第2章 一錠の青いカプセル

「ちょっと美佳? 本当に大丈夫?」


凪沙たちの心配そうな声を背中に聞きながら、私はコートを掴んで居酒屋を飛び出していた。

まともな別れの挨拶すらできなかったけれど、構っていられなかった。急に冷え込んできた夜の街を、私はただ、地元の実家がある方角へ向かってがむしゃらに走った。


冷たい空気が肺を突き刺す。頭の中が、割れるように痛かった。


走って、走って、角を曲がると、見覚えのある住宅街の景色が広がった。

実家のすぐ隣。一ノ瀬家の前に立ち、息を荒げながら、私はその表札を見上げる。


【一ノ瀬】


今も、あの頃と同じ文字がそこにある。

その時、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。私はハッとして、とっさに電柱の影に身を隠した。


出てきたのは、一人の若い男だった。

高い身長に、整った顔立ち。けれど、その瞳はひどく冷え切っていて、周囲のすべてを拒絶するような、ひどく自分本位で傲慢な空気を纏っていた。

彼は私に気づくこともなく、スマートフォンの画面を苛立たしげにタップしながら、高級外車に乗り込んで夜の闇へと消えていった。


私の知っている「お隣さん」ではなかった。

……いや、違う。


車のエンジン音が遠ざかっていくのと同時に、私の頭の中で、最後の頑丈な鍵がバキリと壊れる音がした。脳裏に、夕暮れ時の誰もいない中学校の屋上が広がる。オレンジ色の光の中で、私を愛おしそうに見つめていた、優しくて不器用な男の子の姿が鮮烈に蘇る。


――創くんだ。


私は一人ぼっちなんかじゃなかった。

「クラスの奴らなんてどうでもいい」と思えるくらい、私たちは二人だけの世界で、お互いを一番に想い合っていた。彼はいつだって私の味方で、私の特別な「1番」だったのだ。


じゃあ、あの冷たい大人の男は誰だ。

なぜ私は、こんなに大切な、世界のすべてだった彼の記憶を失っていたのか。

記憶の濁流が、一気に10年前の「あの夜」へと時間を巻き戻していく。


中学の卒業式の日の夜。私たちは実家のベランダ越しに、静かに言葉を交わしていた。

その時、創くんの表情は、今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。


『美佳。僕ね、春から遠いところに行くんだ』


創くんの家は、外からは裕福に見えても、その実態は酷いものだった。親からの異常なまでの完璧主義の押し付け。一分の隙も許されない過酷な教育。中学までは一般庶民の感覚を学ばせるという親の妙な教育方針で公立に通っていたが、高校からは、外部と完全に遮断された全寮制の高等エリート施設に放り込まれることが決まっていた。そこは、徹底的に「情」を捨てさせ、利益や効率, 競争だけを脳に叩き込むような、人間を冷酷なエリートに「書き換える」場所だった。


『僕はきっと、変わっちゃう。あそこを出る頃には、美佳の好きな僕は死んで、親のような冷たい人間になっちゃうんだ。美佳を傷つけるような、最低な大人になるかもしれない』


創くんは震える手で、ポケットから小さな青いカプセルを取り出した。

親が都合の悪い記憶を消すために使っているという、奇妙な薬。


『だからお願い。これを飲んで、僕のことを全部忘れて。僕と過ごした楽しかった時間を、全部なかったことにして。……ただの「関わりのないお隣さん」だったってことにして、美佳は美佳の人生を生きて』


当時の私は、泣いて、嫌だと叫んで、彼を強く抱きしめたはずだった。

でも、その後の未来で、創くんは本当に、実家に帰ってくるたびに少しずつあの冷たい大人へと変わっていってしまった。その姿を見るのが耐えられなくて、心が引き裂かれそうになった私は――ある日、泣きながら、彼からもらったあの青いカプセルを口に放り込んだのだ。


「あぁ……、そう, だったんだ……」


実家の前で、私はへたり込むようにして涙を流した。

誰の1番にもなれなかった、あの息苦しくて灰色の中学時代。それは、創くんがいなくなった現実の痛みに耐えられない私を護るために、彼が遺してくれた、優しくて頑丈な防衛シェルターだったのだ。

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