第11話 神ながら
日が西へ傾き始めた頃、道は森の中へ消えた。
舗装されていたはずの路面は土と苔に覆われ、両側から伸びた木々の根が、長い指のように絡み合っている。
男は立ち止まり、手元の端末を確かめた。
摩天楼の神社で示された巡礼路。
その最初の光は、確かにこの先で点滅している。
「道がありません。」
少女が言った。
「ある。」
男は苔の下を指差す。
そこには、わずかに平らな石が並んでいた。
かつての参道だ。
「見えません。」
「見えなくなっただけだ。」
男は腰の鉈を抜き、道を塞ぐ枝を払った。
少女も倒木を持ち上げる。
細い腕からは想像できないほど軽々と、巨大な幹を道の脇へ移動させた。
「便利だな。」
男が言う。
「旅は確率だけで決まるものではないのでしょう。」
「まだ根に持ってるのか。」
「記録しているだけです。」
「それを根に持ってるって言うんだ。」
少女は小さく首を傾げた。
二人は森の奥へ進んだ。
鳥の声は聞こえない。
風もない。
外の世界から切り離されたような静けさが、木々の間に満ちている。
やがて前方に、二本の石柱が現れた。
鳥居だった。
笠木は中央から折れ、片方の柱へ斜めに寄りかかっている。
表面を覆う苔の下に、かすかな文字が刻まれていた。
男は手で苔を払い落とす。
『神奈備神社』
「かむなび……。」
少女が読み上げる。
「神が宿る場所という意味だ。」
男は鳥居の向こうを見る。
その先には、森の一部にしか見えないほど植物に覆われた境内があった。
石段には根が這い、狛犬は半ば土へ沈んでいる。
拝殿らしき建物は見当たらなかった。
「目的地に到着しました。」
少女の瞳に青白い光が走る。
「ですが、建造物の九十二パーセントが失われています。」
「残りの八パーセントを探す。」
「経典も失われている可能性があります。」
男は折れた鳥居へ一礼した。
「それを確かめに来た。」
二人は境内へ入った。
男は地面を見ながら歩く。
木の根。
砕けた瓦。
腐食した金属片。
どれも、長い年月に呑み込まれていた。
少女は周囲を走査する。
「地下に空洞があります。」
「どの辺りだ。」
少女が指差したのは、境内の中央に立つ一本の巨木だった。
幹回りは十人で囲んでも足りないほど太く、枝は空を覆う屋根のように広がっている。
根元には、小さな石の祠が埋もれていた。
男はしゃがみ込み、積もった土を手で払う。
祠の扉には鍵も取っ手もない。
代わりに、円形のくぼみが二つ並んでいた。
一方には、人間の掌を思わせる線。
もう一方には、複雑な回路模様。
少女も隣へしゃがむ。
「二重認証です。」
「俺とお前か。」
「生体情報と人工人格。摩天楼の神社と同じ組み合わせです。」
男は右のくぼみに手を置いた。
少女も左へ手を添える。
何も起こらない。
「故障か。」
「電力反応がありません。」
「なら、開かないな。」
男が手を離そうとした時、祠の奥から声が響いた。
『汝ら、何を探す。』
男と少女は同時に振り返る。
誰もいない。
声は祠そのものから聞こえていた。
機械音声ではなかった。
男でも女でもなく、老人にも子供にも聞こえる、不思議な声だった。
『汝ら、何を探す。』
少女が答える。
「失われた経典です。」
沈黙。
祠は開かない。
男は少女を見る。
「違うらしい。」
「座標は一致しています。」
声が、もう一度問いかける。
『汝ら、何を探す。』
男は巨木を見上げた。
葉の隙間から、細い夕日が差し込んでいる。
長い旅の末にここへ来た。
経典を探すため。
人類の記憶を取り戻すため。
それは間違っていないはずだった。
だが、この場所が求めている答えは、もっと別のものなのだろう。
「俺は……。」
男はゆっくり口を開く。
「なぜ先祖が神社を守ったのか、その意味を探している。」
祠の奥で、かすかな光が灯る。
少女が男を見る。
『人工の者よ。汝は何を探す。』
少女はすぐには答えなかった。
経典。
使命。
失われた記憶。
どれも正しい。
それでも、彼女の唇から言葉は出なかった。
男は急かさず待った。
風が吹く。
巨木の葉が一斉に揺れ、森全体が息をしたような音を立てる。
少女は胸元へ手を当てた。
「私は……。」
人工の心臓が、一定の速度で鼓動を刻んでいる。
百三十八年間、止まることなく。
「自分が、何者だったのかを探しています。」
祠の光が強くなる。
少女は続ける。
「いいえ。」
小さく首を振る。
「何者になれるのかを、探しています。」
その瞬間、巨木の根元を青白い光が走った。
地中深くから、何かが目覚める。
石の祠が低い音を立て、中央から左右へ開いた。
内部には、一枚の薄い板が収められていた。
紙にも金属にも見える。
淡い光を帯びた、掌ほどの板。
男が手を伸ばそうとすると、少女が制した。
「待ってください。」
祠の内部に文字が浮かび上がっている。
古い文字だった。
男は目を細める。
「読めるか。」
「一部だけ。」
少女の瞳に文字列が流れる。
「解析します。」
だが、その前に男が呟いた。
「神ながら。」
少女が顔を上げる。
「読めるのですか。」
「昔、父に教わった。」
男は祠の文字を指でなぞる。
『神ながらの道に、始めなく、終わりなし』
「どういう意味ですか。」
少女が尋ねる。
男は少し考える。
「神ながらってのは、神の命令に従うって意味だけじゃない。」
巨木へ手を触れる。
ざらついた樹皮。
その内側では、長い時間をかけて水が巡り、命が続いている。
「木は木のまま伸びる。川は川のまま流れる。人は人として生きる。」
男は少女を見る。
「何か別のものになろうとせず、そのものとして在ることだ。」
少女は自分の手を見る。
人間の形をしている。
けれど、人間ではない。
機械だと言い切るには、あまりにも多くの感情を知ってしまった。
「では、私は。」
声がわずかに震える。
「何として在ればいいのでしょう。」
男はすぐには答えなかった。
代わりに、祠の中の板を取り出し、少女へ差し出す。
「それを決めるために歩いてるんだろ。」
少女は両手で受け取った。
板に触れた瞬間、光が彼女の指先から腕へ流れ込む。
森の風景が消えた。
代わりに、二人の周囲へ無数の映像が浮かび上がる。
祈る人々。
土を耕す人々。
病床で手を握る親子。
海へ船を出す者。
宇宙船へ乗り込む者。
地球へ戻る者。
異なる時代を生きた人々の記憶が、光の粒となって流れていく。
その中心に、短い言葉が浮かび上がった。
『第一経 存在』
少女が読み上げる。
「存在……。」
『汝、何者であるかを問うな。何者として在るかを選べ。』
光が消える。
森に静けさが戻った。
少女の手の中で、第一の経典が淡く明滅している。
「これが、一つ目。」
「ああ。」
男は祠の奥を覗き込む。
そこには、次の巡礼地を示す古い地図が刻まれていた。
日本列島の中央。
かつて巨大な湖だった場所に、二つ目の印がある。
その下に、短い文字。
『水底に眠る声を聞け』
少女が地図を記録する。
「次の目的地まで、徒歩で十一日です。」
「遠いな。」
「旧交通網を利用すれば四日です。」
「動くのか。」
「確認が必要です。」
男は経典を包み、背負い袋の奥へ収めた。
「じゃあ、行くか。」
「もう出発するのですか。」
「本格的な巡礼が始まったんだろ。」
男は巨木へ向き直り、深く頭を下げる。
少女もその隣で一礼した。
「ありがとうございました。」
二人が鳥居へ戻ろうとした時、背後で葉が大きく揺れた。
振り返ると、木漏れ日の中を一枚の葉が落ちてくる。
少女は両手で受け止めた。
小さな緑の葉。
どこにでもある、ありふれた命。
少女はそれを壊さないよう、そっと掌に載せた。
「これも、神ながらですか。」
男は歩きながら答える。
「たぶんな。」
「曖昧ですね。」
「神様のことを、全部分かった顔で話す方が怪しい。」
少女は葉を見つめ、小さく笑った。
折れた鳥居をくぐり、二人は再び道へ戻る。
第一の経典を携えて。
人類が何を残したのかを探す旅は、
いつしか二人が何者として生きるのかを探す旅へと変わり始めていた。
本当の巡礼は、ここから始まる。
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