十五メートルの向こう側

Tohna

ドルフィン・キック

 俺は、水泳のバタフライという泳法が嫌いだ。

 いや、正確に言えば「俺より速くバタフライを泳ぐ奴」が嫌いだ。


 高校に入学して二か月。

 その筆頭が、隣のクラスの黒田湊(みなと)だった。


「一本目、百バタ。五分(ごふん)サークル!」



 水泳部顧問の島崎がプールサイドから叫ぶ。


「よーい……はい!」

 笛が鳴る。


 俺たちはスターティングブロックを蹴った。


 水中で身体を一直線に伸ばす。


 一回。

 二回。

 三回。


 ドルフィンキックを打つたびに、水が足の甲を後ろへ流れていく。


 俺の得意分野だ。


 四回、五回、六回。

 まだ浮上しない。


 ブロックを蹴ってから十五メートル。


 競泳ではスタートとターンの後、水中に潜っていていい限界の距離だ。


 俺はその十五メートルが好きだった。


 なぜなら、十五メートルまでなら、俺は黒田より速い。


 頭が水面を割る。


 両腕を同時に前へ伸ばす。


 一掻き。

 二掻き。

 三掻き。


 その横を、黒田が通り過ぎていった。


「またかよ!」


 叫んだら大量に水を飲んだ。


 当然、さらに差が広がった。


 五十メートルをターンした頃には半身。

 七十五メートルで一メートル。

 最後の二十五メートルでは、黒田の足から上がる白い泡しか見えない。


 俺が壁にタッチした時には、黒田はもうゴーグルを額に上げてこっちを見ていた。


「五十八秒八」


 島崎がタイムを読み上げる。


「黒田、五十五秒九」


「二秒!」


 俺はプールの水を叩いた。


「なんで二秒も違うんだよ!」


 すると隣のレーンの黒田が言った。

「いや、俺に言われても」


「十五メートルまでは俺の方が前にいたろ!」


「競泳は十五メートルで終わらないからな」


 いちいち正論なのが腹立たしい。


「お前、泳ぎ方がずるいんだよ」


「バタフライにずるい泳ぎ方なんかあるのか?」


「ある」


「例えば?」


「お前の泳ぎ」


「なんだそれ」

 黒田は呆れたように笑った。


 これが俺と黒田の日常だった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 俺の名前は水野航(わたる)。


 中学までは自由形の選手だった。


 五十メートル自由形。

 百メートル自由形。


 いわゆる短距離専門。


 スタートと水中のドルフィンキックには自信があったが、水面に出てからが弱い。


 だから中学最後の大会も、最初の十五メートルだけなら優勝候補だった。


 ところが、高校に入って島崎に言われた。


「水野、お前バタフライやってみろ」


「嫌です」


「まだ何も説明してないだろ」


「きついから嫌です」


「じゃあ百バタ一本」


「話聞いてました?」


 結果。


 なぜか泳げた。

 しかも、思ったより速かった。


 バタフライは両腕を同時に回し、身体を波打たせるようにして進む。


 見た目は豪快だが、力任せに泳ぐと百メートルもたない。


 水を掴む位置。


 腰の上下動。


 呼吸のタイミング。


 一掻きに二回入れるドルフィンキック。


 全部が噛み合わないと、途端に身体が水面に沈む。


 俺の場合、長年やってきた水中ドルフィンの感覚が、そのままバタフライに合ったらしい。


「面白い素材だな」


 島崎はそう言った。


 俺も少しその気になった。


 ところが、


「黒田、ちょっとこっち来て泳いでみろ」


 島崎に呼ばれた黒田が隣のレーンに入った。


 スタート。


 俺は十五メートルで二メートル近く先行した。


 楽勝だと思った。


 二十五メートルで並ばれた。


 ターンして三十五メートルで抜かれた。


 五十メートルでは身体一つ分負けていた。


「……何だ、アイツ」


「中学の県大会で百バタ三位」

 島崎が言った。


「先に言ってくださいよ!」


「聞かなかっただろ」


 その日から俺は、バタフライが嫌いになった。


 正確には黒田が嫌いになった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 黒田のバタフライは綺麗だった。

 腹立たしいくらい綺麗だった。


 腕が水面すれすれを通って前へ戻ってくる。

 ほとんど上下動がない。

 呼吸のために顔を上げても腰が沈まない。

 水を掻くたび、身体がスーッと前へ進んでいく。


 一方の俺は島崎曰く、


「戦車みたいなバタフライ」

 らしい。


「褒めてます?」


「半分はな」


「残り半分は?」


「燃費が悪い」


 俺は水中で強く蹴り、浮上してからも力任せに水を掴む。


 五十メートルまではいい。


 だが七十メートルを超えると腕が上がらなくなる。


 黒田は逆だった。


 スタートとターンの水中はたいしたことがない。


 しかし、水面に出てから落ちない。


 五十メートルを過ぎても、七十五メートルを過ぎても。


 最後の十メートルでも、ほとんど同じリズムで泳ぐ。


 俺は奴のそういうところが気に入らなかった。


 だから練習後、毎日のように言った。


「黒田。五十一本」


「また?」


「今日は勝つ」


「昨日も聞いた」


「昨日の俺と今日の俺は違う」


「二十四時間で何があったんだよ」


「成長」


「便利な言葉だな」


 そして二人でスタート台に上がる。


 五十メートルバタフライ一本勝負。


 最初の十五メートル。


 俺が勝つ。


 二十五メートル。


 まだ俺。


 三十五メートル。


 黒田が来る。


 四十メートル。


 並ぶ。


 最後。


 負ける。


「くそおおお!」


 俺が叫ぶ。


「今日も俺」


 黒田が笑う。


 その繰り返しだった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 夏休み前になる頃には、俺たちの五十メートル一本勝負は水泳部の恒例行事になっていた。


「今日どっち?」


「黒田にジュース」


「俺、水野。そろそろ来るだろ」


「来ねえよ。最後死ぬもん」


「水野、二十五までなら全国レベルなんだけどな」


 好き勝手言いやがる。


 ある日のこと。


 いつものように負けた俺に、同級生の女子マネージャーが言った。


「水野って、どうしてそんなに黒田に勝ちたいの?」


「は?」


 そんなこと、考えたこともなかった。


「負けるのが嫌だから」


「でも毎日負けてるじゃん?」


「言い方!」


 近くで聞いていた黒田が笑った。


「確かに」


「お前が言うな!」


 マネージャーは首を傾げた。


「県大会で勝てばいいんじゃない?」


 俺と黒田は顔を見合わせた。


「……それもそうだな」


 俺が言う。


「そうなんだけどな」


 黒田も言う。


 しかし翌日も、俺たちは五十メートル一本勝負をした。


 もちろん俺が負けた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 夏の県大会。


 俺は初めて百メートルバタフライに出場した。


 黒田も同じ組だった。


 四レーン黒田。


 五レーン俺。


 スタート台の上で、心臓がやたらとうるさい。


 練習とは違う。


 観客席から声が響く。


 塩素の匂い。


 水面に反射する照明。


 笛。


「Take your marks」


 身体を前へ倒す。


 電子音。


 飛び込んだ。


 俺の時間だ。


 水中ドルフィン。

 一回。

 二回。

 三回。

 四回。

 五回。

 六回。


 黒田は見えない。

 七回。

 浮上。


 俺が先頭だった。


 十五メートル。

 二十五メートル。

 今日は長水路。まだ俺が先。


 三十五。

 隣の黒田が視界に入る。


 四十。

 並んだ。


 四十五。

 黒田が半歩出る。


 ターン。


 俺は壁に両手をつき、身体を折り畳む。


 ここだ。


 壁を蹴る。


 水中。


 一回。

 二回。

 三回。

 黒田を抜き返した。


 六十五メートル。

 まだ俺が前だ。


 七十。

 肩が重い。


 七十五。

 腕が水面から上がらなくなる。


 来る。


 黒田が来る。


 八十。

 並ばれた。


 八十五。

 抜かれた。


 くそ。


 またか。


 いつもと同じだ。


 最後に抜かれる。


 そう思った瞬間、黒田が俺の方を見た。


 呼吸の瞬間だった。


 ほんの一瞬。

 だけど確かに目が合った。


 そして、黒田は笑っていた。


(何笑ってんだ!)


 勝ってる余裕か。


 ムカつく。


 死ぬほどムカつく。


 俺は腕を回した。


 一掻き。

 もう一掻き。


 身体が沈む。


 脚を打つ。


 進まない。


 もう一発。


 黒田の肩が目の前にある。


 あと五メートル。


 もう泳いでいるのか溺れているのか分からない。


 三メートル。

 二メートル。


 最後の一掻き。


 両手を伸ばした。


 タッチ。


 顔を上げる。


 電光掲示板を見る。


 一位 黒田。

 五十五秒七二。


 二位 水野

 五十五秒八九。


「……十七」


 思わず呟いた。

 〇・一七秒差。


 負けた。だけど、


「十七じゃん」


 隣で黒田が言った。


「うるせえ」


「前は二秒あった」


「うるせえって」


「もうちょいじゃん」


「うるせえ!」


 俺は水をぶっかけた。


 黒田もぶっかけ返してきた。


 そのせいで島崎に、


「大会会場で何やってんだお前ら!」


 と二人揃って怒鳴られた。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 大会の帰り。


 駅まで二人で歩いた。


 珍しく黒田が静かだった。


「なあ」


「何?」


「なんでお前、最後に笑った?」


「笑った?」


「八十五くらい」


「ああ」

 黒田は少し考えた。


「嬉しかったんだと思う」


「何が」


「横にお前がいたから」


「キモ」


「お前が聞いたんだろ!」

 黒田は俺の肩を小突いた。


 そして少しだけ真面目な顔になった。


「中学の時さ」


「うん」


「俺、ずっと一人で泳いでたんだよ」


「部活だろ?」


「そういう意味じゃない」


 黒田は駅前の横断歩道で立ち止まった。


「県大会で三位になったって言っただろ」


「ああ」


「一位の奴とは三秒差。二位とも二秒差。後ろの奴とは二秒差」


「なるほど」


「誰も横にいなかった」


 信号が青になった。


 俺たちは歩き出した。


「だから練習しても、タイムしか見てなかった。でも高校来たら、十五メートルで毎回お前に置いていかれる」


「そこは俺の領土だからな」


「勝手に国境作るな」


「十五メートルまでは水野共和国」


「ちっちゃい国だな」

 黒田は笑った。


「でも、本気で水中練習したのはお前のせいだ」


「え?」


「最近、俺の十五メートル速くなってるだろ?」


 そう言われれば。


 春は二メートル近く差があった。


 今は一メートルもない。


「……パクったのか」


「何を?」


「俺のドルフィン」


「技術に著作権はねえよ」


「最低だなお前」


「じゃあ、お前は俺の泳ぎパクってないんだな?」


「……」


「最近、ストローク数減ってるよな?」


「……知らん」


「呼吸も二回に一回から四回に一回に変えたよな?」


「知らん」


「前半突っ込まなくなったよな?」


「知らん!」

 黒田が笑った。


 俺も笑った。


 その時、初めて分かった。


 俺は黒田に追いついているつもりだった。


 でも黒田も俺から逃げながら、俺の泳ぎを見ていたのだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 二年生になる頃には、俺と黒田は県内ではそこそこ名前を知られるようになっていた。


 黒田は相変わらず綺麗なバタフライを泳ぐ。


 俺は相変わらず島崎に、


「もう少し人間らしく泳げ」

 と言われていた。


「人間らしいバタフライって何ですか」


「少なくとも水野のは違う」


「酷くないですか?」


 ただ、俺の泳ぎは変わっていた。


 力任せに掻かない。


 水を後ろへ押す。


 腰を沈めない。


 呼吸で頭を上げすぎない。


 最後まで同じリズムを守る。


 黒田から盗めるものは全部盗んだ。


 黒田も水中ドルフィンを徹底的に鍛えた。


 以前なら楽勝だった十五メートルで、俺は黒田を振り切れなくなった。


「お前さ」

 ある日の練習後、俺は言った。


「何?」


「水中、速くなりすぎ」


「水野先生のおかげです」


「授業料払え」


「じゃあ俺のストローク指導料と相殺な」


「ケチ」


 そう言いながら、俺たちはスタート台に上がった。


 今でも練習後の五十メートル一本勝負は続いている。


 ただし、タイム差は、以前ほど一方的ではなくなった。


 そして二年の秋。


 俺は初めて五十メートル一本勝負で黒田に勝った。


 タッチして。

 掲示されたタイムを見て。

 俺は叫んだ。


「よっしゃああああ!」


 プールサイドにいた部員が一斉に拍手した。


「ついに!」


「水野が勝った!」


「歴史が動いた!」


 俺は隣を見る。


 黒田は壁につかまったまま、俯いている。


 やばい。

 さすがに悔しいか。


「……黒田」

 恐る恐る声をかける。


 黒田が顔を上げた。


「お前さ」


「うん」


「今日のラスト十五メートル、何秒だった?」


「は?」


「タイム取ってるだろ。マネージャー!」


 マネージャーが答える。


「黒田君の方が〇・二秒速いよ」


 黒田がニヤッと笑った。


「じゃあ最後の十五メートルは俺の勝ちな」


「待て待て待て!」


「何?」


「五十メートルで負けただろ!」


「でも最後の十五は俺」


「そんな競技ねえよ!」


「十五メートルまで水野共和国なんだろ?」


「昔の話だ!」


「じゃあ今日から最後の十五メートルは黒田王国」


「国家元首になってんじゃねえ!」


 部員たちが爆笑した。


 俺も結局笑ってしまった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 三年、最後の夏。


 全国高校総体(インハイ)の県予選。


 百メートルバタフライ決勝。


 三レーン、黒田湊。

 四レーン、水野航。


 俺たちのベストタイムの差は〇・〇八秒。


 もう、どちらが速いのか俺にも分からない。


 スタート台に立つ。


 隣を見る。


 黒田もこちらを見た。


「航」


「何だよ」


「十五メートル、今日はもらう」


「寝言は寝て言え」


「じゃあ最後の十五は俺のな」


「そこも俺だ」


「欲張り」

 審判に睨まれた。


 俺たちは前を向いた。


 笛が鳴る。


 静かになる。


「Take your marks」


 腰を上げる。


 息を吐く。


 この二年間。


 何千回、黒田の隣を泳いだだろう。

 何百回、負けただろう。

 何十回、勝っただろう。


 でももう、そんなことはどうでもいい。


 電子音。


 飛び込む。


 水中。


 一回。

 二回。

 三回。


 隣に黒田がいる。


 四回。

 まだいる。


 五回。

 六回。

 浮上。


 ほぼ同時。


(くそっ)

 思わず水中で笑った。


 最初の十五メートルは、もう俺だけの場所じゃない。


 腕を回す。


 一掻き。

 二掻き。

 黒田がいる。


 ターン。


 水中。

 黒田がいる。


 七十五メートル。

 並んでいる。


 八十五メートル。

 まだ並んでいる。


 九十メートル。

 苦しい。


 肩が燃える。


 肺が潰れそうだ。


 でも、横にいる。


 黒田がいる。


 最後の十五メートル。


 かつて俺が一番嫌いだった場所。

 何度も黒田に抜かれた場所。

 俺が負け続けた場所。


 そして今。


 一番好きな場所だ。


 俺は水を掴んだ。

 黒田も掴んだ。

 どちらが前にいるか分からない。


 あと十メートル。


 五メートル。

 二メートル。

 最後の一掻き。


 両手を伸ばす。


 壁。


 タッチ。


 水面から顔を出した。


 歓声が聞こえる。


 でも俺は電光掲示板を見なかった。


 黒田も見ていなかった。


 俺たちは壁につかまったまま、まず隣を見た。


「どうだった?」

 黒田が言う。


「知らん」


「勝った?」


「知らん」


「俺だと思う」


「俺だろ」


 そこでようやく二人で掲示板を見上げた。


 そして、ほぼ同時に叫んだ。


「マジかよ!」


 俺たちの高校最後の夏は、どうやら、もう少しだけ続くらしい。

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十五メートルの向こう側 Tohna @wako_tohna

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