第2話 闇に棲まう竜との出会い

 肌を刺すような冷たい夜風が、色とりどりのドレスの裾を揺らしていく。きらびやかな音楽の調べや、楽しげな笑い声は、厚いガラス窓と頑丈な扉の向こうへと遠ざかり、いまの私にはただの騒音の残響にしか聞こえなかった。

 庭園の隅にある、手入れの行き届いた白亜のガゼボ。その冷たい石のベンチに腰掛けた私は、両手で顔を覆い、膝を抱え込むようにして小さく縮こまっていた。

 ――嘘だと言ってほしかった。夢だと言ってほしかった。

 けれど、手のひらにじわりと滲む熱と、目の奥が熱くなる感覚だけが、あれが紛うことなき現実なのだと突きつけてくる。

「……どうして、私が……」

 掠れた声が、夜の闇に吸い込まれていく。

 伯爵家の長女として生まれた私は、幼い頃からお飾りの婚約者として育てられてきた。王太子であるエドワード殿下の隣にふさわしい淑女になるため、笑顔の作り方を学び、お茶会の作法を磨き、決して我が儘を言わず、彼の機嫌を損ねないようにと常に気を配ってきた。

 地味だと陰口を叩かれようとも、魔力が微弱で何の取り柄もないと蔑まれようとも、いつか殿下の支えになれるのならと、それだけで耐えてこられたのだ。

 それなのに。

 満座の誇らしげな笑みのなかで告げられたのは、あまりにも理不尽な婚約破棄の言葉だった。

「貴様のような無能で退屈な女を、私の隣に置くわけにはいかない」

 エドワード殿下の冷酷な瞳を思い出すだけで、胸がえぐられるように痛む。彼の傍らに寄り添っていたのは、きらびやかな美貌を持つ男爵令嬢マリアだった。彼女は慈悲深い微笑みを浮かべながら、まるで敗残者を眺めるような冷ややかな視線を私に向けていた。

 役立たず。無能。退屈。

 私の十年間は、あの華やかな夜会の片隅で、音もなく踏みにじられて捨てられたのだ。冷たい石畳の上に放り出されたときの屈辱と絶望が、再びこみ上げてきて、目頭が熱くなった。

 ぽろり、と涙が一粒、冷たいドレスの生地の上に落ちた。

 泣いたって、誰も助けてはくれない。家に戻れば、無能な娘を差し向けたとして父親から冷たい叱責が待っているだろう。私の居場所など、この国のどこにも残されてはいないのだ。

 あまりの孤独感に身を震わせていると、不意に、夜の空気がピリリと張り詰めた。

 背筋を這い上がるような、得体の知れない悪寒。

 それは恐怖とも緊張ともつかない、野生の本能が発する警告のようだった。ガゼボの周囲を包んでいた穏やかな夜の気配が嘘のように消え去り、代わりに、鉛のように重く、底知れない闇の気圧が辺りを支配していく。

「……っ」

 息が詰まる。喉の奥がキュッと締め付けられ、私は思わず顔を上げた。

 月の光が雲に遮られ、庭園の影が急に濃くなったその場所。艶やかな薔薇の生け垣の向こうから、奇妙な音が響いた。

 ガサリ、と葉擦れの音がする。何かが、這うような、あるいは重い足取りで歩くような音。

 動物の気配ではない。もっと圧倒的で、もっと禍々しい、圧倒的な「暴力」の気配がそこにあった。

「誰……?」

 震える声で問うても、返事はない。ただ、草木を踏みしめる重々しい足音だけが、一歩、また一歩と確実にこちらに近づいてくる。

 逃げなければならない。そう頭では分かっているのに、足の裏が石畳に張り付いたように、一歩も動かすことができなかった。心臓が早鐘のように鳴り響き、冷たい汗が背中を伝う。

 やがて、生け垣の影から、その「怪物」が姿を現した。

 息をのむ暇すらなかった。私の視界のすべてを、圧倒的な絶望が塗りつぶしていく。

「あ……」

 声にならない悲鳴が喉の奥で消えた。

 そこに立っていたのは、人間の常識からは到底かけ離れた異形の影だった。

 体長は優に三メートルを超えているだろうか。巨大な体躯は、光を吸い込むように漆黒の鱗に覆われていた。その鱗一枚一枚が鋭い刃のようになっており、重なり合うたびに不気味な鈍い光を放っている。

 頭部にはねじれた二本の黒い角がそびえ立ち、大きく見開かれた双眸は、底知れない血のような深紅の光を湛えていた。その瞳には理性の光はなく、ただ荒ぶる本能と、世界を呪うかのような激しい苦痛の色だけが宿っている。

 竜だ。絵本や神話の中でしか語られない、伝説の竜。

 しかし、その姿は私の知る美しい聖獣の伝承とは似ても似つかなかった。全身のあちこちからどす黒い瘴気が噴き出し、傷口からは闇色の血がぽたぽたと滴り落ちている。鱗は剥がれ落ち、肉はただれ、見る者に狂気をもたらすようなおぞましい気配を放っていた。

 それが、目の前にいる。

 王城の警備の者たちはどこに行ったのだろう。これほど巨大な怪物が、どうやって厳重な結界をすり抜けて庭園に入り込んできたのか。恐怖で思考が焼き切れそうになりながらも、私はただ震えることしかできなかった。

 死ぬ。

 ここで、この化け物に引き裂かれて殺されるのだ。

 エドワード殿下に捨てられ、惨めに泣いていた私の人生の最期が、こんな人里離れた庭園で、怪物に食い殺されることだなんて。あまりの皮肉に、乾いた笑いさえ出そうになる。

 竜は、ゆっくりと巨体を揺らした。

 その動きに合わせて、周囲の空気がビリビリと震える。竜の喉の奥から、地響きのような唸り声が漏れ聞こえた。それは怒りというよりも、終わりのない苦痛に耐えかねて絞り出された悲鳴のようにも聞こえた。

 ――ガァァァッ……!

 低い咆哮が響き渡る。圧倒的な威圧感に気圧され、私はついに力尽きて、その場にへたり込んでしまった。手をついた石畳の冷たさすら感じない。ただ、巨大な影が私の上に覆いかぶさるのを見上げるしかなかった。

 竜の赤黒い瞳が、私を捉えた。

 殺される。今度こそ、逃げ場はない。

 私はぎっと目を閉じた。冷たい涙が再び頬を伝い、睫毛を濡らす。せめて苦しまずに一瞬で終わってほしい。そんな情けない願いを頭の中で繰り返しながら、身体を硬くこわばらせた。

 しかし、どれだけ待っても、突き刺されるような激痛は訪れなかった。

 代わりに聞こえてきたのは、荒々しく、しかしどこか苦しげな、熱を帯びた息づかいだった。

 ――フゥ……ハァ……ッ。

 それは、想像していたよりもずっと間近で響いていた。

 おそるおそる、私は閉じていたまぶたをほんの少しだけ持ち上げ、目の前を窺った。

「……え……?」

 思わず、間抜けな声が漏れた。

 目の前にいたのは、殺戮を好むはずの凶暴な竜ではなかった。いや、姿かたちは確かにその異形の怪物なのだが、様子が明らかに異なっていた。

 巨大な竜は、私のすぐ目の前で、まるで痛みに耐えるように巨体をうねらせ、ガゼボの柱に爪を立てていた。その全身からは、見るだけで視界が眩むような黒い霧――凄まじい量の呪詛の瘴気が噴き出している。

 竜の瞳が見開かれ、苦悶に歪んでいた。

 近寄るだけで、私の頭が割れそうに痛む。それは物理的な攻撃ではなく、この怪物が纏っている「呪い」の余波が、私の弱い精神を直接揺さぶっているからだと直感的に理解できた。

 この化け物は、戦いに来たわけではない。

 何者かにかけられた凄まじい呪いと傷に蝕まれ、狂気に呑まれそうになりながら、それでも耐えきれずにこの城の庭園へと迷い込んできたのだ。

 竜の巨体が、ガクンと大きく揺らいだ。

 耐え難い苦痛のせいか、竜はぐったりと頭を垂れ、その巨大な前足を私のすぐそばの地面についた。まるで、誰かに助けを求めるように。

 ――そんなはずはない。

 これは人々に恐れられる竜王なのだから。人間を虫けらのように踏みつぶすはずの存在なのだから。

 なのに、いま目の前で震えているその姿は、あまりにも痛々しく、そしてどこか孤独な影をまとっていた。

 それは、ついさっきまで婚約破棄を言い渡され、この庭園で独りぼっちで泣いていた私自身の姿と、不思議と重なって見えた。

「……っ」

 恐怖が、胸の中で別の感情へと塗り替わっていく。

 あれほど震えていた手足の強張りが、ふっと嘘のように消えていった。頭の奥で、微弱ながらもずっと眠っていた私の魔力が、まるで呼び水でもかけられたかのように、かすかに疼き始める。

 無能だと言われ続けた私の、ちっぽけな癒やしの力。

 誰も必要としてくれなかったその力が、いま、目の前で苦しんでいるこの異形の怪物を前にして、激しく脈打っていた。

 考えて動いたわけではない。体が勝手に動いていた。

 私は震える膝に力を込め、恐怖に支配されていた足を一歩、前に踏み出した。

「……大丈夫よ」

 自分でも驚くほど、澄んだ、そして芯のある声が夜の闇に響いた。

 目の前で巨体を丸めて苦しむ竜が、ハッとしたようにぴくりと耳を動かし、そのおぞましい双眸をゆっくりと私に向けた。

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王太子に婚約破棄された私をその場で拾ったのは呪いで醜い姿にされた異形の竜王でしたって私の癒やしの力で速攻で絶世の美男子に戻っちゃったんですけど @eringeek

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