竜哭の彼方外伝 瞳の先に
イミリーシャ王国王立近衛兵団官舎は静まり返ることは滅多にない。夜更けだろうと夜明け前だろうと、勤務が終わった隊、もしくはこれから始まる隊の兵たちでガヤガヤとしている。誰かがカード遊びで言い争い、あるいはその日の食事の不満を大声でこぼしている。
今日は特に大事な日だ。国王アレクシオス•イミリシウスの即位二十周年記念式典が執り行われる。どの部隊にも特別警備の任務が課され、普段と異なる緊張感が漂っている。
だが重装歩兵第一小隊の面々は、不自然に声を潜めていた。
その原因は食堂の奥にいた。アンドリ・チェイレイ重装歩兵第一小隊長。若い小隊長は冷めきった茶の入った杯を見つめたまま動かない。
誰も近づこうとはしなかった。普段からそうだった。隊を率いる立場でありながら隊の中でもっとも年若であり、隊の誰にも心を開いていない。かつ異形の鱗や常人離れした体格、また怪物に変身する己の特性を恥じているアンドリは、常に周囲と一線を引き、隊員たちはいつも遠巻きにするしかできない。
「いつもひでえ顔色だが、今朝はまた一段とやべぇな」
ティゴがひそひそ声で言った。
「女に振られたか、賭けに負けて全財産巻き上げられたか」
「そりゃテメエら自分のこったろ」
テオドロスはしばらく放っておいたが、やがて手にしていた食器を持って立ち上がった。
それだけで十分だった。私語がぴたりと止む。隊員たちは一斉に姿勢を正す。
テオドロスは柔らかな笑顔で鋭い視線を送る。
「隊長殿のご事情について、何か有益な結論は出たか?」
誰も答えない。テオドロス構わず続ける。
「食事を終わらせろ。持ち場につくぞ」
ティゴが頭をかいた。
「ですが副隊長殿、ありゃぜってぇなんかありやしたぜ」
何人もがうなずいた。テオドロスは内心でため息をつく。
それも事実だった。隊長は変わり者だ。口数が少なく、何でも一人で抱え込む。
だが同時に、この隊の中心でもある。アンドリの様子がおかしければ、誰もが気づく。
テオドロスは少し苦笑する。
「なら静かに心配していろ」
視線を僅かに緩めて続ける。
「隊長殿のご事情がなんであれ、隊長殿は職務を果たされる」
視線を隊員たちへ巡らせる。
「ならば我々も同じだ。都には既に各国の賓客、貴族、商人、そして近衛兵団が束になってかかるだけの酔っ払いどもが集まっている。存分におもてなししろ」
「はっ!」
返事が揃う。
満足げにテオドロスはうなずいた。話は終わりだった。隊員たちは食事を掻き込んで食堂を出ていく。
テオドロスは部屋の奥へ視線を向けた。
アンドリは立ち上がり手を付けなかった茶を食器の返却台に戻したところでテオドロスに気づいた。
先程、近衛兵団長アントニウスに呼び止められ、テオドロスは事情を聞かされていた。
間が悪かったとしか言えないが、兵士である以上はいかなる油断も言い訳は許されない。
テオドロスも返却台に歩み寄る。
「隊長殿。第一小隊一同、持ち場に向かいました」
「ああ。俺も向かう」
アンドリの顔色は相変わらず冴えなかった。普段から愛想のある方ではないが、今朝は輪をかけて沈んでいる。
テオドロスは小さく息を吐く。そして少しだけ声を低くした。
「隊長殿」
「……何だ」
「隊員たちの顔を見る前に、気持ちを切り替えてください」
アンドリが顔を上げる。テオドロスは真っ直ぐにその目を見返した。
「不安が伝わります」
短い沈黙。アンドリは何も答えない。テオドロスは敢えて構わずに続けた。
「虚勢を張るのはお得意でしょう」
一瞬ぽかんとした顔をした後、アンドリは肩を震わせた。
「……心得た」
その声は先ほどより幾分か軽い。
テオドロスは内心で安堵した。
それでいい。
隊の前に立つ時だけは、いつものアンドリでいてもらわねば困る。
その時。
食堂の窓から淡い光が差し込んだ。
夜の名残を押し退け、東の空が白み始める。
長い一日になる。
テオドロスは窓の外へ目を向けた後、再びアンドリを見る。
「参りましょう、隊長殿」
アンドリは静かにうなずいた。
二人は並んで食堂を後にする。
窓から差し込む夜明けの光が、その背を長く照らしていた。
やがて騒ぎが起こる。
闘技場の方角からは歓声が聞こえていたはずだったが、その歓声がいつしか悲鳴へ変わったことに最初に気づいたのはテオドロスだった。
彼が顔を上げた直後だった。
「第一小隊!」
息を切らした伝令兵が駆け込んでくる。
その顔色を見ただけで、ただ事ではないと誰もが悟った。
「闘技場にて騎禽が暴走! 国王陛下と王太子殿下が危険な状態にあります! 第一小隊は直ちに出動せよとのご命令です!」
アンドリが一瞬、凍りつく。
嫌な予感が胸を締め付ける。その背をテオドロスが叩く。
「隊長殿。近衛兵団長閣下のご命令です。急ぎましょう」
アンドリは一瞬だけ目を閉じた。
逃げるわけにはいかない。
「……出るぞ」
第一小隊は一斉に駆け出した。
だが。
闘技場へ到着した彼らを待っていた光景は想像を遥かに超えていた。
巨大な騎禽が暴れ狂っている。
観客席は大混乱だった。
兵士達が必死に避難誘導を行う中、地面には転倒したアレクシオス王の姿が見える。
そして。
その前に立っていたのはアントニウスだった。抜き放った剣を構え、アレクシオス王を庇うように立っている。
その瞬間。騎禽の鉤爪が振り下ろされた。
「閣下!」
間に合わない。そう思われた。
その前へ飛び込んだ影がある。
アンドリだった。
巨大な鉤爪が彼の身体を捉える。
アンドリはそれを、超重剣で受け止めた。
長い鉤爪が剣の刃先を超えてアンドリの肩に食い込む。鱗に覆われた巨体は岩壁のように堅牢で、びくともしない。
だが騎禽の力も凄まじい。押し返すことはできても制圧には至らない。
「縄だ!」
テオドロスが怒鳴った。
「投げ縄を掛けろ!」
第一小隊の兵士達が一斉に駆け出す。馬用の太い投げ縄が次々に飛んだ。
「こんちくしょう! なんてぇ馬鹿力でぇ!」
「馬でも鹿でもねぇぞティゴ!」
「鳥だ鳥!」
「今夜のご馳走ってか!」
「丸焼きにしてやるぜ!」
「アリ! 肢はぜってぇ俺にとっとけよな!」
怒号と軽口が飛び交う。
死地であるほど彼らはよく喋る。それが第一小隊だった。
だが次の瞬間。
騎禽が大きく翼を振るった。一人の兵士が弾き飛ばされる。
「うおっ!」
人影が宙を舞った。
だが落下する前にアンドリが動いていた。
信じ難い速度だった。巨体とは思えない瞬発力で駆け出し、空中で兵士を受け止める。
地面を滑りながら衝撃を殺した。
「すいやせん隊長殿!」
「今はいい!」
アンドリが怒鳴る。
「口より手を動かせ!」
「はっ!」
兵士は即座に駆け戻った。
このままでは収拾がつかない。アントニウスは状況を見ながら、静かに思考していた。
騎禽は殺せない。龍皇からの献上品だ。
だが国王の安全も守らねばならない。
その時。視線が貴賓席へ向く。龍皇とその随員達。
誰一人として慌てていない。まるで芝居でも眺めるような顔だった。
アントニウスは理解した。
(そういうことか)
試されている。
騒動そのものが目的ではない。彼らが見たいのは。
アンドリだ。
アントニウスはそっとテオドロスを呼び寄せた。
「テオドロス。アンドリに変身を命じる。小隊に援護させろ」
副官の目が見開かれる。
「閣下。それでは一層混乱が」
「それが龍達の目論見だ」
アントニウスは薄く笑った。
「ならばお望み通り踊ってやるさ」
「……陛下から処罰を受けるかもしれません」
「はっ」
鼻で笑う。
「あの父が、私をか」
短く肩をすくめた。
「受けて立ってやる」
そして。
「お前は上手く立ち回れよ」
「御意」
混乱の中。
本来の主と副官はそれだけを交わして持ち場へ駆け戻った。
テオドロスは縄を引いているティゴ達の元へ近づく。
「団長閣下が隊長に変身をお命じになる」
ティゴが目を剥いた。
「またあれをやるんですかい!」
「隊長が制圧に成功したら、お前達の班で即座に援護しろ」
アリが苦笑する。
「骨は拾ってくだせぇよ!」
テオドロスは答えなかった。ただ貴賓席を見上げる。
龍皇一行は興味深そうに戦いを見物していた。
彼らはアンドリに、何を求めているのだろう。
アントニウスには見えているのかもしれない。この騒動の筋書きが。
(実の弟も、私も、殿下の駒の一つか。いや)
それで構わない。そのために剣を捧げたのだ。
テオドロスには揺るぎない信念があった。
アントニウスの進む道を、彼も行くのだと。
そして。アンドリもまた同じだと、テオドロスは知っていた。
「騎禽を制圧しろ、アンドリ!」
アントニウスの声が闘技場に響いた。
アンドリが振り返る。
狼狽が顔に浮かぶが、装備を投げ捨てた、その直後——彼の身体が、異様に膨れ上がった。
骨が軋み、筋肉が裂けるように隆起する。皮膚が引き延ばされ、形を変え、もはや人の輪郭を失っていく。
――咆哮。
二足で立つ、巨大な爬虫類の影が現れた。
観衆の悲鳴が、一斉に爆発する。
「龍だ!」
竜哭の彼方 - Dragons Cry, Destined to Fly - Watt. A. Lee @Watt_A_Lee
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