第12話 神の名が消えた村

森を抜けた先に、村があった。

地図には載っていない。

少女が参照した旧地球の記録にも、その名は残されていなかった。

それでも確かに、そこには人が暮らした痕跡があった。

崩れた石垣。

土に埋もれた用水路。

屋根を失った家々。

ひび割れた道の両側には、背の高いすすきが群れ、風が通るたび銀色の波をつくっていた。

男は村の入口で足を止めた。

道端に、古い石柱が立っている。

かつて村の名が刻まれていたのだろう。

だが、その表面は深く削られていた。

自然に摩耗した跡ではない。

誰かが意図的に、文字だけを消している。

少女は石柱へ手をかざした。

瞳の奥に青白い光が走る。

「表面の損傷は、約百六十年前のものです。」

「読めるか。」

「復元を試みます。」

少女の指先から細い光が広がり、削られた石の凹凸をなぞっていく。

しばらくして、空中に欠けた文字列が浮かんだ。

だが、ほとんどはノイズに崩れていた。

『……村』

最後の一文字しか残っていない。

「駄目です。」

少女は手を下ろした。

「村の名称は復元できません。」

男は削られた部分へ指を這わせた。

石の傷は深い。

名前を隠すというより、二度と読めないように壊した跡だった。

「村の名前だけじゃないな。」

「何がですか。」

男は少し先を指差した。

古い木製の案内板が、道の脇に倒れている。

二人で土を払い、板を起こした。

そこには、村の家々や田畑、神社の位置が描かれていた。

しかし、やはり文字だけが削り取られている。

商店。

学校。

集会所。

神社。

すべての名称が消されていた。

建物の形だけが残り、村は名前のない記号の集まりになっていた。

「誰かが、村の記録を消した。」

少女が呟く。

「忘れられたんじゃない。」

男は案内板を見つめる。

「忘れさせられたんだ。」

風が村を抜けていった。

空き家の軒先で、錆びた風鈴が揺れる。

音は鳴らない。

舌の部分が失われていた。

二人は村の中へ進んだ。

家々の扉は開いたままだった。

食器の残る台所。

壁に掛けられた暦。

子供の背丈を刻んだ柱。

人々は急いで逃げたわけではないらしい。

持ち出せるものは持ち出され、残された品々にも争った形跡はない。

ただ、誰も戻らなかった。

少女は一軒の家の前で立ち止まった。

玄関の脇に、木札が掛かっている。

表面には家族の姓が刻まれていたはずだ。

そこも削られていた。

「どうして、家の名前まで。」

「村ごと消したかったんだろう。」

「誰が?」

男は答えなかった。

分からないことを、それらしい言葉で埋めるのは好きではなかった。

二人はさらに奥へ進む。

やがて、道は小さな広場へ出た。

中央に一本の大木が立っている。

その根元を囲むように、朽ちた屋台が並んでいた。

祭りの跡だ。

色褪せた提灯。

腐食した太鼓。

地面に落ちた狐面。

少女は狐面を拾い上げる。

片方の目が割れていた。

「祭礼に使われたものです。」

「ああ。」

男は広場を見回す。

かつては、この場所に人が集まったのだろう。

太鼓が鳴り。

子供が走り。

誰かが酒を飲み。

誰かが神へ手を合わせた。

しかし今は、風が空の屋台をくぐり抜ける音しかない。

少女は狐面の裏側に気づいた。

「文字があります。」

男が覗き込む。

裏側には、幼い字で短い言葉が書かれていた。

『かみさまへ』

その下の文章は、水に濡れて滲んでいる。

読むことはできなかった。

「願い事でしょうか。」

「たぶんな。」

「神の名前はありません。」

少女は狐面を見つめる。

「誰に向けた願いだったのでしょう。」

男は大木の上を見上げた。

無数の枝が空へ伸びている。

「名前を知らなくても、祈ることはできる。」

「相手が分からないのに?」

「子供が空に向かって話す時、空の名前なんて考えないだろ。」

少女は少し考えた。

「合理的ではありません。」

「祈りは、だいたいそういうもんだ。」

少女は狐面を元の場所へ戻した。

今度は、割れた目が空を向くようにそっと置いた。

広場の先には、石段が続いていた。

木々の奥へ伸びる細い階段。

その両脇には、倒れかけた石灯籠が並んでいる。

「神社ですね。」

「ああ。」

男は最初の段へ足をかけた。

苔が厚く、油断すれば滑りそうだった。

少女がその後ろを歩く。

石段の途中には、いくつもの石碑が立っていた。

どれも表面が削られている。

祭神の名。

建立した者の名。

奉納した家族の名。

すべてが消されていた。

石だけが残り、そこに誰の記憶が刻まれていたのかは分からない。

少女は一つ一つを記録しながら歩いた。

「意図的な情報破壊です。」

「そうみたいだな。」

「ですが、奇妙です。」

「何がだ。」

「すべての名前が消されているのに、神社そのものは壊されていません。」

男は立ち止まった。

確かにそうだった。

村の入口も。

家々も。

祭りの道具も。

文字だけが消されている。

建物は焼かれていない。

祭具も完全には壊されていない。

誰かは、この村を存在しなかったことにしたかった。

だが同時に、すべてを消し去ることもできなかった。

「憎んでいたわけじゃないのかもしれんな。」

「では、なぜ。」

男は石段の先を見る。

木々の向こうに、鳥居が見えた。

「忘れないと、生きていけなかったのかもしれない。」

少女は何も言わなかった。

二人は石段を登り切った。

そこには、小さな神社があった。

拝殿は半ば森に呑まれている。

屋根からは若木が伸び、階段には落ち葉が積もっていた。

それでも、注連縄だけは不思議なほど形を保っている。

鳥居の額束には、本来なら神社の名が記されていたはずだった。

だが、そこも削り取られていた。

男は鳥居の前に立ち、一礼した。

少女も隣で頭を下げる。

境内へ入ると、空気が変わった。

風が止まり。

虫の声も遠のいた。

村全体が、二人の足音に耳を澄ませているようだった。

拝殿の前には、一枚の石板が置かれている。

表面には文字が刻まれていた。

いや。

刻まれていた跡だけがあった。

中央の部分が、刃物で何度も削られている。

少女は石板へ触れた。

「祭神名が記されていたようです。」

「復元できるか。」

「試します。」

青白い光が石板を覆う。

削られる前の形状を推測し、欠けた線を組み直していく。

やがて空中に、一文字だけ浮かんだ。

『水』

その先は崩れていた。

少女は解析を続ける。

しかし、何度試しても二文字目以降は現れない。

「残っているのは、これだけです。」

「水の神か。」

「可能性は高いですが、断定できません。」

男は周囲を見回した。

村には用水路があった。

田畑もあった。

この土地の暮らしは、水とともにあったのだろう。

「次の経典は、水底に眠ってる。」

男が言う。

「この村と関係があるのでしょうか。」

「かもしれん。」

少女は拝殿の奥へ視線を向けた。

「微弱な動力反応があります。」

二人は階段を上がる。

扉は固く閉ざされていた。

男が手を掛けると、木が軋み、わずかに隙間が生まれた。

その瞬間。

拝殿の奥から、声が聞こえた。

低く。

途切れ途切れに。

何度も同じ言葉を繰り返している。

『……おかえりなさい。』

男の手が止まる。

少女の瞳に光が走った。

「音声記録ではありません。」

「じゃあ、何だ。」

「内部で、何かが稼働しています。」

再び声が響く。

『おかえりなさい。』

誰も帰らなくなってから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。

それでも、その声は待ち続けていた。

名前を失った村で。

名を削られた神の前で。

帰ってくる者のいない扉に向かって。

『おかえりなさい。』

男は閉ざされた扉を見つめた。

「入るぞ。」

少女が頷く。

二人は力を合わせ、拝殿の扉をゆっくりと押し開いた。

暗闇の奥で、小さな光が一つだけ灯っていた。

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『滅びた地球でおじさんが神社を守っていたら、最後のAI少女と巡礼旅に出ることになりました。』 水月 @onistagedirector

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