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「それじゃ、私はこれで」


土地に残る霊気を一通り確かめ終え、しのぶは静かに踵を返す。


「ゆくのか」


「ええ。ひとまず、ここでの役目は終えたから」


ひたりと重なった金の双眸に、黒い天狐は息を呑んだ。

澄みきっている。

そうして、どこまでも冷たい。

けれどその冷たさの底には、他人の痛みに触れた時だけ、微かに揺れる言葉にならぬ温度が沈んでいる。

おそらくそれは、自らの身ひとつで修羅の道をくぐり抜け、失う痛みを知った者にのみ宿る光だった。


あまりに澄んでいて、あまりに遠い。

だからこそ、黒い天狐は一歩も踏み出せなかった。

呼び止めるべきか、見送るべきか…その僅かな逡巡の間に、しのぶの背はもう境内の薄闇へと溶けかけていた。


「しのぶ」


「……なに」


「おまえの役目は、俺にも手伝えるのか」


黒い天狐の裸足の爪先が、板の間を軽く打った。

しのぶはすぐには答えず、鳥居の外に溜まる夜の気配へひとたび目をやった。


「……どうかしらね。怨まれる仕事だから、あまりお勧めはしないわ」


それから、ようやく振り返る。


「でも、貴方にその気があるなら、覚えておく。私に手を貸すのなら、妖どもからは裏切り者扱いされるけど、その覚悟はある?」


「なぜだ」


「……貴方も妖なら、理由など問わずとも知っているでしょうに」


しのぶは振り返らぬまま、低く言う。


祝巫はふりの役目は、日常と非日常のあわいを巡回して、境界からはぐれたものを裁くことよ……それが妖であれども、人霊が変じたものでも……ね」


しばし沈黙が落ちたが、それでも黒い天狐は引かなかった。

裸足の爪先が、もういちど板の間を軽く打つ。


「なら、なおさらだ」


しのぶの肩が、ごく僅かに震える。


「俺はもう、同胞に何を言われようと構わぬ」


低い声は静かだった。

けれどその静けさの奥には、いちど定めたものを覆さぬ頑なさがあった。


「おまえが境界を巡るというのなら、その背を独りにはせぬ」


その言葉に、しのぶはすぐには返せない。

ただ鳥居の前で足を止め、ほんの少しだけ横顔を見せた。


「ねえ…それが、どういう意味か分かって言っているの」


「分からぬまま口にするほど、軽くはない」


黒い天狐は、真っ直ぐにしのぶを見ていた。


「最後の境界守よ……おまえは、その血を絶やす気か」


不意に落ちてきた言葉に、しのぶは足を止めた。

ゆっくりと振り返れば、黒い天狐は金の双眸でまっすぐこちらを見ている。

そこには揶揄も冗談もなく、ただ静かな熱だけがあった。


「……貴方」


呼びかけたきり、その先が続かない。

境界線を守る血の話だと分かっているけれど、それだけではない響きが、低い声の奥に確かにあった。


「な、なにを言って…」


「おまえほどの者が、独りで絶えてよいとは思わぬ」


黒い天狐の言葉は、淡々としているぶん余計に逃げ場がない。

しのぶは何か返そうとして、けれど唇を開きかけたまま黙りこんだ。

頬が、じわりと熱を持っていく。

それが夜気のせいではないことくらい、自分が一番よく分かっていた。


「……っ」


ようやく息だけが漏れる。

いつもなら冷たく切り返せるはずなのに、今夜はひとつも言葉が見つからない。

黒い天狐は、そんな彼女をじっと見ていた。

追い詰めるでもなく、目を逸らすでもなく、ただその赤くなった頬ごと受け止めるように。


「しのぶ」


名を呼ばれただけで、肩が小さく揺れる。


「返事は、今でなくてよい」


低い声が静かに落ちる。

しのぶは俯いたまま、唇をひらいては閉じた。

何か言わなければと思うのに、うまく声にならない。

ようやく絞り出した声は、いつもの凛とした響きを少しだけ失っていた。


「……そういうことを、そんな顔で言われたら……困るわ」


その言葉に、黒い天狐はしばし黙った。

それから、初めて本当に安堵したように、柔らかく目を細める。


「困る、で済ませてくれるのか」


からかうでもなく、確かめるような声だった。

しのぶはますます頬を赤くして、とうとう視線を合わせられなくなる。


「それ以上、喋らないで」


しのぶの声は低かったが、いつものような鋭さはもうなかった。

むしろ、揺れているのを隠しきれない響きが、微かに滲んでいる。

黒い天狐はそんな彼女を見つめ、それからふっと小さく笑った。


先ほどまでの皮肉も、試すような色もない。

ひどく静かで、どこか甘い笑みだった。

そして、躊躇うように一歩だけ距離を詰める。

床板が、微かに鳴った。

それだけの音なのに、しのぶの肩はぴくりと揺れる。


「……安心した」


低く落ちた声は、夜気よりも柔らかかった。


「どうやら、嫌われた訳ではなさそうだ」


しのぶは息を呑み、ようやくほんの少しだけ顔を上げる。

けれど視線が触れた途端、またすぐに逸らしてしまった。


「嫌っていたら、とっくに斬っているわ」


精いっぱい平静を装った言葉だった。

しかしその頬はまだ赤く、まるで説得力がない。

黒い天狐はそれ以上踏み込まず、ただ目を細めた。


「……それは、光栄だ」


そのひと言に、しのぶはとうとう耳まで赤くして、片手でそっと口元を隠した。

しばしの沈黙が落ちる。

耐えきれなくなったのは、しのぶの方だった。


「……もう帰るわ」


ほとんど唐突にそう言って、くるりと踵を返す。

声はいつも通りを装っていたが、少しだけ早口だった。


「待て」


低い声に呼び止められても、しのぶは振り返らない。

振り返れば、たぶん今よりもっと顔が熱くなると分かっていた。


「待たない」


きっぱりと言い返したはずなのに、その語尾はほんの少しだけ頼りない。

黒い天狐は追いかけはしなかった。

ただ、鳥居へ向かって足早になる背を見つめ、それから小さく目を細める。


「しのぶ」


また名を呼ばれ、しのぶの肩がびくりと揺れた。


「……何よ」


「今夜は、もう困らせぬ」


その声には僅かな笑みが滲んでいた。


「だから、また来い」


しのぶは鳥居の前で足を止めた。

返事をするまでのほんの短い間に、夜気ばかりが静かに流れていく。

やがて彼女は振り返らぬまま、ひどく小さな声で言った。


「……気が向いたらね」


けれどその耳の赤さが、言葉よりもずっと正直だった。

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