脇役の猫
去子
第1話
誰かに話したいわけじゃない。ただ、書いておかないと消える気がするから書いてる。それだけ。ほんとにそれだけ。
大学の生協で、あなたは私の前に並んでいた。買ったのはブラックコーヒーと、賞味期限が今日までの半額のシュークリーム。半額のものを選ぶ人だ、と思った。それだけで、なぜか信用できる気がした。理由になってないのはわかってる。恋なんて全部そう。理由なんて後付けで、本当は匂いとか、光のあたり方とか、そのくらい馬鹿みたいなことで人を好きになる。四年前の、四月。桜はもうほとんど散っていて、みんなが「今年は葉桜のほうがきれいだよね」って強がっていた季節だった。強がりって、みんな得意だ。私だけじゃない。
私たちは同じサークルに入って、同じ授業を取って、気づけば同じ部屋に住んでいた。「友達価格の家賃」と言って、あなたは笑っていた。友達。その二文字が、私の心臓にちょうどいい大きさの棘を刺したことを、あなたは知らない。刺さったまま四年。抜いたら死ぬから、そのまま生きてる、って書こうとしたけど、たぶんそんな大げさな話じゃない。ただ地味に痛いだけ。虫歯を放置してるのと似てる。痛いのに、ちゃんと歯医者にも行かない。治す気がない。治ったら、あなたの隣にいる理由もひとつ減る気がして。
明日から猫になろうと思う。猫が好きだからじゃない。猫なら、嫌いになられても「まあ猫だし」で済むから。人間は嫌われると、理由を探さなきゃいけないでしょう。あのときの言い方が悪かったとか、返信が遅かったとか、就活の面接に落ちて機嫌が悪かった夜に八つ当たりしたとか。そもそも顔がタイプじゃなかったとか。だから猫。にゃーん、って言えば全部チャラになる生き物になりたい。猫は牛乳を飲むものだと思っていたけど、実際はお腹を壊すらしい。大学二年の生物学の講義で、あなたが隣の席で教えてくれた。ロマンチックのカケラもない話だった。それでも覚えてる。世間が勝手に決めた「猫といえば牛乳」みたいなイメージに、身体のほうがついてこない。私もたぶん、それに近い。世間が勝手に決めた「好きな人といればいい」みたいな話に、私の身体はまるでついていけていない。ずっとお腹壊してる気分で生きてる。
帰り道、コンビニで肉まんを買った。百九十八円。レシートはそのまま捨てた。あなたと暮らし始めてから三年、通い慣れた道。店員さんは、たぶん私のことなんて覚えてない。それでもいいのに、覚えててほしいと思う自分がいて、そのことに自分でびっくりする。覚えてることが、たぶん一番厄介な症状。私、人の顔と、どうでもいい日付ばっかり覚える体質なんだと思う。
あなたは今日も遅い。新しい部署に異動してから、帰りはいつも十時を過ぎる。別に待ってない。待ってないけど、あなたが帰ってくる時間に合わせてお風呂を沸かして、冷蔵庫にプリンを二つ入れて、スマホの充電を百パーセントにしている。あなたが好きなプリンの銘柄も、シャワーの温度設定も、洗濯機に入れちゃいけない色移りするTシャツの色も、全部覚えてしまった。あなたが使ったマグカップを、なんとなく洗わずにそのまま流しに置いておくこともある。理由はない。ただ、まだあなたの痕跡がそこにあるのが、なんとなく落ち着く。ストーカーみたいって言われたら、それはもう、否定できない。
これは待っているとは言わない。生活という。生活って便利な言葉。恋を、うっすい味噌汁みたいに薄めて、毎日飲めるようにしてくれる。
あなたは私のことを好きじゃない。知ってる。二年前、あなたが誰かに電話で「あいつは家族みたいなもんだから」と言っているのを、廊下で聞いてしまったから。あの日から、私の中で「家族」という言葉は、少しだけ苦い味がする。でも、嫌いでもないでしょう。それだけで十分だよ、なんて言えるほど、私は大人じゃない。ぜんぜん大人になれない。だからあなたの「ただいま」を聞くたびに、心の中で小さくガッツポーズをしている。よっしゃ、って。何に勝ったのか、自分でもよくわからない。誰かと競ってるわけじゃないのに、今日も勝った気になってる。バカでしょう。バカだよ、知ってる。
あなたが誰かと電話で話していて、それが女の人だとわかると、私はいつもより少しだけ明るい声で「誰と話してたの」って聞く。自分の声のトーンが、普段よりワントーン高いことに気づいている。感じのいい女でいたいわけじゃない。ただ、動揺してることをバレたくないだけ。バレたくないだけなのに、結果として「気にしてなさそうな、いい女」を演じてしまっていて、それがいちばん自分に嘘をついてる瞬間だと思う。
玄関で、あなたが靴を脱ぐ。ソファに座って、私はテレビを見ているふりをする。さっきまで観ていた深夜ドラマの内容は、もう頭に入ってこない。画面の中の女優さんが誰かに告白されていて、私はそれを、自分の物語みたいな顔をして見ていた。ドラマのタイトルすら思い出せない。
「今日、何食べたい?」
「なんでもいい」
なんでもいいって、私じゃん。そう思ったけど言わなかった。私はあなたのなんでもいいになりたい。都合のいい女って言葉、みんな悪口みたいに使うけど、私からしたら褒め言葉に聞こえる。都合よく使われたい。必要とされたい。ただそれだけ。特別じゃなくていい。記念日じゃなくていい。誕生日じゃなくてもいい。あなたが去年、私の誕生日を一週間忘れていたことも、もう気にしていない、と書いてから、まだ気にしてることに気づいた。消そうか迷って、消さなかった。ほら、これが私。
冷蔵庫の奥で賞味期限を二日過ぎたヨーグルトみたいに、捨てるほどではないけど、わざわざ食べるほどでもない、そういう存在でいい。
「ねえ」
「なに」
「私、明日から猫になる」
「急だね」
「うん」
「じゃあ名前どうする?」
あなたが笑った。学生時代から変わらない、少し不揃いな八重歯の見える笑い方。それだけで、私は人間に戻ってしまった。猫になりたかったのに。あなたの前では、いつも失敗する。計画とか決意とか、全部あなたの声ひとつで木っ端微塵。
可愛くなりたかった。綺麗になりたかった。あなたが会社の同僚と食事に行くと言った日、鏡の前で三十分も服を選んで、結局いつもの部屋着のままキッチンに立った、あの夜みたいに。三十分悩んで、選んだのは「頑張ってないふり」だった。頑張ってるって思われるのが、いちばん恥ずかしいから。恋してますって顔、絶対にしたくない。あなたが誰かに私の話をするとき、「ああ、あの子ね」じゃなくて「あの子は僕の大事な人だよ」と言ってほしかった。でも、たぶん無理。だから妥協する。
あなたの人生の脇役になる。あなたが主演の映画の、エンドロールにも名前が出ない女。あなたが別の女と結婚して、子どもを二人産んで、白い犬を飼って、休日にはショッピングモールへ行くような、そんな人生の端っこで、私はずっとあなたのことを知っている。式には呼ばれないだろうけど、式の日の天気予報だけは、たぶん誰よりも先にチェックしてしまう。……何の話をしてるんだろう、私。まだ結婚もしてないのに。気持ち悪い。自分で言うのもなんだけど、ほんと気持ち悪い。それに、正直に言うと、想像の中のその人が、思ったよりちょっと綺麗じゃなかったらいいのにって思ってる自分がいる。性格も、ほんの少しだけ意地悪だったらいいのにって。最低だと思う。自分でもわかってる。わかってるけど、思っちゃうものは思っちゃう。あなたの幸せを願ってるって、さっき書いたばかりなのに。もう嘘になってる。
あなたがピーマンを嫌いなこと。靴下を左右逆に履くこと。眠いときだけ少し子どもみたいな声になること。怒ると黙ること。寂しいときほど「別に」と言うこと。就職活動がうまくいかなかった春、あなたが三日間ずっと「別に」しか言わなかったことを、私は覚えている。あの三日間、私はただ隣にいることしかできなくて、それが情けなくて、それが誇らしかった。全部知っている。だから私のことを知らなくてもいい。あなたが知らないあなたを、私だけが知っていればいい。
それでいい。
……いや、よくない。
やっぱり嘘。全部嘘。私はあなたの一番になりたい。ぶっちぎりで一番になりたい。一番って何なんだろう。競争じゃないんだから、順位なんてないはずなのに。前に一回だけ、あなたのスマホの連絡先リストを、上から順番に数えたことがある。私は何番目だったんだろう。数え終わる前に、あなたが戻ってきて、慌てて画面を消した。結局わからないまま。くだらない。でも本当にやった。たぶん一番上は会社の人だと思う。仕事の人には勝てない。仕事って強い。ずるい。
世界で一番可愛い女の子になりたい。あなたのスマホの待ち受けになりたいし、財布の中にプリクラを入れてほしいし、友達に「俺の彼女」と紹介されたい。あの、廊下で聞いてしまった「家族みたいなもん」を、いつか塗り替えたい。黒く塗って、上から「彼女」って赤ペンで書き殴りたい。あなたの人生の脇役なんて嫌だ。主演がいい。主演じゃなきゃ嫌。私を選んで。私だけを選んで。ねえってば。私がどれだけ面倒くさくても、醜くても、泣いても、太っても、老いても、あなたの好きな女の子が世界に一億人増えても、その一億人を全部蹴飛ばして、最後に私のところへ帰ってきて。お願いだから。
……なんて、ここまで一気に書いて、我ながら引く。こんなこと思ってるなんて、あなたはもちろん、友達にも言えない。言えないから、ここに書いてる。書いたところで誰にも届かないのに。
そんなことを言ったら、あなたはきっと困る。だから言わない。代わりに明日の朝、あなたの好きな豆をコーヒーミルで挽く。ガリガリ、って音がキッチンに響いて、それだけで一日が始まった気がする。あなたはまだ寝ぼけた顔で、寝癖のまま食卓に座って、「いい匂い」って言う。それだけでいい。それだけでいいから。それだけでいいなんて、本当は嘘なんだけど、今のところそれで誤魔化せてる。何回言い聞かせても、次の日にはまた同じことを思い出す。飽きもせず、しつこく、バカみたいに。
明日から猫になる予定だったけど、やっぱりやめた。人間でいる。あなたの隣で。あなたに選ばれなくても。あなたがいつか私を置いていっても。この部屋を出て、誰かと新しい生活を始める日が来ても。荷物を半分持っていかれて、残った半分の部屋で、私はまたコーヒーを挽くんだろう。音だけが、前と変わらずキッチンに響く。それでいいのかどうかは、正直まだわからない。わからないまま、たぶんまた同じことをする。
脇役は、主演より先に死んじゃいけない。それは本当。あなたが死んだら、私が困るから。あなたのいないところで生きる方法を、私はまだ知らない。あなたが最後まで生きられるように、なんて綺麗なことは、正直あんまり言えない。ただ、できれば私より長生きして。でも、私を置いていくのは嫌。矛盾してるのはわかってる。矛盾したまま生きていくしかない。そんなことを考えているうちに、また朝になった。
先週、充電中のあなたのスマホの画面に、知らない女の子の名前と、ハートの絵文字だけが一瞬光った。内容までは見えなかった。私はテレビのリモコンを探すふりをして、目を逸らした。見なかったことにした。でも本当は、その名前も、通知が来た時刻も、ちゃんと覚えている。何時何分だったかまで言える。あなたには一度も聞いていない。聞いたら、たぶん今のこの生活が終わる。だから知らないふりを続けている。知らないふりをするのが、私はたぶん誰よりも得意だ。
それでも私は、あなたの帰る時間に合わせてお風呂を沸かして、プリンを二つ買って、スマホを百パーセントにしておく。四年前の生協の列も、半額のシュークリームも、廊下で聞いた電話の声も、覚えてる。というか、そういうどうでもいいことばっかり覚えてる自分が、正直ちょっと気持ち悪いと思う。でも覚えてるものは仕方ない。忘れ方を知らないから。誰か教えて。忘れ方、誰か教えて。
だから、お願い。明日も「ただいま」って言って。
私はちゃんと「おかえり」って言うから。
脇役の猫 去子 @Sachico_
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