第50話「日常」
【エピローグ・潤視点】
ウィィィィン——
静かな事務所に掃除機の音が低く響いていた。数日前までここは埃ひとつない、完全に整えられた自分だけの聖域だった。すべての書類は角が揃えられ、机の上に余計な物は一切なかった。しかし今は……
私はため息をつき、ソファの上に無造作に脱ぎ捨てられたカーディガンを拾い上げた。裁判が終わったあの日、結局彼女たちの圧に負けて和牛をご馳走する羽目になった。そして翌日、西原詩彩は本当に工場に辞表を出し、この事務所に“出勤”し始めた。
その結果がこれだ。
💭潤|「まったく……詩彩ちゃん」
彼女が来てから、事務所は確実に散らかり始めた。ソファは彼女の服やクッションの置き場になり、ゴミ箱には彼女の昼食だったレトルトカレーの空容器がぐしゃぐしゃに押し込まれている。すべてが私の規律と秩序を嘲笑っているようだった。
私は掃除機を止め、彼女の散らかしたゴミを分別袋に入れた。しかし不思議と不快感はなかった。むしろ、この騒がしい痕跡が空っぽだった空間に、奇妙な温もりを与えているように感じた。まるで……人が住んでいる匂い、とでも言うべきか。
私は首を振り、雑念を振り払った。感傷に浸っている場合ではない。仕事は山積みだ。
新しく届いた依頼書のファイルを手に取り、ソファの方へ向かった。案の定、西原詩彩はソファで長く伸びて、世間知らずに眠っていた。つけっぱなしのテレビからは、誰も見ていない退屈な昼のトーク番組が流れている。
💬潤|「おい。詩彩ちゃん」
私は書類ファイルで彼女の肩を軽く叩いた。しかし反応がない。
💬潤|「次の民事訴訟の案件だ。おそらく学校内のいじめ問題になる。関連判例を調べておいてくれ。おい。詩彩ちゃん」
ようやく彼女は、うーんと小さくうめきながら体を揺らした。ゆっくりと目を開け、眠気に濁った目で私を見上げる。
💬詩彩|「うぅん……王子様。呼んだ?」
私は一瞬、言葉を失った。王子様(王子様)?思わず乾いた笑いが漏れる。
💬潤|「俺は王子様じゃない」
私は感情のない声で事実だけを訂正し、彼女の手にファイルを押し込んだ。まだ寝ぼけている彼女は何度か瞬きをし、やがて状況を理解したのか、へらっと間の抜けた笑みを浮かべた。本当に、1日として静かな日はない助手だ。
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【エピローグ・恵視点】
私は彼の事務所に「助手」として西原詩彩さんが入ったという話を聞いたとき、焦りを覚えた。彼女は行動で自分の気持ちを証明していた。では私は?いつまでも過去の縁にすがり、彼が気づいてくれるのを待ち続けるだけでいいのだろうか。私も、自分の気持ちを示さなければ。彼に負担をかけず、それでも私の人生の一部として彼を受け入れる準備があることを。
だから私は勇気を出した。私の人生で最も大切な宝物である息子・浩史を抱きかかえ、彼の事務所の扉を開けた。ちょうどソファに横になっていた西原さんと、そんな彼女を呆れたように見ている竹山潤、いや、潤君の姿が見えた。
💬恵|「潤くん。来たよ」
私はわざと、ずっと昔、私たちが友人だった頃のように彼の名前を呼んだ。「竹山くん」という苗字で呼ぶことは、私たちの間に見えない壁を作ってしまうようで嫌だった。その壁を、もう自分の手で壊したかった。
💬恵|「この子は私の息子、浩史。浩史、挨拶して」
私の言葉に、ソファに寄りかかっていた潤くんが驚いた目でこちらを見た。
💬潤|「潤君と呼ぶなんて珍しいな。今日はどうした?浩史くん、かわいいね」
彼の視線が私の腕の中の浩史に向けられる。その硬い表情が、子どもを見た瞬間ほんのわずかに柔らかくなるのを私は見逃さなかった。その時、ソファから眠たそうに体を起こした西原さんが目を輝かせながら近づいてきた。
💬詩彩|「へぇ〜、赤ちゃんだ。かわいい!私はシアお姉さんだよ!」
彼女は遠慮なく浩史の頬を軽く撫でた。その様子を見て、私は少しだけいたずら心が芽生えた。だがそれは単なる冗談ではなく、私の小さな願いでもあった。
💬恵|「浩史〜、竹山くんにパパって言ってごらん。パパ!」
冗談半分で囁いた瞬間、まだ言葉もおぼつかないと思っていた浩史が、はっきりとした声で潤君を見て叫んだ。
💬子供|「パパ!」
一瞬、事務所の空気が止まった。一番驚いたのは潤くんだった。彼の顔がみるみる赤くなるのが分かった。
💬潤|「ちょ、冗談はやめてくれ!恵ちゃん!」
彼が慌てて手を振る姿が可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。西原さんの表情は一瞬固まっていた。
💬恵|「冗談、冗談。ふふ」
笑みを収め、私は真剣な表情で彼を見た。もう伝えなければならない。これ以上は先延ばしにできない。
💬恵|「あのね、潤くん。浩史のことを責任持ってほしいなんて絶対に言わない。私はこの子を育てられるから……でも、その……私、潤くんのことを好き……」
「好き」という言葉が喉まで出かかったその時だった。隣にいた西原さんが、まるで待っていたかのように明るく言葉を遮った。
💬詩彩|「スキーに行こうってことですか?え〜、今夏ですよ?そんな場所ないですよ〜」
彼女は私の告白の最も重要な言葉を、まったく別の意味に変えてしまった。私は呆れて彼女を見た。彼女は何も知らないような無邪気な顔で、にっこりと笑っていた。
💭恵|「西原さん……そう来るのね」
そう、いいわ。やってみようじゃない。この恋の争奪戦、本当の始まりはこれからだ。
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【エピローグ・詩彩視点】
『スキーに行こうってことですか?』
私のとぼけた質問に、長谷川恵さんの顔が一瞬で固まるのがはっきり分かった。ふん、当然でしょ。私が分からないとでも思った?子どもまで連れてきて「潤くん」なんて呼ばせて、「パパ」だなんて言わせて、極めつけに告白までしようとしてたんでしょ。その魂胆、見え見えだっての。
詩彩|『どういう意図かは分かってますよ、恵お姉さん。でも、そんなの黙って見てるわけないじゃないですか。お姉さんに私が負けるわけないでしょ?』
過去の縁?昔の告白?そんな古臭い思い出話でこの男の心を掴めると思ってるなら大間違い。私はあなたみたいに過去に縋ったりしない。今、この瞬間に、潤お兄さんの隣を取る。それが私のやり方。そしてこれは、その宣戦布告だ。
私は無邪気な笑みを浮かべながら、困惑して固まっている潤お兄さんの腕にさらにぎゅっとしがみついた。そして、見せつけるように恵お姉さんへ言った。
詩彩|「それにね、お姉さん。弁護士のお兄さん、私のこと好きみたいですよ」
私の爆弾発言に、長谷川恵さんの眉がぴくりと動いた。潤お兄さんは「な、何言ってるんだ!」と慌てているけれど、私は気にせず続ける。彼の顔を指で示しながら、真剣な表情で言い放った。
詩彩|「ほら見てください。お兄さんの顔に『西原詩彩のことを愛してます』ってちゃんと書いてあるじゃないですか。見えません?あー、これって良い人にしか見えないやつなんですよ」
もちろん、そんなのはデタラメだ。でもこれは勝負だ。ここで引いたら終わり。私がここまで図々しく出ると、潤お兄さんは呆れたように口をぱくぱくさせて固まっていた。その顔がまた妙に可愛い。
一方で長谷川恵さんは、すぐに落ち着きを取り戻し、優雅に髪をかき上げて静かに応じた。余裕すら感じる微笑み付きで。
恵|「西原さん。俳句は俳句だよ〜」
彼女は私の言葉を「五・七・五」の音の遊びに例えて、ただの言葉遊びだと軽く受け流した。なかなかやるじゃない。でも、だからって引くつもりはない。この事務所も、その男の隣も、もう私のものだから。
『今からでも』 失った想いも、壊れた関係も、それでもまだ選び直せる @b2359270
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