育つ指

 まだ僕が道理も分からぬ程に幼かった頃、両親に連れられて母方の祖父母のところへ遊びに行った時の話だ。

 父は都会育ちだったが母は田舎生まれで、僕はよく、盆や正月などの長い休みになるとこの祖父母の元へ連れられていた。

 祖父母は気の良い人たちで、初孫である僕を大変可愛がった。お小遣いは勿論もらえたし、食卓には毎日のように好物が並び、お八つ時には沢山のお菓子をもらい、祖母とは買い物がてら手を繋いで散歩し、祖父には大きな麦わら帽子を被せてもらい、共に釣りに出かけたりなどした。目に入れても痛くない程の可愛がりようで、ついには両親に「少し甘やかしすぎでは」と注意を食らう程だった。

 このように大変甘やかしてもらえるので、僕は長期休みになると喜んでこの祖父母のところへ滞在していた。


 その日、僕は祖父母の家の広い庭で、一人で遊んでいた。祖父は父と出かけており、母も地元ということで古くからの友人と遊びに出ていた。家には祖母が残っていたが、祖母も祖母で洗濯や料理など家事をしており、僕は大変珍しく、一人で庭にいたのである。

 僕は大変に純真無垢な子どもであったので、庭の畑から塀に小さく出来た割れ目を通り、外へ出ていく蟻の行列を、膝を抱えながらしゃがみ込んで眺めていた。畑の横へ作っていた花壇へ水を遣る途中だったので、よくある象の形をしたジョウロを片手に持ち、この蟻たちは一体どこから来てどこへ行くのだろう、などと考えていた。

 塀のすぐ側には石で囲った小さな池があり、その横に一本の大きな木があった。僕は植物に詳しいわけではないのでその木の種類については今日に至るまで分からないままだが、田舎の大きめの庭によくある木だと言えば、これを読む諸兄らの幾人かは何となく想像がつくのではなかろうか。

 長い蟻の列が出ていく塀の割れ目は、この木のすぐ横にあった。なので僕はこの蟻の後をつけて、その木へと近づいていったのである。

 黒い小さな粒々が、一定の間隔で進んでいく。それはずっと向こうから続いていて、途切れることが無い。中にはその背にパンくずか何かを乗せているのもおり、小さな体と細い足で必死に歩いていくのを、一体どこまで行くのだろう、と僕は塀を出てついて行きたくなるほどに興味深く追いかけていた。

 そうして近づいた塀の割れ目。木のすぐ横の、割れ目の脇。そこに、一本の指が生えていた。

 皆さん、言いたいことは分かる。指なんて生えているわけが無かろうと。しかしながらそれは、皆さんの両腕の先にもついている、その<指>で間違いなかったのである。

 先にも書いてある通り、当時の僕は大変に無垢で、何も知らない子どもであったので、それを見ても「ははあ、世の中には植物として生えてくる指もあるのだなあ」と思う程度であった。指は第一関節程の短さで、それだけでは人差指なのか中指なのかは分からなかった。緑色の青々とした葉に守られており、それは正しく植物然としていた。

 それを見つけた僕の興味は、たちまち蟻からそれへと移り変わった。指は小さいながらも爪も指紋もついていて、恐らくは当時の僕と同じくらいの年頃の子どもの指だった(その時はそんなこと分かりもしなかったが)。

 その指はどこからどう見ても人間の指で、好奇心旺盛だった幼い僕は、ちょんとそれを人差指で突っついてみた。柔らかく、温かい。なので僕は「この指も生きているのだなあ」と、持っていたジョウロで水をチョロチョロ遣って、「元気に育てよ」などと声を掛けたりなどした。


 今思えば奇妙なことだが、僕はこの指のことを、家族の誰にも話さなかった。幼い時分の話であるので、何を思って話さなかったのか、そこまでは覚えていない。ただ、水に濡れてきらきら光る白く小さな指を、宝物を見つけたような気分で見ていたのは覚えている。


 翌日もそのまた翌日も、指は変わらずそこへ生えていた。僕は子供用のジョウロを持って毎日そこへ行き、真っ白い小さな指に水をあげていたのだった。僕の目的はその指であったが、ついでに花壇や畑にも水を遣っていたので、今まで気まぐれに水やりをしていた僕が急に毎日欠かさず植物へ水を遣るようになったのを見て、両親や祖父母は「お手伝いが出来て偉いねえ」などと言い、僕のその姿を見るのだった。

 五日ほどが経ったある日、僕は指が成長していることに気が付いた。今まで第一関節ほどしか出ていなかった指が、第二関節までにょきりと顔を出していたのだ。僕は大変驚いたが、同時に、毎日水を遣ったお陰だと嬉しくなった。このまま世話を続ければ、この指はどこまで育つのだろう? 手のひら全てが出てくるのだろうか? などと考え、うきうきした。

 その翌日、僕らは家族全員で車を三十分ほど走らせたところにある、そこでは一番大きなデパートへ出かけた。そこには近頃はとんと見なくなった屋上遊園地があり、母親と祖父母が買い物をする間、僕は父と一緒にそこで休んでいた。パンダの乗り物や電車型の遊具、小さな観覧車などがあり、父はベンチに座って僕を見ていて、僕は同じように遊びに来ている同い年くらいの子どもたちとはしゃいでいた。

 男女に混じって遊んでいたのだが、その中に僕と同い年か、少し年下くらいの女の子がおり、その子が電車の中にある窓から、外にいる彼女の父親へ手を振るのを見て、僕は唐突に、あの指がこの子くらいの歳の女の子の指なのだということに気が付いた。このまま水やりを続けたら、ひょっとしたら女の子が生えてくるかもしれない。そう考え付いて、そうしたら家にいても遊び相手ができると思い、僕はそれがとても嬉しかった。

 その後はデパートのレストラン街で食事をしたのだが、僕が家に帰りたくて愚図るので(屋上遊園地で考え付いたことが頭を離れず、早く帰って水やりをしたかったのだ)、両親と祖父母は仕方なく僕を家へ連れ帰ることにした。

 第二関節まで成長した翌日のことだったのでさすがに指は成長していなかったが、それでも僕は期待に胸を膨らませ、またジョウロでチョロチョロ水を遣ったのだった。


 その指が再び伸びていることに気付いたのは、そこからまた一週間ほどが経った頃だった。いつものように水やりに行くと、やはりにょきりと、第三関節まで伸びていた。指はなんとなく人差指に見えた。一本だけが地面から顔を出し、根本の方には緑の葉が二枚ついている。つんと指で突っついてみると、やはり指のような弾力がある。ここからどのように成長するのだろうと楽しみに思いながら、また水を遣った。

 翌日、家の中で祖母に遊んでもらっている最中、ふとした拍子に折り紙で指を切ってしまった。皆さんもご経験があるかと思うが、紙で切った切り傷というのは、派手さこそないがじわじわじくじくと痛みが続く。当然その時の僕にもそういった地味な痛みが襲い、僕は急激に折り紙をやる気がなくなってしまった。祖母も心配して絆創膏を持ってくるために僕から離れ、僕は祖母を待っている間、そこからじんわり滲んでくる赤い血を眺めていた。

 すると唐突に、「あの指も赤い血が流れるのだろうか?」という疑問が頭を過った。あの指は女の子の指をしているが、同じように紙で切ったら血が出てくるのだろうか? 痛みは感じるのだろうか? そんな風に思いながら、頭の中であの白い指の先からつうと赤い血が垂れるのを想像して、「だとしたらなんて綺麗なのだろう」と感激した。

 僕はすっくと立ちあがると、縁側から庭へ出た。脱ぎ捨てていた履物を履いて、折り紙を片手に木の側へ行く。そのすぐ横に、隠れるようにして生えているその指の前へしゃがみ込むと、持っていた折り紙を水平にして指の腹に沿え、えいやと横に引っ張った。


 白い指の腹に、よく見なければ分からないほどの薄い線が生まれた。少しずつその線が濃くなっていき、やがてそこからじわりと滲んできたのは、赤黒い汁だった。

 僕は大変がっかりした。赤い血であったならさぞ映えたであろうに、そうではなかったからだ。その汁はどんどん流れ落ち、止まることを知らない。僕は悲しい気持ちでそれを見つめた。汁が流れれば流れるほど、指は白から紫へ、紫から黒へと変色していく。あーあ。そんな風に思いながら、僕は何もせずそれを見ていた。


「こんなところにいたのかい」


 背後から、祖母が僕に声を掛けた。しゃがんだままで振り返ると、祖母は僕と、目の前で汁を垂れ流して萎れていく指を見て優しく微笑んだ。


「今年も咲いたんだねえ」


 祖母は指を知っているようだった。そのまま僕の隣に同じようにしゃがみ込み、どくどくと汁を流す指を見ながら言う。


「小さくて、綺麗な黒い髪をしていてねえ。真っ白な、可愛らしい子だったんだよ」


 一体この小さな指のどこにそれほどの水分があったのだろう。そう思うほど、汁は止まらない。


「小学生の頃に、引っ越しちまってねえ」


 やがて指は黒くなり、完全に萎れてしまった。地面に溜まった赤黒い汁の中央に、しぼんで倒れてしまう。


「私は、それが嫌で嫌でたまらなかったのさ」


 祖母はそこまで言うと、僕に笑いかけた。


「よしこちゃんっていうんだよ」


 それ以降、僕は夏にこの家へ来る度、祖母と一緒にこの指の最期を見届けるようになった。

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余白に棲む 鶴喜 @tsuruki

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