第47話 凪

「おはよう。よく眠れた?」



さくやは、ゆっくりと目を開けた。


見慣れない天井。

ぼんやりした視界。


身体を起こそうとして、昨夜の記憶が少しずつ戻ってくる。


食事。

会話。

渡された錠剤。

急に重くなった身体。


そして――



“これでやっと、自由になれるよ。”



さくやは息を呑んだ。

視線を動かす。


すぐ近くにさくらがいた。


いつもと変わらない服装。

いつもと変わらない表情。

テーブルの上には、朝食が並んでいた。


湯気の立つ味噌汁。

焼いた魚。

白いご飯。


あまりにも普通の朝だった。


「……さくらさん。」


「うん?」


「昨日の……何だったんですか。」


さくらは少し首を傾げた。

「昨日?」


「俺に飲ませたやつです。」


「ああ。」


まるで忘れていたことを思い出したような返事だった。


「ちゃんと眠れたでしょ?」


「そういう話じゃないです。」


さくやは身体を動かそうとした。

そこで初めて気づく。

自由には動けない。

昨夜より頭ははっきりしている。


だからこそ、今の状況がよく分かった。


「……これ、外してください。」


「まだだめ。」


あまりにも自然な声だった。


「どうしてですか。」


「また帰ろうとするでしょ?」


さくやはさくらを見る。


何を言っているのか分からなかった。


いや。

言語としてはわかる。

しかし、意味が分からなかった。


「帰るに決まってるじゃないですか。」


「でも、帰ったらまた同じだよ。」


「同じって?」


さくらは朝食を並べながら話す。

「会社に行って。」

「誰かに頼られて。」

「誰かに気を遣って。」

「断れなくて。」

「また疲れる。」


「さくらさん。」


「だから、少し休んだ方がいいよ。」


「少しって……。」


さくやは息を整えた。

「会社、行かないと。」


「大丈夫。」


さくらが振り返る。

「会社には、しばらく休むって伝えてあるから。」



さくやの表情が止まった。



「……何を?」


「体調が悪いから、少し休むって。」


「誰が?」


「私が。」


数秒。

部屋の中から音が消えたように感じた。


「なんで……。」


声が掠れた。


「なんでさくらさんが、そんなことするんですか。」


「さくやが休めないから。」


「俺はそんなこと頼んでないです。」


「でも、疲れてたでしょ?」


「それとこれは違います。」


「何が違うの?」


さくらは本当に分からないようだった。


怒っていない。

責めてもいない。

ただ、純粋に聞いている。


さくやは言葉に詰まった。

「……全部です。」


ようやく、それだけ言った。


________________________________________

その日の朝。

会社では、さくやの席だけが空いていた。


主任がさくらに近づいて、尋ねた。

「橘さん、さっき電話くれた件だけど…」



さくらは静かに答えた。

「ちょっと体調を崩してるみたいで。」


「そんな感じだったか?」


「本人が思ってたより、無理してたみたいです。」


主任は眉を寄せる。

「昨日まで普通だったけどな。」


「大丈夫って言う人だから。」


さくらはそう答えた。


近くにいた同僚が、少し不思議そうにさくらを見る。

「でも、なんで橘さんから連絡が……?」


当然の疑問だった。


さくらは少しだけ間を置く。

「今、人と連絡取るのもしんどいみたいで。」


「本人とは話せる?」


主任が聞く。


「今は、なるべく連絡しないでほしいって。」


「……本人が?」


「はい。」



主任はすぐには答えなかった。

完全には納得していない。

「そういえば、前の部署でも結構抱え込んでたって話は聞いたことあるな。」


同僚が言った。

「システム開発部の頃ですよね。」


「ああ。うちと一緒に仕事したときも、結構遅くまで残ってたし。」


「……じゃあ、表に出してなかっただけなのかもしれませんね。」


誰も、さくやが疲れていることを知っていたわけではない。


ただ。

過去の働き方。

普段の性格。

そしてさくらの言葉。

それらが並ぶと、

そういうこともあるのかもしれない。


そんな答えに見えてしまった。


「……分かった。」


主任が言った。

「必要な連絡だけにしておく。」


「ありがとうございます。」


さくらは頭を下げた。


さくやの席は、

その日から空いたままになった。



________________________________________

最初の頃。

さくやは何度も同じことを言った。


「帰してください。」


さくらは毎回、

「まだ休めてないから。」

と答えた。


「会社に連絡させてください。」


「今は仕事のこと考えなくていいよ。」


「せめて、自分で話を――」


「大丈夫。」


「何が大丈夫なんですか。」


さくらは答えなかった。


怒ったこともあった。

「こんなの普通じゃないです!」


声を荒げた。


さくらは黙って聞いていた。


怒り返さない。

泣かない。

責めない。

ただ、


「うん。」


と頷いた。




それが余計に怖かった。



________________________________________

ある日。

さくやは言った。

「俺が疲れてた理由、人だけじゃないです。」


「うん。」


「仕事もあります。」


「うん。」


「自分の性格もあります。」


「うん。」


少し間が空く。

本当は言いたくなかった。

でも。

言わなければ伝わらない。


「……さくらさんもです。」


さくらの表情が、初めて止まった。



さくやは目を逸らさなかった。

「俺、さくらさんにも気を遣ってました。」



沈黙。



「仕事手伝ってもらったら、申し訳ないって思うし。」

「誘われたら……断ったら悪いかなって思ってました。」


さくらは何も言わなかった。


「だから。」


さくやは小さく息を吐く。

「俺が疲れてた理由の中には……さくらさんもいます。」


長い沈黙。


ようやくさくらが口を開いた。

「……そっか。」



その一言だけだった。


さくやは、ほんの少し期待した。

届いたのかもしれない。

そう思った。


けれど。

さくらは静かに笑った。

「じゃあ、もう私にも気を遣わなくていいよ。」


さくやの表情が固まる。

「え?」


「怒ってもいい。」

「嫌いって言ってもいい。」

「話したくなかったら、話さなくてもいい。」

「何もしなくていい。」


さくらは、本当に安心したような顔をしていた。

「それでも、私はここにいるから。」


さくやは何も言えなかった。



また。

言葉は届かなかった。



________________________________________

どれくらい経ったのか。

最初は、さくやも正確に数えていた。

今日は何曜日か。

会社では何をしているはずだったか。

誰と現場に行く予定だったか。

そんなことばかり考えていた。


さくらは毎朝、仕事へ行った。


出かける前には食事を用意し、


「行ってくるね。」


と声をかける。


まるで。

ただ同じ家で暮らしているだけのように。

扉が閉まる。


その音を聞くたびに、最初の頃のさくやは胸が高鳴った。


何とかできないか。

逃げられないか。


誰かに気づいてもらえないか。


さくらがいない時間だけが、


外の世界へ戻るための時間だった。


けれど。


一日。


また一日。


同じ部屋。

同じ朝。

同じ食事。

同じ声。


外の時間だけが、

少しずつ遠くなっていった。


「帰してください。」


毎日言っていた言葉は、

いつしか、


「……帰りたいです。」


になった。


それから。

言わない日が増えた。



________________________________________

さくらは変わらなかった。

朝になれば、

「おはよう。」


と言う。


帰ってくれば、

「ただいま。」


と言う。


食事を作る。

体調を聞く。

本を置いていく。

テレビをつける。

さくやが何も話さなくても、

無理に話しかけない。


けれど。


帰すことだけはしなかった。


その一点だけが、

何があっても変わらなかった。



________________________________________

ある日の夕方。

いつもの時間を過ぎても、

さくらは帰ってこなかった。


最初の頃なら。

その時間は希望だった。


このまま戻ってこないかもしれない。

誰かがここへ来るかもしれない。

そう思ったはずだった。


けれど、その日は違った。


部屋が静かだった。

時計の音だけが聞こえる。

さくやは何度も玄関を見た。


違う。


玄関の向こうへ逃げたいのではない。

その先から聞こえてくるはずの音を、

待っていた。


鍵の音。


足音。


さくらの帰ってくる音。


そのことに気づいた瞬間、

さくやは自分自身が怖くなった。


「……何してるんだ。」


小さく呟く。


それでも。

時間が経つほど、

落ち着かなくなった。



________________________________________

扉の向こうから音がした。

さくやの身体が反応した。


足音。


さくらが戻ってきた。



「ただいま。」



その声を聞いた瞬間。

胸の奥にあった何かが、

少しだけほどけた。


さくやは、自分でも分からないまま口を開いた。


「……今日は、遅かったですね。」


さくらが止まった。

一瞬だけ目を見開く。

「心配した?」


「違います。」


さくやはすぐに答えた。

「……時間が分からなかっただけです。」


「そっか。」


さくらは笑った。

それ以上、何も言わなかった。

その笑顔を見て、

さくやは目を逸らした。


________________________________________

それから、しばらく経った頃。

さくらは会社で主任に声をかけた。


「少し相談があるんですけど。」


「どうした?」


「しばらく、在宅中心にできませんか?」


主任が顔を上げる。

「在宅?」


「はい。」


「何かあった?」


「家庭の事情で、できれば家を空ける時間を減らしたくて。」


主任は少し考えた。

「完全在宅は難しいけど……業務次第では何日かなら調整できると思う。」


「ありがとうございます。」


「現場がある日は来てもらうことになるぞ。」


「もちろんです。」


それだけの会話だった。


周囲も多少、不思議には思った。

さくやが休み始めてから、

さくらまで家にいる時間を増やそうとしている。


以前から二人が親しかったことを知っている人間ほど、

何となく察したような顔をした。


けれど、


誰も深くは聞かなかった。

さくらは、

少しずつ家にいる時間を増やしていった。


さくやにとっても、

それは少しずつ当たり前になっていった。


朝。

目を覚ますと、さくらがいる。


昼。

少し離れた場所で仕事をしている。


夜。

食事を作る音がする。


以前は、

一人になる時間を待っていた。

それなのに。

いつからか、

さくらが別の部屋にいるだけで、


その気配を探すようになった。


キーボードの音。

椅子を引く音。

咳払い。

そういう小さな音が聞こえると、


なぜか安心した。


理由は分からなかった。

分かりたくもなかった。



________________________________________

ある日。

さくらは仕事を終えると、

さくやの前に座った。


「さくや。」


「はい。」


「もう、大丈夫かな。」


「何がですか。」


さくらはしばらくさくやを見ていた。


そして。


さくやを縛っていたものを外した。

身体が自由になる。


さくやは、しばらく動かなかった。


自分の手を見る。

腕を動かす。

立ち上がれる。

歩ける。


さくらは止めなかった。


「行きたい?」


さくやは顔を上げる。

玄関を見る。

すぐそこにある。

歩けば届く。


以前なら。

何も考えずに走っていた。


そう思う。

でも。

身体が動かなかった。


さくらが静かに聞く。

「帰りたい?」


長い沈黙。


さくやは玄関を見たまま答えた。

「……分からない。」


自分の声なのに、

遠く感じた。


「何が?」


「帰りたいのか……。」


喉が詰まる。

「分からないです。」


さくらは何も言わなかった。


ただ、

静かに微笑んだ。



その夜。

さくらはなかなか眠れなかった。

隣の部屋から物音がするたびに、

目を開けた。


逃げてしまうかもしれない。

そんな不安ではなかった。


ただ、

昔のことを思い出していた。

まだ今ほど、

さくやのことを知らなかった頃。


何気ない会話の中で、


自分が笑って言った言葉。


―さくらとさくやって、一文字違いなんだね。―


あのときは、

本当にそれだけだった。


偶然。

名前が似ている。

ただ、それだけ。


なのに。


今になって思えば、

あの瞬間からだったのかもしれない。


同じ「橘」で。

名前まで一文字違いで。

自分がずっと欲しかった言葉を、

何でもない顔でくれた人。


失敗したとき。

責めるのではなく、

大丈夫だと言ってくれた人。


自分を、

ちゃんと見てくれた人。


たくさん人がいる中で、

どうしてさくやだったのだろう。


どうして自分は、

さくやの言葉だけを覚えていたのだろう。


考えれば考えるほど、

偶然だったものが、

偶然ではなかったように思えてくる。


さくらは暗い天井を見つめた。

名前が一文字違ったことも。

同じ部署になったことも。


あの日、

自分に優しくしてくれたことも。


全部。

最初から、

ここへ辿り着くためだったのかもしれない。


そう考えると、

胸の奥が静かになった。


自分は間違っていなかった。


やっぱり。

さくやは、

自分が守らなければいけない人だった。



________________________________________

翌朝。

窓の外では、

細い雨が降っていた。


さくらはいつものように朝食を作る。

味噌汁。

卵焼き。

焼いた魚。


さくやが好きだと話していたもの。


「できたよ。」


声をかける。


さくやがゆっくりと席についた。

もう、

何も繋がれていない。


さくらは向かいに座る。

「今日は、よく眠れた?」


さくやは少しだけ考えた。


そして。

「……うん。」


さくらの目が、

わずかに見開かれた。


初めてだった。

敬語ではなかった。


「そっか。」

さくらは嬉しそうに笑った。


さくやは窓の外を見る。


雨の向こうを、

人が歩いている。

傘を差して。


誰かと話しながら。

それぞれの場所へ向かっている。


しばらく、

その景色を眺めた。


けれど、

玄関を見ることはなかった。


さくらは、

そんなさくやを静かに見つめた。


あの日、

「一文字違いなんだね」と笑ったときには、

こんな日が来るなんて知らなかった。


ただの偶然だと思っていた。


でも、

違ったのかもしれない。


あの日からずっと。


さくやは、

自分が見つけるべき人だった。

自分を見つけてくれた人だった。


だから今度は、

自分がさくやを守る。


もう無理をしなくていい。

誰にも気を遣わなくていい。

誰にも頼られなくていい。

誰にも傷つけられなくていい。


ここには、

自分がいる。


それでいい。


さくらは、

小さく微笑んだ。

今度こそ。



今度こそ。






――守れた。


完

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【長編】映像業界の裏方さん ばこにき @Iiniku456

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