第5話 噂と真実
翌日の夕刻。駅前の古い喫茶店に足を踏み入れると、使い込まれた革張りのボックス席に一人の男性が座っていた。彼は二人の制服姿を認めると、小さく手を振って立ち上がった。
「映像研究部の柏木です」
「村瀬です」
「電話で話した通り、霧島さんの映画を撮っています」
柏木の挨拶に、水原と名乗った男性は静かに頷いた。席に着くと同時に、ウェイトレスが注文を取りに来る。
「僕はもう頼んだから、好きなものを頼んで」
「ありがとうございます。じゃあ、アイスティーで」
「私はオレンジジュースをお願いします」
店員が厨房へ消えるのを見計らって、村瀬がスマートフォンを取り出した。
「……撮影してもいいですか?」
「本当に映画を撮ってるんだね。……顔は映さないでほしいな」
「了解です」
村瀬は手元だけを映すようにアングルを固定した。柏木がまっすぐに問いかける。
「霧島さんとは、仲が良かったんですか?」
「うん、仲良かったよ」
「じゃあ、どうして周りの人は、彼女がいつも一人だったって言うんでしょうか」
水原は、琥珀色の飲み物を見つめながら答えた。
「霧島はさ、『私と一緒にいると変な噂が流れるから』って言って、学校では一切話さなかったんだ」
「そうだったんですね。……じゃあ、あの理科準備室の時、二人で何を?」
水原はふっと、どこか寂しげに笑った。
「あー、普通に授業のことを話して。その後、僕が急に体調を崩して倒れた……それだけだよ」
彼は淡々と、霧島いつかの横顔を語り始めた。
「話してみると、普通の子なんだ。猫のことも、みんなが面白おかしく騒ぎ立てていたけどさ。本当は、近所の不審者が野良猫に毒を食べさせていたってニュースにもなってた。そんな事実には、みんな興味ないんだろうけど」
水原の声に少しだけ熱がこもる。
「彼女は、正義感が強くて人思いの、優しい子だったよ」
「……彼女が学校に来なくなった原因は?」
その問いに、水原は急に視線を落とし、唇を噛んだ。
「僕のせいでもあるのかな……」
「水原さん。霧島さんに、今なんて言いたいですか?」
「なんて言いたいか、か。……霧島には、謝りたいな」
ちょうどアイスティーが運ばれてきた。柏木はそのグラスを受け取ると、それまで下げていた視線を鋭く上げ、村瀬の持つカメラをぐいと動かして、正面に座る男の「顔」に向けた。
「――あなた、誰ですか?」
凍りついたような沈黙が流れた。男は俯き、村瀬は慌てて柏木を制した。
「柏木、何言ってんの……?」
「水原さんじゃないですよね」
逃げ場を失った男は、戸惑うように微かに肩を震わせ、やがて小さく縦に首を振った。
「……。うん。僕は、水原じゃない。バレないと思ったんだけどな」
男は自嘲気味に笑い、顔を上げた。
「誰なんですか」
「水原と同じクラスだった、白石想太」
「……霧島さんと付き合っていた、白石さん?」
村瀬の言葉に、白石は「うん、そうだよ」と短く答えた。
「どうして嘘なんてついたんですか」
「かかってきた電話に出たのも僕だ。水原には……霧島に関わってほしくなかったんだよ」
「それは、なんで?」
「言いたくないこともあるよ」
白石の拒絶を、柏木は否定しなかった。「そうですよね」と呟き、とっくにカメラを下ろさせていた村瀬からスマートフォンを受け取る。
「でも、この映像を見てくれませんか」
柏木が流したのは、部室で見つかったあのDVDの映像だった。白石はそれを無言で見守っていたが、最後の真っ暗な画面から流れる「謝罪の声」を聞いた瞬間、その顔を痛ましげに歪めた。
「君たち……本当、酷なことをするね」
「不快な思いをさせたなら、すみません。ですが、この映像を──水原さんのこの気持ちを、霧島さんに届けたいんです。だから、彼の本当の思いを知りたくて」
白石は深く息を吐き、感心したように柏木を見た。
「僕も、勝手な行動をしすぎたかな。……ところで、なんで分かったの?」
「映像の主は、一人称が『俺』でした。でも、あなたは『僕』と仰った。それに、霧島さんのことを一度も名前で呼ばなかったから」
白石は驚いたように目を丸くし、やがて降参だと言わんばかりに両手を上げた。
「君、電話の時から気づいてたんだね……」
白石は伝票を手に取り、立ち上がった。
「明日、学校の後、時間は、ある?」
柏木と村瀬が反射的に頷く。白石は店を出る直前、振り返ってこう言った。
「──来てほしい場所があるんだ」
午後の授業を終えた開放感が、校舎中に満ちていた。
「とわ」
教室から出てきたばかりの松井が、聞き慣れた声に足を止める。振り返った彼の視界に入ったのは、顔の横で焼きそばパンを二個、誇らしげに揺らしている柏木の姿だった。
「……何ですか、それ」
「何って、仲良くなるための儀式だよ」
柏木は屈託のない笑みを浮かべ、強引に松井を連れ出した。
購買部から少し離れた中庭のベンチは、静かな午後の光に包まれていた。渡されたパンには目もくれず、松井は隣に座る柏木へ、ずっと胸に溜めていた問いを投げかけた。
「霧島いつかの件、どうなったんですか」
パンを頬張ろうとしていた柏木の手が止まった。
「……なんか、村瀬の言った通りだったよ。これ以上行くと、誰かが傷つくのかもしれない」
その言葉には、いつもの勢いがなかった。松井は柏木の横顔をじっと見つめる。
「……それでも、やるんですか」
柏木は迷いなく頷いた。
「俺はさ、誰かを傷つけようとしてるんじゃなくて、誰かを救うためにやってるんだ」
「それが、誰かの秘密を暴くことになっても?」
松井の言葉に、わずかな鋭さが混じる。柏木は噛んでいたパンを飲み込み、松井の瞳を正面から見据えた。その視線の強さに耐えかねたように、松井は自嘲気味に視線を落とす。
「……俺は、晴光くんが思うような、そんな綺麗な人間じゃないです」
告白のようなその言葉を、柏木は鼻で笑い飛ばした。
「──それがなんだよ」
予想外の言葉に、松井は驚いたように顔を上げる。
「どんな秘密があろうと、そんなことでお前のすべてを否定するほど、俺は馬鹿じゃない」
柏木はベンチに背をもたれさせ、空を仰いだ。そして、隣にいる少年に向かって、確信に満ちた声を届ける。
「俺は、どんなとわでも好きだよ」
あまりに潔いその肯定に、松井は言葉を失った。柏木の手元の焼きそばパンから、香ばしい匂いが立ち上っている。松井は自分の手にある冷めたパンを、少しだけ強く握りしめた。
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