Ⅴ
まだ踏んでいないほうが、少なくなっていた。
波が低くなったせいだ。
くぐって通っていた場所と、迂回していた場所の区別が消えて、地面はひと続きになりつつある。
少女は、いちばん高い波に登った。
いちばん高いところで、少女の背丈程しかない。
地球は正面にある。
指の幅で、二本。
少女は立っていた。
数えるものが、なくなっていた。
どれくらい立っていたのかは、数えていない。
足元で、塩が動いた。
粒が向きを揃える。
角の尖ったほうが、すべて上を向く。
揃いきったところで、粒が地面を離れた。
上へ行くほど速くなる。
数えはじめて、途中でやめた。
速さが一定ではない。
白い柱が、空へ向かって伸びていく。
柱の中は動いている。
塩が下から上へ流れている。
それだけのものが、地球のほうへまっすぐ立った。
少女は空を見上げた。
白い渦が、動いている。
巻き方が、測ってきた形ではない。
青い面の上を影がひとつ、端から端へ渡っていく。
渡りきったあと、その下の海の色が、さっきより濃くなっていた。
兎の記憶の中の海と、同じ動き方だった。
少女は足を上げた。
柱の流れが止まる。
足を戻した。
また流れる。
二度そうして、二度とも同じだった。
動かしているのは、自分の重さだ。
乗っているあいだだけ、この世界は上へ流れる。
少女は柱から降りた。
昇っていた塩が止まり、粉が降ってくる。
振り返ると、兎たちが薄くなっていた。
輪郭が残ったまま、中の白さだけが抜けている。
向こう側の星が、毛を通して見える。
しばらくすると、白さが戻る。
戻りきったのかどうかは、分からなかった。
少女は腕を伸ばし、指を立てて、測った。
指の幅で、一本と半分。
触れれば減る。
減ったぶんは自分に入る。
この柱では、そうならない。
少女は空を見た。
地球がある。
地球へ向かう塩がある。
帯に入っていた言葉がある。
――自分は、この世界が地球に触れるための手だ。
どうやって帰るのかは、帯に入っていなかった。
方法は、立っていることだ。
乗って、動かないでいればいい。
半分は、もう戻らない。
少女は、自分の前に二つしかないものを並べた。
乗れば、この世界は空になる。
兎は輪郭だけになり、波は消え、塩は残らない。
そのかわり、あの星の海が動きだす。
丸の中で犬が跳ね、皿が並べられ、誰かが誰かの名前を呼ぶ。
乗らなければ、この世界はもう少し時間をかけて空になる。
それだけだ。
あの星の海は、二度と動かない。
違うのは、そのとき、あの星の海が動いているかどうかだけだ。
少女は何度も並べ直した。
並べ直すたびに、同じところへ着く。
――乗るほうが、正しい。
数えられるかぎりのものを数えて、少女はそう結論した。
柱に乗った。
塩が流れはじめる。
足の裏から、細かい振動が伝わってくる。
少女は動かずにいた。
動かないことが、方法だった。
兎たちの輪郭から、白が抜けていく。
地面の波が低くなり、遠くの波から順に、うねりが均されていく。
空では、白い渦がほどけながら巻き直り、青の色が深くなっていく。
少女は測った。
一本と半分が、一本と少しになった。
そのとき、兎が鳴いた。
少女は、この世界で兎の声を聞いたことがない。
長さを数えようとした。
数が、来ない。
一が来て、一が来て、その先が続かない。
順番。
数えてから、動く。
いつもそうしてきた。
数えてから。
数えて――
気がつくと、少女は柱を降りていた。
足が先に動いたのは、初めてだった。
塩が止まり、粉が降り、世界は静かになった。
兎たちの輪郭に、白がゆっくり戻っていく。
戻りきらないものが、いくつもあった。
少女は腕を伸ばし、指を立てた。
一本と、少し。
半分よりも多くが、もう戻らない。
鳴いた兎を探した。
分からなかった。
どの兎も同じ白で、どの口も閉じている。
鳴き声は一度きりで、二度目はなかった。
少女はそれを、勘定に入れようとした。
入らなかった。
柱の値段は測ってある。
二度立って、二度とも同じだった。
一度きりの鳴き声には、比べる相手がない。
測っていないものを、測ったものの隣に置くことはできない。
勘定は変わらない。
――乗るほうが、正しい。
結論は、そのままそこにある。
少女はそれを持ったまま、乗り直さなかった。
理由は、ない。
あるのは、先に動いた足だけだった。
足は、勘定のどこにも入っていない。
あの星の海は、このまま二度と動かないのかもしれない。
犬は跳ねず、皿は並べられず、誰も誰かの名前を呼ばない。
それを決めたのは自分だ、ということになる。
決めたことを報告する相手は、この世界のどこにもいなかった。
柱にいつまで乗れるのかも、分からない。
世界は少しずつ、あの星から離れている。
それも、小箱に入れた。
少女は柱に背を向けて歩いた。
まだ踏んでいないほうは、もうほとんど残っていない。
少女は初めて、自分の足跡の上を歩いた。
歩きにくい。
歩きにくいことは、知っていたとおりだった。
そうして歩くうちに、白い大地の上に、緑を見つけた。
小さい。
指の先ほどしかない。
塩の割れ目から、二枚だけ葉を出している。
少女はしゃがんだ。
手を伸ばしかけて、途中でやめた。
触れれば見えてしまう。
見えたぶんだけ減る。
それはもう、値段を知っている減り方だ。
膝の上に手を戻して、少女は自分の中を探した。
丸の中の雪がある。
犬がいる。
石がある。
氷の味がある。
海がある。
月がある。
この芽は、ない。
数えられないほど入っているもののなかに、これはひとつも混ざっていない。
覚えていた者はいない。
なのに、ここにある。
少女は割れ目のふちを見た。
水のことを思い出す。
この大地に水があったのは、一度きりだ。
場所は、数に変えてある。
いちばん深い割れ目。
降り口の岩が、三つ。
ここではない。
ここの割れ目は浅く、岩はひとつもない。
あの水では、ない。
この芽の出どころは、少女の持っているどの数からも、出てこなかった。
少女はもう一度、手を伸ばせるいちばん高いところで塩をひとつまみ持って、離した。
数えた。
十六。
前は十二だった。
高さも量も、体で揃えてある。
この世界は、少女を落とす力を失いつつあった。
兎を数えた。
朝が二つ、必要だった。
二百九十。
二つの数は、同じ向きに動いていた。
勘定は、それでも変わらない。
二枚の葉。
一度きりの鳴き声。
先に動いた足。
どれも、測ったものの隣に置ける数を持っていない。
小箱の重さだけが、増えていく。
少女は手を後ろで組んだ。
もう、触れないためだ。
箱は白い海に置いたままにした。
つまみを逆に回し、帯を頭まで巻き戻してから、置いた。
次に来たときに、また鳴らせるように。
少女は首の後ろに手をやった。
結び目は固かった。
指が二度滑り、三度目でほどけた。
自分で結んだのなら、こんなには固くならない。
誰かが結んだのかもしれない。
触れても何も見えない紐に、確かめる方法はない。
少女はそれも、小箱に入れた。
赤い布は、思っていたより長かった。
少女はそれを、芽のそばの割れ目に結んだ。
風がないので、布は垂れたまま動かない。
垂れたまま、白いもののあいだで赤い。
目印だ。
次に来たときに、ここが分かるように。
少女は初めて、同じ道をもう一度通るつもりでいる。
空には地球がある。
少女は腕を伸ばして、指を立てた。
一本と、少し。
数は、変わっていない。
指の幅は、粗い目盛りだ。
この目盛りが次に動くとき、細くなる向きにしか動かないことだけが、決まっている。
少女は、しばらく腕を下ろさなかった。
下ろす理由なら、いくつでも数えられる。
数え終えてから、下ろした。
それから、赤いものの前にしゃがんで、葉を数えた。
二。
明日も数える。
――測れるものは、変わったときに、変わったと言える。
月のない海で、兎は地球を見上げる。 裡桜 @Boon56228
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