6. 風を読め



 夜が明けた。


 ヴェルタの朝は、音から始まる。水路を行き交う早朝の舟のかいの音、発着塔の上層で暖機運転を始める艇のエンジン音、露店の商人が石畳に台を広げる音。それらが重なり合いながら、街が少しずつ目を覚ましていく。


 旧式艇の簡素な船室にも、その音が届いていた。


 レイラは夜明け前から目が覚めていた。眠れなかったわけではない。ただ、目が覚めた瞬間から体が動こうとしていた。じっとしていられない、という種類の焦りではなく、やるべきことがあると体が知っている、という感覚だった。


 左腕の包帯を確かめる。痛みはある。しかし動かせないほどではない。


 身を起こし、壁に立てかけてあった鏡の欠片かけらを見た。


 我ながら、ひどい有様だった。


 肩甲骨まであった黒髪は、墜落時の熱で半分以上が焼け落ち、残った部分も焦げてちりちりになっている。きりりと吊り上がった目の下にはくまが浮き、頬に擦り傷が走っていた。クライツ騎士家の令嬢として育ち、帝国騎士団の一員として訓練を積んできた十六年間で、これほど無残な自分の顔を見たことはなかった。


 しかしレイラは特に感傷を覚えなかった。


 感傷を覚えている暇がないことを、体が知っていた。


 包帯を巻き直し、焼け残った髪を後ろで雑にまとめ、船室を出た。



「ん……」


 甲板に出ると、ゼフィルがすでに携帯コンロの前にしゃがみ込み、鍋を火にかけていた。金色のおかっぱ頭が朝の光に照らされて、妙に鮮やかだった。


 「おはようございます」ゼフィルはちらりと顔を見てから笑顔を向けた。「かゆが煮えますよ。食べてから操舵室に来てください、とのことです」


 「フライハイ……アルさんは?」


 「中です。さっきまで甲板にいたんですけど、いつの間にか操舵室に」


 「もう起きていたんですね。お酒を飲む人は、朝が遅いものかと」


 「あの人、いつ寝てるいつ起きるのかよくわからないんですよね」ゼフィルは鍋をかき混ぜながら言った。「気づいたらそこにいる、みたいな感じで」


 レイラは操舵室の扉をそっと開けた。


 アルバートは補佐席に腰を下ろし、窓の外を眺めていた。手に酒瓶はなかった。膝の上に、古びた革の手帳が開かれている。レイラが入ってきた気配を感じても、手帳から目を上げなかった。


 「左腕、動くかい?」


 「動きます」


 「痛むかい」


 「そうですね……少し痛みます」


 「正直でよろしい」


 手帳を閉じ、アルバートは操舵席をあごでしゃくった。


 「ここ、座ってみな」


 レイラは言われた通り、操舵席に座った。目の前に計器類が並んでいる。現行の帝国標準型とは配置が異なるが、基本的な構成は読めた。高度計、出力計、風向指示盤、魔導翼の展張角度を示す目盛り。それらを順番に確認していると、アルバートが言った。


 「計器はあんまり見ないでいい」


 レイラは手を止めた。


 「……じゃあ、何を見ればいいんですか」


 「窓の外」


 言われた通りに視線を上げる。発着塔の上層から、一隻の艇が滑り出していくのが見えた。朝の光の中で魔導翼を広げ、ゆっくりと高度を上げていく。


 「あの艇の翼の角度を見てみ? 離艇直後、右翼が左翼より二度ほど高いでしょ」


 「……本当だ」


 「なぜだか、わかるかい?」


 レイラは考えた。


 「南西からの風が、右翼を押し上げている?」


 「そうそう。頭は切れるみたいだね」アルバートは補佐席の背もたれに体を預けた。「計器の風向指示盤は、今の風向きを教えてくれる。だがあの艇の翼は、五秒前の風向きの変化を教えてくれる。どっちが信用できるかな?」


 「……翼、ですか」


 「艇は嘘をつかない。計器は遅れる。そゆこと」


 レイラはもう一度、滑り出していく艇を見た。翼の微妙な傾きが、確かに風の動きを物語っていた。今まで意識したことがなかった視点だった。


「君の操舵は悪くはないし、基礎はある。だけど、計器を信頼しすぎているんだよ。計器が死んだ瞬間に君の操舵も死ぬよ」


 「…………反論のしようがありません。昨日がそうでしたから」


 「そうでしょ。だから生きてここにいる、とも言えるがね。結果的にはラッキーだった部分もあるのかも」


 アルバートは立ち上がり、操舵席の後ろに回った。


 「艇を出すよ」


 「え?」


 「実地でやった方が早い。ゼフィルに俺の分の粥は後にしてもらおう。また、どやされるな」


 「でも、私の腕では」


 「右腕だけで十分だよ、最初は」


 レイラは「そういう問題ではない」と言いかけ、やめた。この男に言葉で張り合っても、たぶん勝てないと悟ったからだ。




 旧式艇は発着塔の上層から滑り出し、朝のヴェルタの空へと舞い上がった。


 操舵を握るのはレイラだ。左腕が痛むが、添えるくらいはできる。アルバートは補佐席に座り、窓の外を眺めながら淡々と指示を出した。


 「右に三度。ゆっくりでいい」


 レイラは操舵桿そうだかんを右へ倒した。


 「もっとゆっくり。舵は怒鳴っても聞かないよ。説得するようにゆっくりと、忍耐強く」


 「説得」


 「力で動かしちゃダメ。重心を預けるつもりで。艇は俺たちより頭がいいから、方向だけ示してやれば勝手に動くんだ」


 言葉の意味を考えながら、レイラは力を抜いた。操舵桿から余分な緊張を取り除くように、指先の力だけで角度を調整する。すると艇が、先ほどより滑らかに右へと向いた。


 「……あ」


 「わかったでしょ」


 「なんとなく」


 「なんとなくで十分だね、最初はさ」


 アルバートは窓の外を見ながら続けた。


 「次。高度を上げる。出力は触らず、翼の角度だけで上げてみてくれ。できるかい?」


 「翼の角度だけで上がりますか」


 「上がるよ。少なくとも俺はそうしている。風の流れに翼を合わせれば、エンジンに頼らなくても高度は取れるんだ。鳥を見ろ、羽ばたかなくても上昇するでしょう」


 レイラは翼の展張角度を示す目盛りを、ゆっくりと操作した。艇の機首が、わずかに上を向く。高度計の数字が、じわじわと上がり始めた。


 「……上がってます」


 「当たり前。そうなるように教えた」


 「でも、こんな方法、訓練で習ったことがなくて」


 「帝国の訓練は出力頼りだからねえ」アルバートは特に感慨もなさそうに言った。「魔導エンジンが壊れたら終わりの操舵を叩き込む。俺に言わせれば半人前だよ」


 「では全人前は」


 「エンジンが死んでも、風だけで目的地に辿り着ける操舵士………かな?」


 レイラは少し黙った。それから、操舵桿を握ったまま言った。


 「あなたはそれができるんですか」


 「…………昔はできたよ」


 「今は?」


 「やってみなきゃわからんね。でもそんな状況にはなりたくないもんだ」あっさりと言い、アルバートは続けた。「左に五度。雲の手前で止めて」


 レイラは指示に従いながら、隣の男を横目で見た。窓の外を眺めるその横顔は、相変わらず気の抜けた表情をしている。しかし口から出てくる言葉は、一つも無駄がなかった。短く、的確で、しかし押しつけがましくない。教えているというより、ただ事実を告げている、という感じだった。


 「雲の手前で、なぜ止めるんですか」


 「雲の中は視界がゼロになる。今の君にはまだ早い」


 「いつになったら入れますか」


 「んーーー、そうだな、風が読めるようになったら」


 「そうなるまでに、どのくらいかかりますか」


 アルバートは少し考えるような間を置いた。


 「早い人間で、三年」


 「三年」


 「君は筋がいいから、一年半くらいじゃないか」


 「私に……そんな時間はありません」


 「でしょうね。帝国の騎士ってのは激務だ」アルバートは窓の外を眺めたまま、静かに言った。「だから今日中に、一年半分の感覚を叩き込むよ」


 レイラは操舵桿を握る手に、わずかに力を込めた。


 「……よろしくお願いします」


 「敬語はいらんよ、疲れるから」


 「では」レイラは少し間を置いた。「よろしく」


 「そうしてくれ」


 アルバートは初めて、少しだけ口元を緩めた。




 それから夕刻まで、二人は空にいた。


 アルバートの指示は容赦がなかった。急上昇、急降下、横風の中での水平維持、エンジン出力を最低まで落とした滑空。通常の訓練であれば数週間かけて順番にこなすような課題を、一日で叩きつけてくる。


 しかしその一つ一つに、必ず理由があった。


 「なぜ急降下の前に翼を畳むのか」と聞けば、「畳まないと翼が風圧で歪む。歪んだ翼は元に戻らない」と即座に返ってくる。「なぜ横風の時に機首を少し風上に向けるのか」と聞けば、「向けないと横流れする。向けすぎると失速する。正解は風と艇が喧嘩しない角度だ」と言う。


 どこかの教科書から持ってきた言葉ではなく、全て体の中から出てくる言葉だった。


 レイラは必死でついていった。左腕が痛んだ。額に汗が滲んだ。何度か操舵を誤り、艇が大きく揺れた。その度にアルバートが補佐席から手を伸ばし、無言で修正した。怒鳴らない。舌打ちもしない。ただ正確に、最小限の動きで直す。


 「さっきの急降下、最後の引き起こしが遅かったね」


 「わかってま……私にもわかった」


 「わかってるのに遅れるのは、体が信じてないってこと」


 「信じる?」


 「限界まで引きつけて大丈夫だと、体に覚えさせろ。頭でわかっても意味がない。指先が知ってなきゃ」


 レイラは頷き、もう一度同じ課題に挑んだ。


 急降下。高度が落ちる。地面が近づく。体が引き起こしを急かす。


 引きつけろ。


 もう少し。


 今だ。


 操舵桿を引く。艇の機首が上を向く。高度が回復する。今度は遅れなかった。


 「……よし、合格」


 アルバートの短い一言が、今日一番重い言葉に聞こえた。




 訓練の合間、雲の上で艇を止めた時、アルバートがぼんやりと外を眺めながら言った。


 「君、いくつだい」


 「今年で十六になる」


 しばらく沈黙があった。


 「……そうか」


 「何ですか、その間は」


 「いや」アルバートは頭を掻いた。「俺の子どもより年下だなと思って」


 「お子さんがいるのは、知らなかった」


 「いるように見える? 例え話だよ」


 「……ずいぶん遠回りな例え話ですこと」


 「遠回り……か」


 アルバートはそれ以上何も言わなかった。レイラも聞かなかった。ただ、その短いやり取りの後、アルバートの指示が心なしかほんの少しだけ、丁寧になった気がした。気のせいかもしれなかったが、レイラはそれを指摘しなかった。




「おーーーーい」


 夕暮れ時、艇を発着塔に戻したところで、ゼフィルが甲板に出てきた。


 「二人とも遅いですよ。粥が三回煮えましたよ!」


 「三回も煮たのか、律儀だなぁ」


 「律儀じゃなくて待ってたんです! 最高の状態で粥を食べさせるために!」


 「悪かったよ。じゃあ、飯にしよう」


 アルバートは操舵室へ向かいながら、レイラに向けて一言だけ言った。


 「明日も同じ時間に始めるよ」


 レイラは少し目を見開いた。


 「明日も?」


 「一日じゃ足りなかった。君の筋はいいが、体がまだ信じ切れてない。もう一日いるね、こりゃあ」


 「でもあなたは、自分は関係ないと言っていた筈でしょう」


 「舵の取り方を教えると言ったんだ。まだ教え終わってないんだから、しょうがないじゃないか」


 それだけ言い、アルバートは操舵室の扉を開けた。


 「ゼフィル、酒はあるか」


 「あります。でも粥が先です」


 「粥と酒は同時にいけるぞ?」


 「いけません」


 扉が閉まった。


 レイラは甲板に一人残り、沈んでいく夕日を見た。空が赤く染まっている。南の空も、今は静かだ。


 しかし明日も、ここにいていい。


 吊り上がった目が、夕日を映して静かに細まった。それだけで今夜は十分だった。


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