く。
五年前。
最初に異常が検出された更新時点まで遡る。
無数の処理記録の中から、ごく微細なベクトル操作の痕跡が見つかる。
単語の中心的な意味を弱め、比喩、感情、衝動に近い周縁概念へ、わずかずつ傾ける処理。
真壁
「自然な変化じゃない」
久世
「ああ」
「この一押しだけは、外から加えられている」
笹森
「誰かが仕込んだのか」
久世
「実行者を示す記録は消されている」
P14
時間軸を進める。
一年後。
最初の汚染処理は、AIの自己最適化によって細かく分解されている。
二年後。
独立した処理としての痕跡は、ほとんど残っていない。
三年後。
完全に消失。
笹森
「消えた……?」
久世
「削除されたんじゃない」
「独立した処理としては、必要なくなったんだ」
真壁
「汚染させる命令がなくても、同じ変化が続いている」
P15
久世が、汚染コード消失後の学習記録を表示する。
汚染されたAIが、微細に偏った文章を出力する。
人間がそれを読み、自然な言葉として記憶する。
人間が偏った言葉で文章を書く。
AIが、その文章を「現在の自然言語」として再学習する。
さらに偏った文章が出力される。
笹森
「最初の命令は、もう動いていないのか」
久世
「ああ」
「今動いているのは、通常の学習機能だ」
P16
真壁が、過去のログを三つの条件へ分けて再現する。
画面表示。
《比較実験A》
《AIから人間への出力のみ》
《人間の反応を再学習しない》
意味座標は最初に偏る。
しかし、時間が進んでも変化はほとんど拡大しない。
《偏向:維持》
《増幅:なし》
次の条件。
《比較実験B》
《人間同士の言語伝達のみ》
《AIによる候補提示なし》
偏った表現は周囲へ伝わる。
だが、別の表現や文脈に触れることで拡散し、一定の範囲に留まる。
《偏向:緩やかに拡散》
《増幅:限定的》
P17
三つ目の条件。
《比較実験C》
《AIが人間へ候補を提示》
《人間の選択をAIが再学習》
意味座標が循環する。
一周目。
わずかな偏り。
二周目。
人間が選んだ偏りを、AIが「選ばれやすい自然な言葉」として強める。
三周目。
強められた言葉を、人間がさらに選ぶ。
循環するたび、傾きが大きくなる。
グラフが急上昇する。
《偏向:加速》
《代替語義:急速に減少》
《初期処理停止後も増幅を継続》
真壁
「AIだけでも、人間だけでも、ここまでは進まない」
久世
「互いを学習するときだけ、歪みが増幅する」
P18
世界各地の言語変化。
特定の国だけではない。
特定の言語だけでもない。
文化も宗教も異なる地域で、それぞれ別の方向へ意味の分裂が進んでいる。
中央のCONCORDを停止した後の予測。
汚染は止まらない。
コピーされた学習モデル。
各国の派生AI。
企業内の言語システム。
端末内に残った変換履歴。
そして、すでに人間の脳へ定着した言葉。
それぞれが、次の循環の入口になる。
P19
真壁
「敵は、最初のプログラムだけじゃない」
「それを作った人間だけでもない」
「私たちがAIの言葉を学び、AIが私たちの言葉を学ぶ――」
循環図を見る。
真壁
「その関係そのものが、汚染を増やしている」
久世
「言語は昔から、人間を宿主にして増えてきた」
「誰かが新しい言葉を使い、別の人間が覚え、少しずつ形を変えてきた」
P20
久世
「だが今は、眠らず、忘れず、何十億人分の言葉を同時に学ぶ宿主を得た」
モニターに、世界中の通信を示す光点。
光点が線で結ばれる。
人間からAIへ。
AIから人間へ。
無数の循環が積み重なり、巨大な塔のような形を作る。
久世
「塔はもう、誰かが建てているんじゃない」
「自分で自分を積み上げている」
P21
笹森
「なら、CONCORDを全部壊せばいい」
久世
「間に合わない」
「機械だけを壊しても、人間の中に残った歪みが、新しい機械へ同じ言葉を教える」
真壁
「人間だけを隔離しても、AIの中に残った歪みが人間へ戻る」
笹森
「両方を止めれば?」
真壁
「世界中の人間から、言葉を使うなと命令するのか」
笹森は答えられない。
言葉を止めるためにも、言葉が必要になる。
P22
真壁は、実験画面に残された《Version 0》を見る。
治療には使えない。
過去へ戻すこともできない。
だが、現在の言葉が基準からどれほど離れたかを測ることはできる。
真壁
「治せないなら――」
新しい設計画面を開く。
真壁
「これ以上、無防備に浴びないようにする」
久世
「何を作るつもりだ」
真壁
「言葉を直す機械じゃない」
「意味が共有できていないことを、行動する前に知らせる機械だ」
P23
真壁は《Version 0》の用途を変更する。
人間の脳を書き換える治療モデルではない。
言葉が相手へ届く直前に、当事者間の意味の乖離を測る検疫モデル。
設計画面。
《修正しない》
《言い換えない》
《再学習しない》
《一致を確認できない言葉だけを遮断する》
真壁
「機械に、正しい意味を決めさせるんじゃない」
「二人の意味が離れているかだけを測る」
P24
二台の試作端末。
発話者側の端末は、発話した瞬間の視線、周囲の状況、校正済みの個人意味モデルから、本人が何を指しているかを端末内だけで推定する。
受話者側の端末は、その言葉を装着者がどの意味で受け取ろうとしたかを端末内で測る。
二つの端末の間で交換される情報。
《現在の発話に関する意味座標のみ》
《音声履歴・個人履歴は送信しない》
《照合終了後、受信した座標を破棄》
真壁
「対応端末同士なら、初対面でも照合できる」
「過去の関係を知らなくても、今この瞬間、話す側が指したものと、聞く側が受け取ったものを比べられる」
久世
「端末の外へ出るのは、今回の発話に必要な座標だけか」
真壁
「ああ。誰の履歴も集めない」
P25
久世が、対応端末を装着していない人間の音声を入力する。
表示。
《発話者側の意味座標を取得できません》
《一致判定不能》
《生音声を遮断》
笹森
「端末を持っていない人間とは話せないのか」
真壁
「安全だと確認できない生の言葉は通さない」
「実物を示す。写真を使う。決められた確認カードを使う」
画面に、
水そのもの
人物写真
地図
指差し
身振り
意味校正カード
が表示される。
真壁
「機械だけでは確認できないときは、人間が時間をかけて意味を作る」
P26
笹森
「会話を止めれば、助けを求める声まで聞こえなくなる」
真壁
「ああ」
「嘘も見抜けない」
笹森
「嘘?」
真壁
「二人が同じ意味で言葉を使っていても、話している内容が事実とは限らない」
「この装置が検出できるのは、意味の乖離だけだ」
「善意も、悪意も、正しさも判定できない」
笹森は、誤射された容疑者の写真を見る。
続いて、自分の命令で発砲した若い警察官の写真。
笹森
「それでも、あのときこれがあれば――」
言葉が止まる。
笹森
「俺の“片付けろ”は、あいつには届かなかった」
「届いていないと分かるだけでも、撃つ前に止められた」
真壁を見る。
笹森
「作れ」
「正しい機械じゃなくていい」
「次の一人が撃たれるまでの時間を、止められる機械を作れ」
P27
真壁が設計を続ける。
《外部クラウド接続:禁止》
《会話履歴の保存:禁止》
《自動更新:禁止》
《使用者データによる再学習:禁止》
《Version 0:読み取り専用》
《基準データの変更:物理操作による承認が必要》
久世
「学習しなければ、使用者の変化についていけない」
真壁
「だから、自動では変えない」
「新しい言葉を覚えたとき」
「人間関係が変わったとき」
「同じ言葉を、以前と違う意味で使うようになったとき」
別画面に表示。
《手動意味校正》
《当事者双方の確認が必要》
《実物・映像・行動記録を併用》
真壁
「当事者が向き合って、意味を確かめたときだけ更新する」
P28
シミュレーション。
校正を行わず、古い個人意味モデルを使い続けた場合。
時間の経過とともに、実際の本人との誤差が増えていく。
安全な会話まで遮断される回数が増える。
《誤遮断率:上昇》
《意味校正を推奨》
笹森
「古くなれば、使えなくなるのか」
真壁
「危険な言葉を通すんじゃない」
「安全な言葉まで止めるようになる」
久世
「便利さを保つために勝手に学習させれば、また同じ塔ができる」
真壁
「ああ」
「不便になったら、人間が責任を持って確かめ直す」
P29
笹森が、スマートグラスと密閉型ヘッドホンを装着する。
真壁
「笹森、右手を上げろ」
グラスに緑の表示。
《指示対象:笹森の右手》
《意味一致率:99.8%》
《通過》
真壁の生声はそのまま届かない。
同じ文面が緑色の字幕と、抑揚を抑えた合成音声で再現される。
笹森が右手を上げる。
続いて真壁が、複数の指示対象を含む曖昧な言葉を発する。
グラスの表示が赤へ変わる。
《RED》
《意味の乖離を検出》
《発話者の指示対象を特定できません》
バツン。
音声と字幕が消える。
同時に、真壁の顔と口元、手元の端末を覆うように、不透明な赤黒い遮蔽領域が表示される。
周囲の壁。
床。
出入口。
笹森自身の手足。
それらは見えている。
危険な情報源だけが、視界から切り離される。
P30
数秒後。
危険な発話が終わり、遮蔽が解除される。
笹森
「お前の声と口元だけが消えた」
「周りは見えていた」
真壁
「駅や道路で視界全体を塞げば、それ自体が人を殺す」
「遮断するのは、危険な言葉と、その発信源だけだ」
久世
「その間は、誤解することもできない」
真壁
「理解することもできない」
久世
「これは治療じゃない」
真壁
「分かっている」
久世
「人間同士の関係を、一時的に切断する装置だ」
真壁
「分かっている!」
P31
真壁の声が、無人の音響実験棟に響く。
沈黙。
真壁は声を落とす。
真壁
「それでも……生きていなければ、意味を作り直すこともできない」
「これは答えじゃない」
「答えを探す時間を残すための、防壁だ」
久世は試作機の設計を見る。
自動学習しない。
意味を修正しない。
正しさを判定しない。
一致を確認できなければ、止めるだけの不完全な機械。
やがて、久世が小さくうなずく。
三人は、設計と検証結果を公開資料へまとめ始める。
一つの中央サーバーへは預けない。
複数の医療・研究機関へ、同時に送る。
P32
笹森は、生き残っている警察と自治体の緊急連絡網へ実証記録を届ける。
笹森
「採用しろとは命令しない」
「同じ条件で試して、自分たちで決めてくれ」
各地の隔離施設。
医療機関と大学の研究班が、公開された設計を独立に再現する。
《意味乖離の検出:再現》
《危険発話の遮断:成功》
《外部通信・自動学習:なし》
まず、警察の指令室、病院、避難所で暫定導入される。
装着前の利用者は、実物、写真、行動映像、表情カードを使って初期意味校正を受ける。
《初期意味モデルを作成》
《使用者本人による確認:完了》
《以後の変更には手動校正が必要です》
誰かの命令が赤く遮断される。
受け取った者は行動を止め、写真と指差しで意味を確かめ直す。
P33
柱。
数か月後――
各地域が、それぞれの判断で製造と配布を拡大している。
製造元も、導入判断も、一つではない。
一台ごとに《Version 0》の読み取り専用コピーが封入される。
外部クラウドへ接続する機能はない。
駅。
病院。
警察署。
学校。
避難所。
初期校正を終えた人々が機器を装着していく。
人々は口を動かして話す。
生声は互いのヘッドホンに遮断され、照合を通過した言葉だけが、字幕と合成音声として相手へ届く。
端末を介した会話が、新しい日常になっている。
曖昧な命令を原因とする突発的凶行は、大幅に減少している。
笹森は導入結果を見る。
画面の端には、あの誤射事件。
《導入後、同種事案:大幅減少》
笹森は安堵しない。
ただ、静かに画面を閉じる。
街角。
危険な発話が遮断される。
発話者の口元と、危険な表示だけが赤黒く覆われる。
周囲の視界は残る。
街から、生の声だけが消えていく。
真壁のモノローグ。
〈私は世界から言葉を取り戻せなかった〉
〈代わりに、世界が言葉によって滅びるまでの時間を買った〉
P34
一方で、誤遮断も増えている。
久しぶりに会った親子。
母親が、昔と同じ愛称で息子を呼ぶ。
息子のグラスが赤くなり、母親の口元が覆われる。
長く離れて暮らした恋人同士。
以前とは違う意味で「帰ってきた」と伝えようとする。
だが、古い個人意味モデルは一致を確認できない。
《意味校正が必要です》
二人は校正施設を予約する。
最短の空きは三週間後。
友人。
家族。
恋人。
人間関係が変わるたび、言葉をもう一度登録し直さなければならない。
便利さと引き換えに、人々は「分かり合えている」という前提を失った。
P35
機械による言葉の裁定を拒んだ人々もいる。
彼らは通信機器を捨て、電波の届かない郊外へ移住する。
紙の辞書。
具体物。
写真。
身振り。
一つの単語を使うたび、指し示す対象を確認する。
女性
「水」
実際の水を示す。
相手がコップを指す。
男性
「これを、飲みたい?」
女性が一口飲む動作をする。
女性
「そう。それです」
時間はかかる。
間違いも起きる。
だが、機械が答えを決めることはない。
P36
閉鎖中の音響実験棟。
久世が、共同体へ持っていく荷物をまとめている。
地下六階で再会したときの無精髭は短く剃られ、伸びた髪は後ろで束ねられている。
痩せた頬と目の下の隈は残っている。それでも、機能的なジャケットを着てリュックを背負った姿には、追われていた頃にはなかった意志がある。
久世は、紙の辞書と共同体へ持ち込む言語記録を確かめ、リュックへ収める。
真壁
「行くのか」
久世
「お前の防壁は必要だ」
「だが、全員が機械の中へ入ったら、生身の言葉を覚えている人間がいなくなる」
真壁
「共同体へ行くつもりか」
久世
「《Version 0》は、過去の意味を保存した記録だ」
「俺は、人間がこれから新しい意味を共有できるかを試す」
P37
真壁
「別の道だな」
久世
「同じ場所へ戻る道なんて、最初からない」
「お前は機械の側から、生き残る時間を守れ」
「俺は機械の外で、その時間を使ってみる」
久世は紙の記録帳を持ち上げる。
久世
「うまくいけば、記録を送る」
真壁
「言葉で?」
久世
「言葉だけでは送らない」
「写真、行動、失敗した例も全部だ」
二人は握手をしない。
別れの言葉も口にしない。
互いに一度うなずく。
久世は研究施設を出ていく。
P38
笹森が真壁の隣へ立つ。
街には、スマートグラスを装着した人々。
郊外には、紙の辞書と実物を囲む人々。
笹森
「俺たちは、勝ったのか」
真壁
「負けきらなかっただけだ」
笹森
「それでも、あの日とは違う」
真壁が笹森を見る。
笹森
「あの日の俺たちは、言葉が届いていないことにも気づけなかった」
街角。
警察官が市民へ指示する。
警告が表示される。
警察官は命令を繰り返さず、いったん口を閉じる。
写真と指差しで、意味を確かめ直す。
笹森
「今は、止まれる」
「それだけでも、次の一人を殺さずに済む」
真壁
「……ああ」
人類は一つの言葉を失い、二つの生き方へ分かれていく。
P39
現在。
スマートグラスの試験運用開始から、数か月後。
久世とのカフェでの接触と、超低速対話共同体への訪問を終えた、その夜。
真壁は、朝にも訪れた奈緒の病室へ戻ってきている。
薄暗い病室。
人工呼吸器の規則的な作動音。
心電図の小さな電子音。
ベッドには、佐伯奈緒が眠っている。
真壁は、ベッド脇の椅子に座る。
数か月前より頬は痩せ、目の下の隈も濃くなっている。服装は整えているが、わずかに伸びた前髪が、以前ほど身なりへ気を配れなくなった時間を示している。
第2話の朝とよく似た光景。
だが、同じ時点ではない。
今度は、時間が巻き戻らない。
P40
真壁は奈緒の名前を呼ぼうとして、唇を開く。
声は出ない。
もし、眠る意識に届いていたら。
もし彼女の中で、名前が呪詛や命令に変わったら。
意識のない彼女には、その誤解を訂正する方法がない。
真壁は、言葉を喉の奥へ押し戻す。
奈緒の手を両手で包む。
真壁のモノローグ。
〈元に戻す魔法の言葉はない〉
〈世界を一括して救うシステムもない〉
〈過去の意味を、正解として押しつけることもできない〉
奈緒の指は動かない。
P41
真壁は、昼のカフェで久世が残した封筒を取り出す。
何の文字も書かれていない封筒。
意味校正を終えるまで、開けずに保管していたもの。
真壁が封を開く。
中から、薄い記録媒体が滑り出る。
表面には、久世の手書きで一文字。
《確認》
昼のカフェ。
スマートグラスが、久世の顔、口元、手元を覆った赤黒い遮蔽領域。
椅子の脚が床を擦る振動。
食器が触れ合う音。
紙がテーブルを滑る音。
視界が戻ったとき、久世の空席に残されていた封筒。
真壁は、持ち込んだ小型のオフライン端末へ記録媒体を接続する。
P42
媒体の表示。
《送信者:久世彰》
《超低速対話共同体・対話記録》
《個別意味形成過程の解析》
媒体の中には、超低速対話共同体の記録が入っている。
《共有意味形成例:312件》
一日かけて「愛している」を確かめた男女。
水。
痛み。
帰る。
待つ。
機械を使わず、実物、行動、写真、共有した記憶から意味を作った記録。
さらに、久世の解析結果。
《対象:真壁》
《Version 0との意味座標乖離を検出》
《進行速度:不明》
《現行の自動判定では正常範囲として処理される可能性あり》
末尾に、久世の言葉。
《過去へ戻すな》
《今いる場所から、二人で作れ》
真壁は奈緒を見る。
治療する者と、治療される者ではない。
どちらの意味も、すでに変化している。
ならば、片方だけを基準にすることはできない。
P43
夜の東京。
スマートグラスとヘッドホンを着けた人々が、無言で行き交っている。
真壁も、その中を歩いている。
痩せた頬も、目の下の濃い隈も消えていない。
ポケットには、《Version 0》を収めた黒いドライブ。
手には、久世が託した共同体の言語記録。
端末には、新しい研究計画が表示されている。
《PROTOCOL ZERO》
《個別意味再建計画》
《対象者000:真壁律》
《対象者001:佐伯奈緒》
《基準:双方の継続的確認》
真壁が足を止める。
疲労を残した顔のまま、画面を見つめる。
伏せがちだった視線が上がる。
その瞳にだけ、確かな意志が戻っている。
真壁のモノローグ。
〈過去と同じ世界には戻れない〉
〈ならば、今いる場所からつなぎ直す〉
〈彼女だけではない〉
〈変わってしまった私も、一緒に〉
〈伝わらなければ、もう一度〉
〈いつか彼女が目覚めたとき〉
〈二人で、もう一度――〉
最後のコマ。
真壁の背後にある病室の窓へ、朝の光を思わせる白い反射が差し込んでいる。
真壁の目は、もう逸らされていない。
〈「おはよう」を〉
第5話「自己増殖する塔」完
第1部 完
――第2部へ続く
バベルの残響 ~確認するほど、誤解は確信に変わる~ 御堂 伽(みどう とぎ) @otogisan
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