第4章 それぞれの想い

 恋愛など、もう二度としない。

 そう決めるほどには、私は恋というものを信じていない。


 少なくとも、それを清らかで美しいものだと、無邪気に受け入れる気にはなれなかった。


 そうなった理由は、はっきりしている。


 まだ一族と暮らしていた頃のことだ。


 どうしても、と頭を下げられ、私は渋々、見合い話を受けた。


 相手は、人にも妖にも品を卸す商家の男だった。


 けれど、あちらが欲していたのは、私自身ではなかった。


 年若く、子を産ませるのに都合がいい娘であること。


 そして、この顔が気に入ったこと。


 求められた理由は、それだけだった。


 あまりにも下卑た腹積もりに、父は激しく憤った。


 当主である父が一顧だにせず断っても、相手はなお執拗に食い下がった。


 幾人も妻を持つ身でありながら、臆面もなく屋敷へ現れては、耳障りな猫なで声で私に話しかけてくる。


 思い出すだけでも、不快だった。


 あのとき胸に込み上げたのは、甘やかな期待などではない。


 肌が粟立つような寒気と、自分がひどく軽んじられたことへの怒り。


 あったのは、それだけだった。


 それ以来、恋だの愛だのという言葉を向けられても、簡単には信じられなくなった。


 耳に心地よい言葉の裏で、相手が見ているのは、結局、自分に都合のいい何かなのではないか。


 そんな疑いが、どうしても先に立つ。


 だから、あれほど真剣に口説いてきた黒狐の言葉にも、頷く気にはなれなかった。


 あの男は、冗談で言っているわけではない。


 それは分かる。


 分かるからこそ、厄介だった。


 好きだの惚れただのという言葉なら、口先ひとつでいくらでも並べられる。


 その背を独りにはせぬと、ああも迷いなく言い切られても、私にはそれを受け入れる理由がない。


 むしろ、警戒する理由のほうが多かった。


 なぜ、そこまで私に構うのか。


 なぜ、あれほど人の嫌がることを平然と言えるのか。


 あの男の言葉の裏に、何があるのか。


 考えれば考えるほど、距離を置きたくなる。


 甘い言葉は、ときに無遠慮だ。


 相手のために差し出されるふりをしながら、気づけばこちらの境界にまで踏み込んでくる。


 だから、拒んだ。


 可愛げがないからではない。


 もう二度と、自分を軽々しく扱われたくなかっただけだ。


 誰かと婚姻する姿など、今の私にはうまく思い描けない。


 そこにあるのは、淡い憧れではない。


 名もない不安ばかりだ。


 一族が滅びてから、私はずっと独りで生きてきた。


 独りであることに慣れきった今となっては、そこから何かを変えられる気もしない。


 たぶん私は、もう誰かと生きるということそのものを、うまく信じられないのだ。


 だからこそ、黒狐の存在は厄介だった。


 こちらが拒めば、普通なら一歩引く。


 けれど、あの男は引かない。


 こちらが迷惑だと言えば、面白そうに笑う。


 関わりたくないと言っても、勝手にこちらを気にかける。


 まるで、私の意思など最初から関係ないとでもいうように。


 あれほど勝手な男は、これまで見たことがなかった。


 できることなら、もう二度と会いたくない。


 少なくとも、仕事先で顔を合わせるようなことだけは御免だった。


 私は独りだ。


 だからこそ、役目を果たすことだけが、自分の存在意義だと思ってきた。


 祝巫(はふり)として境界を守り、穢れを祓う。


 それだけが、この身がここに在る理由だった。


 そこへ勝手に入り込んでくる者など、必要ない。


 誰かに寄りかかる生き方も、私には分からない。


 分からないままでいい。


 そう思っていた。


 だから私は、黒狐の言葉を、それ以上考えないことにした。


 あの男が何を思おうと、私には関係ない。


 ――そう、思っていた。


          +


 ケガレを祓われてからというもの、黒狐の身体は驚くほど軽かった。

 長いこと纏わりついていた澱みは綺麗に消え、爪先から頭の天辺まで力が漲っている。


 久しく忘れていた感覚だった。


 身体の隅々まで、自分の力が行き渡っている。


 今なら、何者が来ようと退く気など起こらない。


 廃稲荷社の鳥居の前には、今夜もまた、境界を越えようとする妖どもが群れを成していた。


 じっとこちらを窺っている。


 先日この地を踏んだ祝巫(はふり)の気配と、そこに残された妖力の痕跡に惹かれて寄ってきたのだろう。


 黒狐は鳥居に腰を下ろしたまま、肩を竦めた。


 月明かりが、その長身を薄く縁取っている。


 浅黒い肌と、浮かぶ金色の双眸だけが、夜の闇の中で鋭く光っていた。


「なんとも喧しいことだ。ここに貴様らの目当てはおらぬぞ」


 気怠げな声音が癇に障ったのか、妖たちはたちまち喚き立てた。


 呪詛めいた雑言を浴びせながら、一斉に襲いかかってくる。


「ほう。身の程知らずが向かってくるか」


 黒狐は僅かも怯まなかった。


 口元に獰猛な笑みを浮かべ、長身を沈める。


 正面から踏み込んだ。


 飛び掛かってきた一体の首を掴んで投げ、別の一体を爪で裂く。


 なおも這い寄るものどもは、まとめて薙ぎ払った。


 祓われた身に満ちる力は、今宵いっそう冴えている。


 身体が思うままに動く。


 その感覚が、妙に愉快だった。


 ――だからこそ、不意にその手が止まった。


 脳裏を過ぎったのは、先日ここへ来た祝巫(はふり)の女だった。


 しのぶ。


 あの女は、ちゃんとやっているだろうか。


 今夜もまた、あの細い身体ひとつで境界を巡っているのだろうか。


 黒狐は眉を顰めた。


 しのぶは、現存する祝巫の最後の一人だ。


 最後の一人。


 その言葉が、思った以上に重く胸へ落ちる。


 境界を守るために濃い穢れへ触れ、危ういものを裁き続ける。


 しかも、頼れる同胞もなく、たった独りで。


 黒狐は、足元に転がった妖の残骸を見下ろした。


 妖など、いくらでもいる。


 境界を脅かすものも、これから先いくらでも現れるだろう。


 だが、境界を守る側に立つ者は、もうほとんど残っていない。


 その最後の一人が、しのぶだった。


 あんな細腕で負うには、あまりに重い。


 あの女は、それを当たり前のような顔で背負っている。


 傷を負っても。


 穢れに触れても。


 誰にも頼らず、自分で始末をつけるつもりなのだろう。


 そのことが、どうにも気に入らなかった。


 妖を踏み潰す足に、じわりと力が籠る。


 自分が力を取り戻した今なら、少なくともこの界隈の妖程度なら相手にならない。


 ならば――。


 しのぶが独りで片づける必要など、ないのではないか。


 そこまで考えて、黒狐は小さく鼻を鳴らした。


 ついこのあいだ会ったばかりの女だ。


 それなのに、なぜこうも気になる。


 あの凛とした眼差し。


 穢れを前にしても揺らがなかった立ち姿。


 祓いを終えたあとでさえ、何事もなかったように次の境界へ向かおうとした姿。


 どうにも頭から離れない。


 美しいから、というだけではない。


 あの女が、自分の身を削ることを何とも思っていないように見えたからだ。


 黒狐には、それが妙に腹立たしかった。


「……馬鹿な奴だ」


 低く吐き捨てる。


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 しのぶに対してなのか。


 それとも、そんなことを気にしている自分自身に対してなのか。


 鳥居の向こうで、また気配が蠢いた。


 黒狐は顔を上げる。


 金色の双眸が、闇の中を射抜いた。


「来るなら来い」


 声に混じるのは、先ほどまでの気怠さではなかった。


 鋭い殺気が、静かに滲む。


「この先へは通さん」


 一歩、踏み出す。


 境界を越えようとするものを、ひとつ残らず沈めていく。


 爪が閃く。


 妖の身体が弾ける。


 呻き声が夜の社へ散っていく。


 やがて最後の一体が地へ沈んだ。


 黒狐は荒い息を吐くこともなく、静かに周囲を見渡した。


 気配は消えた。


 夜の社に、ようやく静寂が戻る。


 それでも、その端正な青年の顔には深い皺が残っていた。


 しのぶは、今夜どこにいる。


 どの境界を見回っている。


 また一人で、危ういものと向き合ってはいないか。


 考えれば考えるほど、落ち着かなくなる。


「……一度、様子を見に行くか」


 呟いてから、黒狐はわずかに目を細めた。


 様子を見に行く。


 それだけだ。


 助ける必要があるなら手を貸す。


 そうでなければ、余計な手出しはしない。


 ――そう決めた。


 決めたはずだった。


 けれど。


 しのぶがどこにいるのか。


 今、無事なのか。


 それだけは、自分の目で確かめておきたかった。


 黒狐は鳥居から立ち上がる。


 長身が、月明かりの中にすっと伸びる。


 浅黒い横顔を夜風が撫で、金色の瞳が遠くを見据えた。


「……無茶をするなよ」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 返事はない。


 当然だ。


 それでも黒狐は、しのぶの気配を探るように闇の向こうへ目を向けた。


 それが恋なのか、執着なのか。


 今の黒狐には、まだ分からない。


 ただ、気になる。


 それだけだった。


 最後の祝巫が、たった独りで危ういものを背負い続けている。


 それを知ってしまった以上、見て見ぬふりをすることが、どうにも気に入らなかった。


 自分が力を取り戻した今なら、手を貸せる。


 ならば、そうする。


 それだけのことだ。


 黒狐は、夜の闇へ視線を向けた。


 その先にいるはずの女の姿を、まだ見つけてもいないというのに。


 もう一度、会うことだけは、決めていた。

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