7. 空棺の相棒、マスケット
二日目の朝も、レイラは夜明け前に目が覚めた。
左腕の包帯を確かめる。昨日より痛みが引いている。動かせる範囲が広がった。操舵桿を両手で握れるかもしれない。それだけで、体が少し軽くなった気がした。
甲板に出ると、アルバートがすでに操舵室の前に立っていた。酒瓶を片手に、夜明けの空を眺めている。レイラの足音を聞いても振り返らなかった。
「左腕、昨日より動くかい」
「ええ。今日は両手で握れそう」
「ならもう少し難しいことをやってみようか」
それだけ言い、アルバートは操舵室の扉を開けた。酒瓶を入口の脇に置いていく。レイラはその動作を目で追った。昨夜ゼフィルが言っていた言葉を思い出す。
あの人が酒を手放すのは、本当に大事なことを考える時だけなんです、と。
レイラは黙って操舵席に着いた。
二日目の訓練は、一日目とは毛色が違った。アルバートが要求してきたのは、速度でも精度でもなく、「判断」だった。
「今から俺が指示を出す。ただし、その指示が正しいとは限らない」
「……どういうこと?」
「おかしいと思ったら従わなくていい。君が正しいと思う方を選んでくれ」
レイラは少し面食らった。訓練で教官の指示に従わない、という発想が、これまでの騎士団の訓練にはなかった。
「なぜそんな訓練を……」
「計器が死んで、教官もいなくて、一人で判断しなきゃいけない状況が来る。そういう時に他人の指示を待つ癖がついてると死ぬ。君は昨日それをやったわけだが――」
レイラは黙った。墜落の瞬間を思い出した。計器が全滅し、通信が途絶え、それでも誰かからの信号を待ち続けていた自分を。
「わかった」
「じゃあ行こうか」
艇が空へ舞い上がる。アルバートの指示が飛んでくる。右へ、左へ、高度を上げろ、下げろ。レイラはその一つ一つを、自分の感覚と照らし合わせながら判断した。三回に一回、アルバートの指示は明らかに間違っていた。風向きと逆の舵、高度を上げるべき場面での降下指示。レイラはその度に指示を無視し、自分の判断で操舵した。アルバートは何も言わなかった。正解しても、間違えても、ただ窓の外を眺めている。しかしその沈黙が、怒りでも呆れでもないことはわかった。ただ、見ている。
一時間ほど経ったところで、アルバートが口を開いた。
「さっきの場面、俺の指示通りに動いたのはなぜだい」
「……風が読めなかったから、自分の判断に自信が持てなくて」
「うむ。今日も正直でよろしい。だが、次は自分を信じてみな。君の感覚は、思ってるより正確だよ」
レイラは頷いた。それから、もう一度同じ場面が来た時、迷わず自分の判断で動いた。艇が、滑らかに風に乗った。
「……よし。合格だ」
今日もその一言が、一番重かった。
発着塔に戻ったのは昼を少し過ぎた頃だった。ゼフィルが用意してくれた昼食を三人で甲板で食べながら、レイラは今日の訓練を頭の中で整理していた。アルバートは特に会話もなく、黙々とパンをちぎっては口に運んでいる。その隣でゼフィルが補給品のリストを読み上げていた。
「魔力石が残り二割です。あと燃料用の精製油も」
「大分厳しいな。街に降りて買ってきてくれないか、ゼフィルくん」
「良いですけど、お金は?」
「……財布はどこだっけ」
「アルさんの上着の内ポケットです、いつも」
「あれーー? そうだったっけ?」
アルバートが上着の内ポケットを探り、革の財布を取り出した。中身を確認し、ゼフィルに渡す。ゼフィルは中を覗いて、小さく溜息をついた。
「また………酒に使いましたね」
「必要経費……ってことにはなら―――」
「ならないです! 全然、必要経費じゃないです!」
ゼフィルは立ち上がり、財布を持って発着塔の方へ歩いていった。その背中が見えなくなるのを確かめてから、レイラはアルバートに向き直った。
「近いうち、帝国の回収隊がここに来るかもしれない」
意を決したようにレイラが言った。
「急だね。なんでまた」
「あの兵器を……私を、回収しに来る筈なんだ」
「君を、か」アルバートはパンを一口かじり、空を見上げた。「帝国ってのは相変わらず、人の扱いが荒っぽいんだねぇ」
「巻き込むわけにはいかない。あのときは必死で"助けてくれ"なんて言ったけど」
レイラはアルバートの目を真っ直ぐに見た。彼の灰色の隻眼はピクリとも動かない。
「私は一人で逃げるから。ここまで良くしてくれて……ありがとうございました」
言いながらレイラが頭を深々と下げる。アルバートは彼女の艶のある黒髪を見下ろした。それから眼を鷹のように細めた。
「まあ、そう慌てなくていいんじゃない」
「でも」
「飯を食ってからにしよう。腹が減ってると判断が鈍る。それに買い出しに行ってる間にいなくなっては、ゼフィルにも失礼でしょ」
レイラは言葉に詰まった。それ以上何も言わず、パンの続きを食べることにした。
「―――ってありゃあ、案外来るのが早かったなぁ。どうしたもんかね、こりゃ」
回収隊が来たのは、午後も遅い時間だった。最初に気づいたのはアルバートだった。甲板でゼフィルと補給品の確認をしていたレイラが、アルバートの視線が発着塔の入口へ向いたことに気づいた時、すでに彼は立ち上がっていた。
「ゼフィル、艇の中に入ってろ」
「え、何かあったんですか」
「客人だ。あんまり歓迎したくない種類のな」
発着塔の入口から、一団が姿を現した。帝国軍の紋章を持つ精鋭部隊だった。全員が
「帝国軍回収部隊だ」指揮官が声を張り上げた。「レイラ・クライツ殿を引き渡してもらおう。また、輸送中だった魔導装置も返還してもらう。大人しく従えば、それ以上は求めない」
レイラの体が、わずかに強張った。アルバートはその横で、
「クライツ」独り言のような声だった。「君、クライツ家か」
「そう……やっぱり、知ってるのね」
「ふうん」アルバートは頭を掻いた。「貴族のお嬢さんじゃないか。それがなんで兵器の輸送なんかしてたんだ。クライツって確か穏健派だろ、らしくないな。そういうのはドラクロワが好んでやりそうだが」
「……ドラクロワのことも、よく知ってるのね」
アルバートは答えなかった。代わりに、指揮官の方へ顔を向けた。
「お兄さんたち、レイラ・クライツってのは誰のことだい」
指揮官が眉をひそめた。
「とぼけるな。お前の隣にいる女性だ。お前が匿っていたことは、聞き込みで判明している」
「匿うだなんて人聞きの悪い。俺はただの通りすがりのおっさんだよ。のんびり艇の整備でもしながら過ごしてただけで」
「回収隊の命令に従わない場合は、実力行使も辞さない」
指揮官の耳にアルバートの冗談は届いていない。剣の柄に手をかけ、わずかに刀身を覗かせる。ギラリと怪しい光が辺りに伸びる。
「もう、物騒だなあ。話も聞いてくれやしないか」
のんびりと言いながら、しかしその視線は、鋭く発着塔の構造へと奔っていた。
石造りの壁、張り出した
その視線の動きに気づいた者は、回収隊の中に一人もいなかっただろう。レイラだけが、気づいていた。
「最後にもう一度聞く」指揮官の声が低くなった。「レイラ・クライツ殿を引き渡せ」
「うーん」アルバートは少し考えるふりをしてから言った。「嫌だ」と。
「……何?」
「嫌だって言ったんだよ。聞こえなかったか。俺は嫌いなんだよ、帝国のそーゆー高圧的なやり方が」
指揮官が手を上げた。部隊が一斉に動き出した瞬間、アルバートは背負っていたマスケット銃を構えた。そして神速の動きで弾を籠めると、銃口を上げ、引き金を引いた。回収隊の兵士が、抱えていた銃を構えようとした、その刹那のできごとだった。
一発目は、発着塔の上層、部隊の頭上に張り出した石造りの桟橋へ向けて放たれた。
体勢を整える為、部隊が後退しようとした瞬間には、すでに出口がなかった。隊員たちが振り返った時、アルバートはすでに次弾を込め終わっていた。
二発目は壁へ向けて放たれた。硬い石壁に当たった弾丸が角度を変え、部隊の足元の石畳を
「う、動くな!!」
「動くと弾に当たる!!」
アルバートの放った弾丸は、未だ誰も傷つけることなく跳ねている。どこへ動けばいいかわからなくなった部隊の動きが、一瞬止まった。
その一瞬で、アルバートは甲板から飛び降りていた。着地の音すら置き去りにして。
先頭の隊員が魔導剣を抜く。が、アルバートの手が剣を持つ彼の右手首を掴んだ。
「痛いぞ。ごめんよぉ」
関節を逆方向へ、最小限の力で押す。骨が外れる感触。隊員が声を上げる前に、首筋の
「な、何をしたーー!!」
次の隊員が横から斬りかかってくる。アルバートは体をずらし、剣の軌道を
息が乱れていない。彼の隻眼の光だけが戦場を駆け回り、残像となって隊を壊滅させていく。
三人目、四人目が同時に向かってくる。アルバートは二人の間に割り込み、互いの軌道がぶつかるように誘導した。二人が衝突し、体勢を崩した瞬間に、それぞれの首筋を順番に処理した。
「貴様…!!」
指揮官が魔導銃を構えた。アルバートは、三発目が込め終わったマスケット銃を、指揮官の足元の石畳へ向けて放った。
「……!」
跳弾が指揮官の魔導銃を弾き飛ばす。手が
「っうし。これで全員戦闘不能っと」
アルバートが歩み寄ってくる。急いでいない。追い詰めているから、急ぐ必要がない。
まるで散歩でもしているような歩調だった。その余裕が、指揮官に本能的な恐怖を植えつけた。
「お兄さん」アルバートは指揮官の目の前で立ち止まり、気の抜けた声で言った。「帝都に戻ったら、上の人間に伝えてくれないか」
「……な、何を言っている、貴様」
「クライツの嬢ちゃんは俺が預かる。取りに来たいなら、来るのは勝手だけど、空に棺桶が増えていくだけだよ。………それと」アルバートは首を傾けた。「竜を兵器にしようなんて、ろくな考えじゃない。昔も今も」
指揮官の喉が、ひくりと動いた。
「……お前は、一体何者だ」
「そのへんにいるおっさんだよ」
アルバートは指揮官の首筋に手を添え、静かに圧迫した。指揮官の体が、力なく石畳に崩れ落ちる。発着塔の中に、静寂の
石畳に倒れた回収隊の面々をアルバートは
甲板からレイラが見下ろしていた。吊り上がった目が、大きく見開かれていた。ゼフィルも操舵室の扉の隙間から顔を出し、同じような顔をしていた。アルバートは二人を見上げ、頭を掻いた。
「やれやれ、面倒なことになったね、どうも。
「私のことなんて放っておいてくれれば良かったのに。貴方は、明確に帝国を敵に回した。これから、どんな酷いことをされるか………」
「必ずしもそうとはかぎらんさ。ゼフィル、艇の準備をしてくれ」
「え、今からですか」
「回収隊が来たってことは、もっと大きいのが後から来るかも知れない。街にいたら迷惑がかかるでしょ」
「出立ですね」
「そういうことだ。ああ、そういえば補給品は十分な量が買えたか」
「買えました」
「酒は?」
「……一本だけ買いました」
「よし、すぐに出ようじゃないか!!」
レイラはアルバートが甲板に上がってくるのを待ち、真っ直ぐに向き直った。
「アルさん」
「なんだ」
「本当に私を助けてくれるの?」
アルバートは少し考えるような間を置いた。それから、面倒くさそうに頭を掻いた。実際に彼は「面倒くさい」と思っていたに違いない。だが、その声色には一点の後悔も含まれていなかった。
「君が竜の群れの中に一人で突っ込んでも、三秒で落ちるし、帝国に戻ったとしても、良い扱いは受けないでしょ」
「それだけ?」
「それだけだって、君は自分の命を軽視する癖があるね」
レイラはしばらくアルバートの顔を見た。とろんとした目が、しれっとこちらを見返している。その目の奥に何があるのか、十六年の人生ではまだ読めなかった。
「誰かを助けるのに、理由がいるのかい?」
「……あ、ありがとう」
「礼はいらんよ。君が無事に家に帰れたら、たんまりお酒を送ってくれれば。……とりあえず、操舵席に着いてくれ」
旧式艇のエンジンが唸りを上げた。ヴェルタの街が、夕暮れの光の中に沈んでいく。南の空には、まだ何も見えない。しかしアルバートは、その空の向こうに何があるかを知っていた。
「アルさん」ゼフィルが補佐席から声をかけた。「これ、どう見ても僕も巻き込まれるやつですよね」
「あ、ごめん」
「……良いんですよ。僕はそんな貴方だからこそ、今までついてきたんだ」
ゼフィルは深く息を吐いた。レイラは操舵桿を握りながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。アルバートは覚悟を決めたようにマスケットを背から下ろした。
空棺のアルバート おりょん @atmosphere3125
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