星渡りの白夜羊(おりひメエ)

すまげんちゃんねる

星渡りの白夜羊(おりひメエ)

 かつて、私の指先が紡ぎ出すのは天界で最も滑らかな光の絹であった。

 薄い雲を縒り合わせ、星の瞬きを縫い込んでいく織物。それを成し遂げる手首の動きや皮膚の白さこそが、天の神々の中で私に与えられた唯一の価値と自負だった。


 ――しかし、今の私にあるのは、地面に顔を近づけて草を這い探すだけの虚しい習性と、雨水や泥にまみれやすい不格好な「白い毛皮」だけである。


「機を織り、天の衣を編むという尊い役目を、愛や恋といった矮小な個の感情のために放棄したこと。その罪は重い」


 父である天帝の声は、裁きのように天の川を響き渡った。

 東と西の岸へと隔離されることすらも絶望であったのに、父が下した真の罰は、私の肉体から『織り手としての存在意義』を完全に奪い去ることだった。

 指先で布を与えられないのであれば、お前自身の血肉をもって体毛を捧げる下等な獣へ成り下がれ。


 目も眩むような雷光に打たれた後、私の視線の高さは地に伏すほど低くなっていた。

 長い黒髪や滑らかな手足は消え去り、泥に汚れる硬い蹄と、分厚くごわついた体毛がそこにあった。悲鳴を上げようとして喉を開いた瞬間、響いたのはひどく間延びした『メェ……』という鳴き声だけ。

 私は美しい衣を作る手を奪われ、ただ草を食んで身を寄せ合うことしかできない一頭の獣――ヤギにされてしまったのだ。


「かわいそうに。あれがあの、おりひめ様か」

「言葉すら通じぬ愚かな毛玉……」


 そんな神々の憐れみと嘲笑の響きを遠くに聞きながら、私は絶望し、河のほとりで死ぬことすら考えていた。


     *


 考えが変わったのは、隔離されてからしばらく経った、肌寒いある日のことだった。


「メェ……」

 私はじっと対岸を眺めていた。

 視力だけはやけに鋭くなった私の目に、遠い西の岸で、ひどく寒そうに肩を震わせる彼の姿が映った。彦星だ。彼もまた罪人として一切の恩恵を受けず、貧しい着の身着のままで罰の生活に耐えているようだった。


 天界の吹きさらしの風は、刃のように鋭い。機を織ることを奪われた私は、もはや彼に温かい衣一枚、送ってやることもできなかった。彼はずっと腕をさすり、虚空を彷徨い歩いている。


 ただ、見つめるしかできない。自分がこれほど不自由な四足歩行の獣であることに、とめどない涙が川面へ落ちた。

 だが、冷たい水面に波紋を作る己の惨めな『白い毛皮の塊』を見た瞬間。


 私の胸に、小さくとも決して消えない熱が灯った。


(いいえ。機織り機がなくたって。美しい人間の姿をしていなくたって……)


 神から与えられたこの呪いの姿。かつての羽衣とは程遠い、不恰好で縮れた分厚い毛皮。

 けれど。この風を通さない強靭な獣の毛皮ならば、あの凍えるような寒さから彼をしっかりと守ることができるのではないか。

 

 指がなければ、私自身が温かい毛布(コート)になって彼をすっぽりと包み込めばいいのだ。


 私はもう嘆くのをやめた。「醜い獣になった織姫だ」と神々に嘲笑されたって構わない。自暴自棄になって死を待つ必要なんてどこにもなかった。

 この体を、この白い毛並みを保ちさえすれば。彼に触れることの許されたたった一日、七夕の日に……どんな天の絹にも負けない、あたたかい私のすべてで彼を温められる。そう信じて待てばよかった。


     *


 そして。彼と約束された逢瀬。七夕の夜が訪れた。


「メェ……ッ」


 だというのに。雨粒を避けながら、私は小さく悲鳴を上げていた。


 見上げる星空はすべて厚い雲に閉ざされ、容赦のない大雨が空から無数に叩きつけてくる。さらには我々を隔てていた天の川は、濁り、激しい勢いで轟々と牙を剥く『濁流』へと豹変していたのだ。これでは当然、私たちの架け橋となってくれるカササギの群れなど飛んでこない。

 今年の逢瀬は、天候によって無惨に否定された。


 対岸を見ると、やはり雨に打たれて絶望する彦星のシルエットがあった。彼は顔を覆い、がっくりと膝から崩れ落ちているのがわかった。


 水際まで歩み出た私の四つ足が、小刻みに震え始める。

 ヤギの遺伝子。被毛が濡れることによる致命的な体温低下への恐怖。大水という逃れられない死の現象を前に、獣としての肉体的な本能が「入るな」「死ぬぞ」と凄まじいブレーキを掛け、四肢を石のように強張らせる。

 飛び込めば、間違いなく溺れ死ぬだろう。自らを覆うこの誇らしい毛皮が、かえって膨大な水分を吸い込む致命的な鎖となって、私を暗い水底へと引きずり込むに決まっている。


 私は立ち止まり、震える前足を一歩下げ、対岸の彼を見た。

 ――そして。


「(人間としてあなたに恋をしたこの魂を、この程度の獣の縛りなんかに止められるわけがない)」


 一切の退路を断ち、私は勢いよく濁流の中へ飛躍した。


 『天の織姫』の美しい残像をすべて捨てる代わりに、大雨の川へ己の白い獣の体を投げ出すには、一片の迷いすらなかった。


 水が顔を打ち、波のうねりが視界を乱す。肺が苦しさを訴え、水と泥を限界まで吸った毛皮は巨大な重りとなって、何度も私を水中深く引きずり下ろそうとした。

 それでも私は懸命に、泥だらけの不恰好なひづめで濁水をかき続けた。美しい指で繊細な絹糸を紡いでいた日々よりもはるかに切実に、必死に息継ぎをして西岸だけを目指し続ける。私の命も体温も、すべてあの人に届けるために。


「はぁ、はあっ……。君は一体、どうしてこんな所へ……」


 気が遠くなるほどの死闘の末、私は西岸のひんやりとした泥の上に倒れ伏していた。

 疲労で痙攣する四本足。泥を吸ってボロ雑巾のように汚れきった私を見下ろし、雨の中でずぶ濡れになっていた彦星が、膝をついて手を差し伸べてくる。彼は戸惑いながらも、獣の私の顔にかかった泥をその震える指で不器用に拭ってくれた。


 彼と目が、真っ直ぐに重なる。


 言葉は出ない。神と罪人、人間と獣という残酷な壁が立ちはだかっている。

 けれど。彼の頬に触れた視線。それはかつて機織り機の前でずっと交わし続けてきた、何も隠し事のない黒い瞳そのものだった。

 その目線の奥で小さく息を呑むのがわかった。ああ、この人は気づいてくれた。ただ打ち上げられた哀れな家畜ではなく、この瞳の奥に「彼の知っている私」を見つけてくれたのだ。


「まさか。嘘だろう。君なのか……? この濁流を渡って……」


 信じられないものを見るように涙を浮かべる彼に、私はゆっくりとまばたきを返した。


「メェ……」


 発することのできる言語はたったそれだけ。

 けれどそれは、与えられた獣の罰を受け入れ、それでも自ら愛することを証明した、最も誇り高い肯定の声だった。


 私は重く冷え切った体を引き起こした。そして泥と雨水にまみれた私の大きな白い身体のすべてを、彼の凍えきった体に覆いかぶせるようにぎゅっと押し付けた。


 それはかつて彼に見せていた天の絹なんかじゃない。チクチクして、獣の臭いがして、水気を吸った最低最悪の泥臭い毛布。


 けれど、彼をすっぽりと包み込んだ分厚い毛の奥の私の鼓動を、彦星はしっかりと受け止めてくれたのだ。


「ありがとう……。君はなんて、なんて……世界一、あたたかいんだろう」


 大きな瞳からとめどなく涙をこぼし、彼は、不器用な四本足の私を強く抱きしめ返してくれた。首筋に落ちてくる彼からの涙が、雨とは違うあたたかさで私の毛を伝っていく。


 与えられた呪いの毛皮、失った機織りの才能。それら環境のすべてを呪い、自分の悲運に同情して川岸で死を待つこともできた。

 しかし、天に「無いもの」をねだっても誰も救われない。ならば、「今の手元にある最も無様で醜い手札(毛皮)」を極限まで育て上げ、力づくで現実の濁流を渡りきるのが一番いい。


 機織りの美しい才能などなくなったって。

 自らの全てをただ分厚い獣の毛布にして、愛する人の冷え切った背中を泥まみれでも温めることはできるのだから。

 環境(運命)は最悪でも、絶望するか這い上がるかは自分次第なのだ。


 もう天上の美しい衣のことは思い出さない。彼に力強く抱きしめられながら、私はその腕の中で、命が燃えるような強い熱だけを感じていた。

 神の設計した安全な星まつりなど、私たちには必要ない。泥まみれの獣になり果てても、己のすべてを使って温めあえるこの不格好な居場所こそが、世界のどんな輝きよりも尊い私たちの星なのだ。

 彼の匂いに包まれながら、私は自らの厚い体毛の奥で、誇らしくその重みを噛み締めた。



(了)

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