第3話
猫を家へ迎えた日、私はいつもより早く仕事を切り上げて帰宅した。
会社からマンションへ向かう道が、妙に長く感じられた。
キャリーケースの中には、白い毛に茶色の模様が入った、あの猫がいる。
ペットショップにいた頃は、ガラス越しに眺めていた。
日曜日の午前中になると餌をやり、掃除をし、声をかけた。
予約が入るたびに食べなくなり、予約がキャンセルされると何事もなかったように餌を食べた。
そして最後には、私が飼うことになった。
マンションの部屋の玄関を開ける。
「着いたよ」
私はキャリーケースを床に置いた。
猫はすぐには出てこなかった。
知らない場所だから、当然なのだろう。
私は急かさず、少し離れたところに座って待った。
しばらくすると、小さな顔が出てくる。
猫は周囲を見回した。
リビング。
窓。
ソファ。
テーブル。
そして私。
「ここが家だよ」
猫はゆっくりとキャリーケースから出てきた。
床の匂いを嗅ぐ。
家具の脚を確認する。
そして部屋の隅まで歩いていく。
私はその様子を眺めながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
これまで、この部屋には私しかいなかった。
仕事から帰ってきても、電気をつけるのは自分。
冷蔵庫を開けるのも自分。
夕食を作るのも自分。
「ただいま」と言っても、返事をする人はいなかった。
けれど今は違う。
猫がいる。
その事実だけで、部屋の空気が少し変わった。
夜になると、猫はソファの隅で丸くなった。
私はその隣に座る。
「猫ちゃん?」
猫が顔を上げる。
「ペットショップにいたときより、ここは広いでしょ」
猫は答えない。
「気に入った?」
猫は目を細めた。
私は笑った。
「よかった」
そんな生活が始まった。
平日の朝は、猫に餌をあげてから会社へ行く。
帰宅すると、玄関まで猫が来る日もあった。
来ない日もあった。
それでも、部屋のどこかに猫がいる。
それだけで、以前とは違う。
日曜日になると、私はペットショップへアルバイトに行く。
そして、そこで働く人たちと話す。
その中に、一人の女性店員がいた。
彼女は私が初めてアルバイトを始めた頃から、一緒に働いていた。
猫の世話をしているときにも、よく手伝ってくれた。
「あの子、元気ですか?」
「元気ですよ」
私が答えると、彼女は嬉しそうだった。
「よかった」
最初は、それだけだった。
けれど、日曜日が何度も続くうちに、少しずつ話すことが増えていった。
仕事の話。
猫の話。
好きな食べ物。
休日の過ごし方。
東京の街で見つけた小さな店。
そして、仕事が終わったあとに、一緒に昼食を食べることも増えた。
「覚えてます?」
彼女がある日、笑いながら言った。
「あの子、本当に飼い主を選んだんですね」
「そうみたい」
「じゃあ、私たちも選ばれたのかな」
「?」
私は聞き返した。
彼女は少し照れたように笑った。
「……なんでもないです」
◇
彼女と話していると、楽しい。
彼女が休みの日だと、少し寂しい。
店に来たとき、彼女の姿を探している自分がいる。
それは、猫を見つけたときとは違う感情だった。
もっと人間らしくて、少し不安で、それでも嬉しいものだった。
猫を家に迎えてから、しばらくの時間が過ぎた。
ペットショップでのアルバイトも変わらず続いていた。
私は相変わらず平日は商社で働き、日曜日になると店へ向かった。
そして、店員の彼女とも、以前より自然に話すようになっていた。
仕事が終わったあと、一緒に駅まで歩くことも増えた。
最初は猫の話ばかりだけど彼女は嬉しそうだった。
いつからか、猫の話だけではなくなった。
「会社、最近忙しいですか?」
「かなり忙しい。昨日なんて帰ったら十一時だった」
「大変ですね」
「そっちは?」
「日曜日は忙しいですけど、平日はまあまあです」
そんな何気ない会話をするようになった。
ある日、仕事が終わったあと、二人で小さなレストランカフェに入った。
窓の外では、夕方の東京を人が流れている。
ガラスに映る街の光が、少しずつ夜の色へ変わっていた。
「ここ、落ち着きますね」
彼女がコーヒーを飲みながら言った。
「うん」
私はカップを両手で包んだ。
会社では、こんなふうにゆっくり話すことはほとんどない。
仕事の話をして、必要なことを伝えて、それで終わる。
「私、最近……」
彼女が小さな声で言った。
「日曜日が楽しみなんです」
「私も」
答えてから、私は少し恥ずかしくなった。
彼女も目を伏せた。
「……猫?」
「それもあります」
「それも?」
彼女が笑う。
私は少し迷った。
言ってしまっていいのか分からない。
けれど、ここ数週間ずっと胸の中にあった感情だった。
「あなたに会えるから」
彼女の表情が止まった。
カフェの中には、コーヒーを淹れる音と、遠くの話し声だけが聞こえている。
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、少し赤くなった顔で私を見る。
「……私もです」
「本当?」
「はい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった緊張がほどけた。
嬉しい。
でも、それだけではない。
これからどうなるのだろうという不安もあった。
私は彼女の手元を見る。
テーブルの上に置かれた細い指。
少し迷ってから、私は手を伸ばした。
彼女も逃げなかった。
指先が触れる。
それだけなのに、心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「……手、つないでもいい?」
「はい」
彼女の手を握る。
温かかった。
窓の外では、東京の夜が始まっている。
たくさんの人が、それぞれの場所へ帰っていく。
私たちも店を出た。
駅までの道を、二人でゆっくり歩く。
手はつないだままだった。
「今日は、帰りたくないですね」
彼女がぽつりと言った。
「どうして?」
「もう少し、一緒にいたいから」
私は笑った。
「じゃあ、少し遠回りして帰ろうか」
「はい」
私たちは駅とは反対の道へ歩き始めた。
大きな通りから一本外れると、街の音が少しだけ遠くなる。
「
「はい」
「私たちって……?」
彼女が少し照れながら尋ねた。
私は笑った。
「私も、それを聞こうと思ってた」
「……」
彼女は言葉を探した。
「今日から、そういうことにしませんか?」
「うん」
私は頷いた。
「今日から」
彼女が笑う。
その笑顔を見ていると、これまで一人で歩いてきた東京の夜が、少しだけ違って見えた。
帰宅すると、猫が玄関までやってきた。
「ただいま」
私は猫を抱き上げる。
彼女も猫の頭を撫でた。
「ただいま」
猫は小さく鳴いた。
「この子、分かってるのかな」
「何が?」
「私たちのこと」
「どうだろう」
二人で笑う。
猫は何も知らない顔で、私の腕の中に収まっている。
私の帰る場所には……。
そして一匹の猫がいる。
私は彼女の隣に座った。
猫は二人の間で丸くなった。
窓の外には、夜の東京が静かに広がっていた。
◇
ある日の日曜日、仕事が終わったあと。
私たちは駅まで一緒に歩いた。
夕方の東京には、帰宅する人たちが溢れていた。
ビルの隙間から差し込む光が、歩道を薄く照らしている。
「篠那さん?」
彼女が言った。
「はい」
「今日、猫ちゃんの家に行ってもいいですか?」
「もちろん」
「本当に?」
「はい」
それから少しずつ彼女が私の部屋へ来るようになった。
猫は彼女がペットショップで働いていたこともあって、猫はすぐに慣れた。
「覚えてるの?」
彼女が猫の頭を撫でながら言った。
「たぶん」
「私も、あの子のこと覚えてます」
「ずっと見てましたもんね」
「はい」
彼女は猫を撫でながら笑った。
「不思議ですね」
「?」
「この子がいなかったら」
私は黙った。
確かにそうだった。
私がこの猫を飼わなければ。
ペットショップでアルバイトをしなければ。
彼女と出会わなければ。
今の生活はなかった。
◇
ある夜。
私たちは二人で夕食を食べていた。
猫は足元で眠っている。
「篠那さん」
彼女が言った。
「?」
「私たち一緒に暮らしませんか?」
私は箸を止めた。
「……私と猫と?」
「はい」
彼女は少し緊張しているようだった。
「猫ちゃんと三人で」
私は彼女の顔を見た。
胸が静かに高鳴った。
以前なら、この部屋に誰かが一緒に住む、未来なんて想像しなかった。
けれど今は、目の前に彼女がいる。
足元には猫がいる。
窓の外には、いつもの東京の夜景がある。
私は頷いた。
「一緒に暮らそう」
彼女が笑った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
◇
数週間後。
彼女の荷物が少しずつ部屋へ運ばれてきた。
洋服。
本。
小さな家具。
食器。
部屋の中に二人分の生活用品が増えていく。
それまで一人分だった食卓に、椅子が二つ並ぶ。
玄関には靴が二人分置かれる。
冷蔵庫の中にも、二人の好きなものが増えていく。
そして、猫はその真ん中で暮らしている。
朝。
私が会社へ行く準備をしていると、彼女が猫に餌をあげる。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
猫が足元を歩く。
「この子にも言って」
「行ってきます」
猫は尻尾を立てた。
私は玄関を出る。
以前と同じ東京の街。
同じ駅。
同じ会社。
同じ仕事。
それでも、何かが違っていた。
夜、仕事から帰る。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
声が返ってくる。
そして、少し遅れて猫がやってくる。
「おかえり」
猫が言うはずはない。
それでも、私にはそう聞こえた。
私は靴を脱ぎ、二人と一匹の暮らす部屋へ入る。
日曜日の午前中だけだったはずのペットショップのアルバイト。
そこで見つけた、一匹の猫。
その猫をきっかけに出会った、一人の女性。
気がつけば、私の部屋には三つの気配がある。
私。
彼女。
そして猫。
東京の街は、相変わらず人で溢れている。
会社へ向かう人も。
家へ帰る人も。
一人で歩く人も。
誰かと歩く人もいる。
私は窓の外を眺めた。
昔は、あの光の中に自分の居場所がないような気がしていた。
けれど今は違う。
帰る場所がある。
待っていてくれる人がいる。
そして、猫がいる。
日曜日の午前中に始まった小さなアルバイトは、いつの間にか、私の人生そのものを少しだけ変えていた。
日曜日、猫のいるペットショップで。 紙の妖精さん @paperfairy
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