第5章 それぞれの思惑

恋愛など、もう二度としない。

そう固く決めるほどには、私は恋というものを信じていない。

少なくとも、それを清らかで美しいものだと、無邪気に受け入れる気にはなれなかった。

そうなったのには、はっきりとした理由がある。


まだ一族と暮らしていた頃のことだ。

どうしてもと頭を下げられ、私は渋々、見合い話を受けた。

相手は、人にも妖にも品を卸す商家だった。


けれど、あちらが欲していたのは私ではない。


年若く、子を産ませるに都合のいい娘であること。

それから、この顔が気に入られたこと。

求められた理由は、ただそれだけだった。


あまりにも下卑た腹積もりに、父は激しく憤った。

当主である父が一顧だにせず断っても、相手はなお執拗に食い下がった。

幾人も妻を持つ身でありながら、臆面もなく屋敷に現れては、耳障りな猫なで声で私に話しかけてきた。


思い出すだけでも、不快だ。

あの時に胸に込み上げたのは、甘やかな期待などではない。

肌が粟立つような寒気と、自分がひどく軽んじられたことへの怒り。

あったのは、それだけだった。


あれ以来、恋だの愛だのという言葉を向けられても、簡単に信じる気にはなれない。

耳に心地よい言葉の裏で、相手が見ているのは結局、自分に都合のいい何かだけではないか。


そんな疑いが、どうしても先に立つ。


だから、あれほど真剣に口説いてきた黒い天狐の言葉にも、私はすぐには頷けなかった。

どうしても、その必死さの裏を疑ってしまうからだ。


なぜ、そこまで必死になるのか。

そこまでして欲しいものは、何なのか。

好きだの惚れただのという言葉なら、口先ひとつでいくらでも並べられる。


その背を独りにはせぬと、ああも迷いなく告げられて、心がわずかに揺れたのは事実だ。

けれど、揺れたことと信じることは別だった。


甘い言葉は、往々にして無遠慮だ。

相手のために差し出されるふりをしながら、気づけば境界の内側にまで踏み込んでくる。


あれを拒んだのは、可愛げがないからではない。

ただもう、自分を軽々しく扱われるのは御免だった。

だから、自分が誰かと婚姻する姿など、どうしてもうまく思い描けなかった。


そこにあるのは、淡い憧れではない。名もない不安ばかりだ。

そんな処へ好意を押しつけられても、戸惑いが深まるだけだった。


一族が滅んでから、私はずっと独りで生きてきた。

独りであることに慣れきった今となっては、そこから何かを変えられる気がしない。

たぶん私は、もう誰かと生きるということそのものを、うまく信じられないのだ。


だからこそ、黒狐の言葉は厄介だった。

からかいでも戯れでもないものを、ああも真っ直ぐに差し出されると、却って身の置きどころがなくなる。


疑うことはできる。

拒むこともできる。

けれど、あれをただの空言と切り捨てるには、あの眼差しはあまりにも真っ直ぐすぎた。


私は独りだ。

だからこそ、役目を果たすことだけが、自分の存在意義だと思ってきた。

祝巫はふりとして境界を守り、穢れを祓う。

それだけが、この身がここに在る理由だった。


それなのに、あれはその外側にまで手を伸ばし、独りにはせぬなどと勝手なことを言う。

そんなものを向けられても困る。

今さら誰かに寄りかかる生き方など、私にはもう分からない。

分からないままで、きっと善かったはずなのだ。

これ以上はもう、何も考えたくない。


+


ケガレを祓われてからというもの、黒狐の身体は笑いがこみあげるほど軽かった。

長いこと纏わり付いていた澱みは綺麗に消え、爪先から頭の天辺まで力が漲っている。

今ならば、何者が来ようと退く気など起こらなかった。


廃稲荷社の鳥居の前には今夜もまた境界を越えようとする妖どもが群れを成し、じっとこちらを窺っている。

先達てこの地を踏んだ祝巫はふりの気配と、残された妖力の痕跡に惹かれて寄ってきたのだろう。


黒狐は、鳥居に座ったたまま肩を竦める。


「なんとも喧しいことだ、ここに貴様らの目当てはおらぬぞ」


その気怠げな声音が癇に障ったのか、妖たちはたちまち喚き立て、呪詛めいた雑言を浴びせながら一斉に襲いかかった。


「ほう、身の程知らずが向かってくるか」


だが黒狐の青年は、僅かも怯まない。

口元に獰猛な笑みを浮かべると正面から踏み込み、群がる妖どもを容赦なく迎え撃った。


祓われた身に満ちる力は、今宵いっそう冴えている。

鳥居の前に立つその黒き影こそ、境界を越えさせぬための牙そのものだった。


飛び掛かってきた一体の首を掴んでは投げ、別の一体は鋭い爪で裂き、なおも這い寄るもの共はまとめて薙ぎ払う。

かつてなら鬱陶しさが勝っていたが、今は違う。身体が思うままに動くことが、妙に愉快ですらあった。

だが不意に、その手が止まる。

脳裏を過ぎったのは、先日ケガレを祓った祝巫はふりの女だった。


しのぶ。


あの女は、ちゃんとやっているだろうか。

あの細い身体で今日もまた独り、境界を巡っているのだろうか。


黒狐は眉を顰める。

しのぶは、現存する祝巫の最後の一人だ。

最後の一人……その言葉は、思った以上に重い。


境界を守るために濃い穢れに触れ、危ういものを裁き続ける。

しかも頼れる同胞もなくたった独りで、だ。


妖を引き裂いた爪先に、じわりと力が籠った。

あんな細腕で負うには、あまりに重い。

あの凛とした顔の裏で、無理をしているのではないか。

傷を負っても、誰にも診せずに立っているのではないか。


考え始めるとどうにも落ち着かず、這い上がってきた妖の顔面を踏み砕きながら黒狐は低く唸った。

ついこのあいだ会ったばかりの女のことが、どうにも頭から離れない。

まったく、我ながら呆れたものだ。

けれど、一度気になってしまえば駄目だった。

しのぶの涼しい眼差しも、近寄りがたいほど澄んだ気配も、祓いのあとに残った白い指先の感触さえ…妙に鮮明に思い出される。


胸の奥が、たとえようもなくざわつく。


心配しているだけではないことを、黒狐の青年はもう認めていた。

あの女には、無事でいてほしい。

できることなら二度と、独りで無茶などしてほしくない。


鳥居の向こうで気配が蠢く。

黒狐は喉の奥で短く唸り、細めた目をそちらへ向けた。


「……さっさと片づけるか」


誰に聞かせるでもなく呟いて、黒狐は再び地を蹴った。

引き裂いて、投げて、叩き伏せる。境界を越えようとするモノを、ひとつ残らず沈めていく。


この場が片づいたならしのぶの気配を探しに行こうかと、そんな柄にもない事まで考えながら、妙に気が急いていた。


夜の社に妖の断末魔が散る。

それでも黒狐の胸にあるのは、戦いの熱ではなかった。


あの祝巫は、今夜もちゃんと息をしているだろうか、とそればかりが、離れない。


あれほど美しい女を、黒狐は長い生の中で一度として見たことがなかった。

月下に立つその姿は、ただ綺麗だというだけではない。

凛として冷ややかで、けれど触れれば簡単に壊れてしまいそうな危うさをどこかに宿していた。

あんな女がこの世に本当にいるのかと、ひと目見た瞬間に息を呑んだ。

そして同時に思ったのだ。

――今を逃したら、二度と会えない。


それは理屈ではない。

ほとんど本能じみた直感だった。

だから黒狐は、躊躇わなかった。

遠回しな駆け引きも、様子見も柄ではないから、心のままに思いきり口説いた。


美しいと思った。

欲しいと思った。

もっとその目で見られたいと、強く思った。


それなのに、気が向いたらまた社を訪ねる。

しのぶは確かにそう言ったのに、あれから一向に姿を見せない。


「あやつめ、なぜ来ない」


廃稲荷社の静けさの中で、黒狐は一人むっつりと眉を寄せた。


思い当たる節がないでもない。

いや、むしろ、ありすぎた。


会えたことが嬉しくて、つい距離を詰めすぎた気もする。

美しいだの、また来いだの、隠す気もなく口にした。

あれではさすがに引かれても仕方がないのではないかと、今さらになって胸の奥が鈍く痛む。


黒狐は低く唸り、片手で顔を覆った。


「……しくじったか」


誰に聞かせるでもない呟きは、夜気の中にあっけなく溶けた。


だが、仮にそうだとしても。

引かれたのだとしても。


それで諦められるほど、浅い執着ではなかった。


しのぶが誰か別の男の隣に立つところを想像しただけで、腹の底がじり、と焼ける。

知らない男に名を呼ばれ、あの静かな目を向け、少しでも気を許すなど――そんなこと、考えたくもない。


他の男に取られるくらいなら。


そこまで思って、黒狐ははっとする。

自分でも笑ってしまうほど、見苦しい独占欲だった。


けれど、胸の内に巣食った熱は消えない。

むしろ認めた途端、いっそう鮮明になる。


あの女が欲しい。

せめてもう一度、会いたい。

呆れた顔でも、冷たい声でもいい。ただ、自分に向けてくれればそれでいい。


黒狐は長い息を吐き、夜空を見上げた。


「……会いに来い、しのぶ」


それは傲慢な物言いのくせに、どこか願いにも似ていた。


社を渡る風は冷たい。

それでも胸の内だけが、やけに熱かった。




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BORDER 最後の境界守 冬青ゆき @yuki_soyogo

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