③
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「それじゃ、私はこれで」
土地に残る霊気を一通り確かめ終え、しのぶは静かに踵を返す。
「ゆくのか」
「ええ。ひとまず、ここでの役目は終えたから」
ひたりと重なった金の双眸に、黒い天狐は息を呑んだ。
澄みきっている。
そうして、どこまでも冷たい。
けれどその冷たさの底には、他人の痛みに触れた時だけ、微かに揺れる言葉にならぬ温度が沈んでいる。
おそらくそれは、自らの身ひとつで修羅の道をくぐり抜け、失う痛みを知った者にのみ宿る光だった。
あまりに澄んでいて、あまりに遠い。
だからこそ、黒い天狐は一歩も踏み出せなかった。
呼び止めるべきか、見送るべきか…その僅かな逡巡の間に、しのぶの背はもう境内の薄闇へと溶けかけていた。
「しのぶ」
「……なに」
「おまえの役目は、俺にも手伝えるのか」
黒い天狐の裸足の爪先が、板の間を軽く打った。
しのぶはすぐには答えず、鳥居の外に溜まる夜の気配へひとたび目をやった。
「……どうかしらね。怨まれる仕事だから、あまりお勧めはしないわ」
それから、ようやく振り返る。
「でも、貴方にその気があるなら、覚えておく。私に手を貸すのなら、妖どもからは裏切り者扱いされるけど、その覚悟はある?」
「なぜだ」
「……貴方も妖なら、理由など問わずとも知っているでしょうに」
しのぶは振り返らぬまま、低く言う。
「
しばし沈黙が落ちたが、それでも黒い天狐は引かなかった。
裸足の爪先が、もういちど板の間を軽く打つ。
「なら、なおさらだ」
しのぶの肩が、ごく僅かに震える。
「俺はもう、同胞に何を言われようと構わぬ」
低い声は静かだった。
けれどその静けさの奥には、いちど定めたものを覆さぬ頑なさがあった。
「おまえが境界を巡るというのなら、その背を独りにはせぬ」
その言葉に、しのぶはすぐには返せない。
ただ鳥居の前で足を止め、ほんの少しだけ横顔を見せた。
「ねえ…それが、どういう意味か分かって言っているの」
「分からぬまま口にするほど、軽くはない」
黒い天狐は、真っ直ぐにしのぶを見ていた。
「最後の境界守よ……おまえは、その血を絶やす気か」
不意に落ちてきた言葉に、しのぶは足を止めた。
ゆっくりと振り返れば、黒い天狐は金の双眸でまっすぐこちらを見ている。
そこには揶揄も冗談もなく、ただ静かな熱だけがあった。
「……貴方」
呼びかけたきり、その先が続かない。
境界線を守る血の話だと分かっているけれど、それだけではない響きが、低い声の奥に確かにあった。
「な、なにを言って…」
「おまえほどの者が、独りで絶えてよいとは思わぬ」
黒い天狐の言葉は、淡々としているぶん余計に逃げ場がない。
しのぶは何か返そうとして、けれど唇を開きかけたまま黙りこんだ。
頬が、じわりと熱を持っていく。
それが夜気のせいではないことくらい、自分が一番よく分かっていた。
「……っ」
ようやく息だけが漏れる。
いつもなら冷たく切り返せるはずなのに、今夜はひとつも言葉が見つからない。
黒い天狐は、そんな彼女をじっと見ていた。
追い詰めるでもなく、目を逸らすでもなく、ただその赤くなった頬ごと受け止めるように。
「しのぶ」
名を呼ばれただけで、肩が小さく揺れる。
「返事は、今でなくてよい」
低い声が静かに落ちる。
しのぶは俯いたまま、唇をひらいては閉じた。
何か言わなければと思うのに、うまく声にならない。
ようやく絞り出した声は、いつもの凛とした響きを少しだけ失っていた。
「……そういうことを、そんな顔で言われたら……困るわ」
その言葉に、黒い天狐はしばし黙った。
それから、初めて本当に安堵したように、柔らかく目を細める。
「困る、で済ませてくれるのか」
からかうでもなく、確かめるような声だった。
しのぶはますます頬を赤くして、とうとう視線を合わせられなくなる。
「それ以上、喋らないで」
しのぶの声は低かったが、いつものような鋭さはもうなかった。
むしろ、揺れているのを隠しきれない響きが、微かに滲んでいる。
黒い天狐はそんな彼女を見つめ、それからふっと小さく笑った。
先ほどまでの皮肉も、試すような色もない。
ひどく静かで、どこか甘い笑みだった。
そして、躊躇うように一歩だけ距離を詰める。
床板が、微かに鳴った。
それだけの音なのに、しのぶの肩はぴくりと揺れる。
「……安心した」
低く落ちた声は、夜気よりも柔らかかった。
「どうやら、嫌われた訳ではなさそうだ」
しのぶは息を呑み、ようやくほんの少しだけ顔を上げる。
けれど視線が触れた途端、またすぐに逸らしてしまった。
「嫌っていたら、とっくに斬っているわ」
精いっぱい平静を装った言葉だった。
しかしその頬はまだ赤く、まるで説得力がない。
黒い天狐はそれ以上踏み込まず、ただ目を細めた。
「……それは、光栄だ」
そのひと言に、しのぶはとうとう耳まで赤くして、片手でそっと口元を隠した。
しばしの沈黙が落ちる。
耐えきれなくなったのは、しのぶの方だった。
「……もう帰るわ」
ほとんど唐突にそう言って、くるりと踵を返す。
声はいつも通りを装っていたが、少しだけ早口だった。
「待て」
低い声に呼び止められても、しのぶは振り返らない。
振り返れば、たぶん今よりもっと顔が熱くなると分かっていた。
「待たない」
きっぱりと言い返したはずなのに、その語尾はほんの少しだけ頼りない。
黒い天狐は追いかけはしなかった。
ただ、鳥居へ向かって足早になる背を見つめ、それから小さく目を細める。
「しのぶ」
また名を呼ばれ、しのぶの肩がびくりと揺れた。
「……何よ」
「今夜は、もう困らせぬ」
その声には僅かな笑みが滲んでいた。
「だから、また来い」
しのぶは鳥居の前で足を止めた。
返事をするまでのほんの短い間に、夜気ばかりが静かに流れていく。
やがて彼女は振り返らぬまま、ひどく小さな声で言った。
「……気が向いたらね」
けれどその耳の赤さが、言葉よりもずっと正直だった。
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