6. 風を読め
夜が明けた。
ヴェルタの朝は、音から始まる。水路を行き交う早朝の舟の
旧式艇の簡素な船室にも、その音が届いていた。
レイラは夜明け前から目が覚めていた。眠れなかったわけではない。ただ、目が覚めた瞬間から体が動こうとしていた。じっとしていられない、という種類の焦りではなく、やるべきことがあると体が知っている、という感覚だった。
左腕の包帯を確かめる。痛みはある。しかし動かせないほどではない。
身を起こし、壁に立てかけてあった鏡の
我ながら、ひどい有様だった。
肩甲骨まであった黒髪は、墜落時の熱で半分以上が焼け落ち、残った部分も焦げてちりちりになっている。きりりと吊り上がった目の下には
しかしレイラは特に感傷を覚えなかった。
感傷を覚えている暇がないことを、体が知っていた。
包帯を巻き直し、焼け残った髪を後ろで雑にまとめ、船室を出た。
「ん……」
甲板に出ると、ゼフィルがすでに携帯コンロの前にしゃがみ込み、鍋を火にかけていた。金色のおかっぱ頭が朝の光に照らされて、妙に鮮やかだった。
「おはようございます」ゼフィルはちらりと顔を見てから笑顔を向けた。「
「フライハイ……アルさんは?」
「中です。さっきまで甲板にいたんですけど、いつの間にか操舵室に」
「もう起きていたんですね。お酒を飲む人は、朝が遅いものかと」
「あの人、いつ寝てるいつ起きるのかよくわからないんですよね」ゼフィルは鍋をかき混ぜながら言った。「気づいたらそこにいる、みたいな感じで」
レイラは操舵室の扉をそっと開けた。
アルバートは補佐席に腰を下ろし、窓の外を眺めていた。手に酒瓶はなかった。膝の上に、古びた革の手帳が開かれている。レイラが入ってきた気配を感じても、手帳から目を上げなかった。
「左腕、動くかい?」
「動きます」
「痛むかい」
「そうですね……少し痛みます」
「正直でよろしい」
手帳を閉じ、アルバートは操舵席を
「ここ、座ってみな」
レイラは言われた通り、操舵席に座った。目の前に計器類が並んでいる。現行の帝国標準型とは配置が異なるが、基本的な構成は読めた。高度計、出力計、風向指示盤、魔導翼の展張角度を示す目盛り。それらを順番に確認していると、アルバートが言った。
「計器はあんまり見ないでいい」
レイラは手を止めた。
「……じゃあ、何を見ればいいんですか」
「窓の外」
言われた通りに視線を上げる。発着塔の上層から、一隻の艇が滑り出していくのが見えた。朝の光の中で魔導翼を広げ、ゆっくりと高度を上げていく。
「あの艇の翼の角度を見てみ? 離艇直後、右翼が左翼より二度ほど高いでしょ」
「……本当だ」
「なぜだか、わかるかい?」
レイラは考えた。
「南西からの風が、右翼を押し上げている?」
「そうそう。頭は切れるみたいだね」アルバートは補佐席の背もたれに体を預けた。「計器の風向指示盤は、今の風向きを教えてくれる。だがあの艇の翼は、五秒前の風向きの変化を教えてくれる。どっちが信用できるかな?」
「……翼、ですか」
「艇は嘘をつかない。計器は遅れる。そゆこと」
レイラはもう一度、滑り出していく艇を見た。翼の微妙な傾きが、確かに風の動きを物語っていた。今まで意識したことがなかった視点だった。
「君の操舵は悪くはないし、基礎はある。だけど、計器を信頼しすぎているんだよ。計器が死んだ瞬間に君の操舵も死ぬよ」
「…………反論のしようがありません。昨日がそうでしたから」
「そうでしょ。だから生きてここにいる、とも言えるがね。結果的にはラッキーだった部分もあるのかも」
アルバートは立ち上がり、操舵席の後ろに回った。
「艇を出すよ」
「え?」
「実地でやった方が早い。ゼフィルに俺の分の粥は後にしてもらおう。また、どやされるな」
「でも、私の腕では」
「右腕だけで十分だよ、最初は」
レイラは「そういう問題ではない」と言いかけ、やめた。この男に言葉で張り合っても、たぶん勝てないと悟ったからだ。
旧式艇は発着塔の上層から滑り出し、朝のヴェルタの空へと舞い上がった。
操舵を握るのはレイラだ。左腕が痛むが、添えるくらいはできる。アルバートは補佐席に座り、窓の外を眺めながら淡々と指示を出した。
「右に三度。ゆっくりでいい」
レイラは
「もっとゆっくり。舵は怒鳴っても聞かないよ。説得するようにゆっくりと、忍耐強く」
「説得」
「力で動かしちゃダメ。重心を預けるつもりで。艇は俺たちより頭がいいから、方向だけ示してやれば勝手に動くんだ」
言葉の意味を考えながら、レイラは力を抜いた。操舵桿から余分な緊張を取り除くように、指先の力だけで角度を調整する。すると艇が、先ほどより滑らかに右へと向いた。
「……あ」
「わかったでしょ」
「なんとなく」
「なんとなくで十分だね、最初はさ」
アルバートは窓の外を見ながら続けた。
「次。高度を上げる。出力は触らず、翼の角度だけで上げてみてくれ。できるかい?」
「翼の角度だけで上がりますか」
「上がるよ。少なくとも俺はそうしている。風の流れに翼を合わせれば、エンジンに頼らなくても高度は取れるんだ。鳥を見ろ、羽ばたかなくても上昇するでしょう」
レイラは翼の展張角度を示す目盛りを、ゆっくりと操作した。艇の機首が、わずかに上を向く。高度計の数字が、じわじわと上がり始めた。
「……上がってます」
「当たり前。そうなるように教えた」
「でも、こんな方法、訓練で習ったことがなくて」
「帝国の訓練は出力頼りだからねえ」アルバートは特に感慨もなさそうに言った。「魔導エンジンが壊れたら終わりの操舵を叩き込む。俺に言わせれば半人前だよ」
「では全人前は」
「エンジンが死んでも、風だけで目的地に辿り着ける操舵士………かな?」
レイラは少し黙った。それから、操舵桿を握ったまま言った。
「あなたはそれができるんですか」
「…………昔はできたよ」
「今は?」
「やってみなきゃわからんね。でもそんな状況にはなりたくないもんだ」あっさりと言い、アルバートは続けた。「左に五度。雲の手前で止めて」
レイラは指示に従いながら、隣の男を横目で見た。窓の外を眺めるその横顔は、相変わらず気の抜けた表情をしている。しかし口から出てくる言葉は、一つも無駄がなかった。短く、的確で、しかし押しつけがましくない。教えているというより、ただ事実を告げている、という感じだった。
「雲の手前で、なぜ止めるんですか」
「雲の中は視界がゼロになる。今の君にはまだ早い」
「いつになったら入れますか」
「んーーー、そうだな、風が読めるようになったら」
「そうなるまでに、どのくらいかかりますか」
アルバートは少し考えるような間を置いた。
「早い人間で、三年」
「三年」
「君は筋がいいから、一年半くらいじゃないか」
「私に……そんな時間はありません」
「でしょうね。帝国の騎士ってのは激務だ」アルバートは窓の外を眺めたまま、静かに言った。「だから今日中に、一年半分の感覚を叩き込むよ」
レイラは操舵桿を握る手に、わずかに力を込めた。
「……よろしくお願いします」
「敬語はいらんよ、疲れるから」
「では」レイラは少し間を置いた。「よろしく」
「そうしてくれ」
アルバートは初めて、少しだけ口元を緩めた。
それから夕刻まで、二人は空にいた。
アルバートの指示は容赦がなかった。急上昇、急降下、横風の中での水平維持、エンジン出力を最低まで落とした滑空。通常の訓練であれば数週間かけて順番にこなすような課題を、一日で叩きつけてくる。
しかしその一つ一つに、必ず理由があった。
「なぜ急降下の前に翼を畳むのか」と聞けば、「畳まないと翼が風圧で歪む。歪んだ翼は元に戻らない」と即座に返ってくる。「なぜ横風の時に機首を少し風上に向けるのか」と聞けば、「向けないと横流れする。向けすぎると失速する。正解は風と艇が喧嘩しない角度だ」と言う。
どこかの教科書から持ってきた言葉ではなく、全て体の中から出てくる言葉だった。
レイラは必死でついていった。左腕が痛んだ。額に汗が滲んだ。何度か操舵を誤り、艇が大きく揺れた。その度にアルバートが補佐席から手を伸ばし、無言で修正した。怒鳴らない。舌打ちもしない。ただ正確に、最小限の動きで直す。
「さっきの急降下、最後の引き起こしが遅かったね」
「わかってま……私にもわかった」
「わかってるのに遅れるのは、体が信じてないってこと」
「信じる?」
「限界まで引きつけて大丈夫だと、体に覚えさせろ。頭でわかっても意味がない。指先が知ってなきゃ」
レイラは頷き、もう一度同じ課題に挑んだ。
急降下。高度が落ちる。地面が近づく。体が引き起こしを急かす。
引きつけろ。
もう少し。
今だ。
操舵桿を引く。艇の機首が上を向く。高度が回復する。今度は遅れなかった。
「……よし、合格」
アルバートの短い一言が、今日一番重い言葉に聞こえた。
訓練の合間、雲の上で艇を止めた時、アルバートがぼんやりと外を眺めながら言った。
「君、いくつだい」
「今年で十六になる」
しばらく沈黙があった。
「……そうか」
「何ですか、その間は」
「いや」アルバートは頭を掻いた。「俺の子どもより年下だなと思って」
「お子さんがいるのは、知らなかった」
「いるように見える? 例え話だよ」
「……ずいぶん遠回りな例え話ですこと」
「遠回り……か」
アルバートはそれ以上何も言わなかった。レイラも聞かなかった。ただ、その短いやり取りの後、アルバートの指示が心なしかほんの少しだけ、丁寧になった気がした。気のせいかもしれなかったが、レイラはそれを指摘しなかった。
「おーーーーい」
夕暮れ時、艇を発着塔に戻したところで、ゼフィルが甲板に出てきた。
「二人とも遅いですよ。粥が三回煮えましたよ!」
「三回も煮たのか、律儀だなぁ」
「律儀じゃなくて待ってたんです! 最高の状態で粥を食べさせるために!」
「悪かったよ。じゃあ、飯にしよう」
アルバートは操舵室へ向かいながら、レイラに向けて一言だけ言った。
「明日も同じ時間に始めるよ」
レイラは少し目を見開いた。
「明日も?」
「一日じゃ足りなかった。君の筋はいいが、体がまだ信じ切れてない。もう一日いるね、こりゃあ」
「でもあなたは、自分は関係ないと言っていた筈でしょう」
「舵の取り方を教えると言ったんだ。まだ教え終わってないんだから、しょうがないじゃないか」
それだけ言い、アルバートは操舵室の扉を開けた。
「ゼフィル、酒はあるか」
「あります。でも粥が先です」
「粥と酒は同時にいけるぞ?」
「いけません」
扉が閉まった。
レイラは甲板に一人残り、沈んでいく夕日を見た。空が赤く染まっている。南の空も、今は静かだ。
しかし明日も、ここにいていい。
吊り上がった目が、夕日を映して静かに細まった。それだけで今夜は十分だった。
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