最終章 プラットホームの向こう側

私はスマホを取り出し、画面を見つめた。そこには、居酒屋を飛び出した私を心配する、メッセージが届いてた。


画面を見つめながら、私はさっき居酒屋で誰かが口にしていた雑学を、ふと思い出していた。


――学生時代に馴染めなかった人は、大人になってから輝くらしいよ。


(……違ったんだね、凪沙)


私は心の中で、居酒屋にいる友達に語りかける。

私は中学時代、クラスに馴染めなかったんじゃない。創くんという、あまりにも特別で居心地のいい世界にいたから、外の世界なんてどうでもよかっただけだ。


「ありがとう、創くん。私、もう大丈夫だよ」


お隣の家に向かって、私は小さく呟いた。

私は今まで、「何者でもない自分」を恥じて、過去を憎み、今の生活にもどこか引け目を感じて生きてきた。でも、私は確かに、世界で一番深く、誰かに愛されていた。その事実が、凍りついていた私の胸の奥を、じんわりと温かい灯火のように満たしていく。


私はもう、あの灰色のシェルターに閉じこもる必要はない。自分の足でちゃんと歩いていこう。

踵を返し、駅へと歩き出そうとした、その時だった。


カサリ、と足元で小さな音がした。


見ると、一ノ瀬家の門扉のすぐ近く、さっき彼が車に乗り込むときにポケットから落としたのだろうか、小さな古びたノートが落ちていた。


拾い上げて、息が止まる。

見覚えのある、色褪せたノート。

――中学時代、二人でこっそり回していた、あの交換日記だった。


日記の最後のページ、当時の私たちのやり取りの後ろに、つい最近書かれたような、新しい文字が並んでいた。


『美佳。僕は約束通り、嫌な大人になっちゃったよ。

毎日が苦しくて、誰も信じられなくて、最低な日々だ。

でもね、きみが僕を忘れて、世界のどこかで笑ってくれていると思えることだけが、今の僕の唯一の救いなんだ。

僕を忘れてくれて、ありがとう。どうか、幸せになってね』


ノートの紙面には、いくつかの丸い涙の跡が、乾いて波打っていた。


「……バカ。忘れてないよ」


ノートをぎゅっと胸に抱きしめ、私は一ノ瀬家の明かりを見上げた。

彼の心は、完全に死んでなんかいなかった。あの冷酷な仮面の奥で、彼は今も、14歳の心のまま必死に戦っている。私を想う気持ちだけを、最後の砦にして。


いつか、私がもっともっと強くなって、今の生活からも抜け出して、自分の力で胸を張って生きられるようになったその時は。

今度は私が、あの重い扉を叩いて、彼を救い出しに行こう。きみが私を愛してくれたみたいに、今度は私が、きみを1番に愛するために。


数十分後、私は再び駅のホームに立っていた。

さっき地元へ向かうために降り立った下りホームの、ちょうど真向かい――現在の自分のアパートへと帰るための、上りホームだ。


ふと、線路の先、プラットホームの向こう側を見つめる。

さっきまでは「戻りたくない灰色な過去」の象徴に見えていた向こう側のホームが、今は、私を世界で1番に愛してくれた創くんの優しさが眠る、愛おしい場所に変わっていた。


カバンの中からハンカチを取り出し、涙をしっかりと拭う。

冷たい夜の空気が不思議と心地よく胸に広がった。


上り電車の強いライトが、暗闇を割ってホームを照らし出す。

乗り込む私の影は、さっきよりもずっと、まっすぐで、確かな未来へ向かって伸びていた。

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プラットホームの向こう側 @yonayui

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