第16章 検索する言葉
三科悠介は、最後まで大きく崩れなかった。
逮捕状が請求されたのは、任意確認からさらに数日後だった。
その間に、警察は非常階段の鑑定結果、ホテルの防犯カメラ映像、Wi-Fi接続記録、非常扉の開閉ログ、有馬千尋のPC操作履歴、三科が作成した解析ファイルのメタデータをひとつずつ照合していった。
ひとつだけでは決定的な証拠にはならなかった。
Wi-Fi記録だけなら、位置の誤差で説明できる。
非常扉ログだけなら、誰が開けたかまではわからない。
廊下映像だけなら、顔までは映っていない。
有馬のPC操作履歴だけなら、本人が操作した可能性も残る。
葛城玲奈に届いた匿名メッセージだけなら、三科との関係はまだ細い。
解析ファイルの作成時刻だけなら、予測だったと言い逃れられる。
だが、すべてを並べると、同じ方向を向いていた。
三科悠介は、最後まで自分の言葉を崩さなかった。
有馬とは非常口前で会っていない。非常階段を下りたのは、気分転換だった。匿名メッセージは自分ではない。候補語の拡散は、あくまで予測だった。有馬の死は、自分が引き起こしたものではない。
彼はそう言い続けた。
だが、彼が置いた問いは、ひとつずつ証拠に変わっていった。
三枝徹は、捜査本部へ戻る廊下で灰原誠司に言った。
「違和感だけでは、ここまで来られませんでした」
灰原は、壁に貼られた捜査予定表を見ながら答えた。
「そうだな」
「でも、違和感がなければ、最初の画面をそのまま見ていたかもしれません」
三枝の声は、淡々としていた。だが、その奥に疲労があった。
この数日で、彼はほとんど休んでいない。ホテルの映像、非常扉ログ、通信記録、PC解析、供述の変遷。すべてを警察の証拠として使える形にするには、灰原が想像する以上の作業が必要だった。
「今回は、違和感だけではありませんでした」
三枝は続けた。
「PCの操作時刻、非常扉ログ、Wi-Fi、映像、メッセージ、ファイル作成時刻。全部、積みました」
「証拠にしたのは、お前だ」
三枝は、少しだけ黙った。
「昔なら、その言葉を喜んだと思います」
「今は?」
「責任が重いです」
灰原は、三枝を見た。
かつての後輩は、もう後ろに立っている男ではなかった。現場を預かり、証拠を積み、人を疑い、人を裁きの入口まで運ぶ刑事だった。
「それでいい」
灰原は言った。
三枝は、かすかに笑った。
「灰原さんにそう言われると、少し腹が立ちますね」
「成長したな」
「やっぱり腹が立ちます」
それでも、三枝の声は柔らかかった。
事件は終わったわけではない。
これから供述の裏を取り、鑑定結果を正式にまとめ、検察へ送るための書類が積み上がっていく。東湾トンネル崩落事故についても、すぐに全容が明らかになるわけではない。
だが、有馬千尋の死は、自殺として閉じられなかった。
それだけは、確かだった。
NEXUS searchは、予定されていた検索透明性フォーラムを正式に中止した。
延期ではなく、中止。
その言葉を広報文に入れるまで、黒瀬はかなり粘ったらしい。社内では反対も出た。延期のほうが穏当だという意見もあり、中止という言葉は、企業としての失敗を認める印象が強いという声もあった。だが、黒瀬は押し切った。
中止のお知らせには、有馬千尋の死に対する哀悼と、警察への全面協力、外部通報窓口の処理体制を再検証することが記された。
文章は、完璧ではなかった。企業の文書として、守っている部分は多かった。責任を取り切らない言い回しもあった。言葉の端には、まだ会社を守るための硬さが残っていた。
それでも、以前よりは少しだけ、痛みのある言葉だった。
灰原はそれを読み、黒瀬に一言だけ送った。
「前よりは、人間味がある。」
返事はしばらく来なかった。
数分後、黒瀬から短い返信が届いた。
「褒め言葉として受け取っておきます。」
灰原は端末を閉じた。
黒瀬は会社を守る人間だ。その役割は変わらない。だが、会社を守ることと、会社が見なかったものを消すことは同じではない。
少なくとも今回、彼はそれをわかっていた。
霧島直哉は、検索補助開発部の自席を片づけていた。異動はまだ決まっていない。ただ、検索安全性レビュー室への希望は出したという。
外部通報、サジェスト、関連検索、個人名の扱い。これまで分類され、通常処理に流されてきたものを、もう一度見る部署だった。
速水蓮がそばに立つと、霧島は段ボール箱に入れかけていたマグカップを止めた。
「まだ異動できると決まったわけじゃないよ」
「じゃあ、片づけるの早くないか」
「気分の問題」
霧島は、少しだけ笑った。その笑いは、事件前の霧島に戻ったようで、戻りきってはいなかった。机の上には、有馬の通報処理フローを見直すための資料が置かれている。
個人名サジェストの短期変動。
外部要因。
緊急度。
透明性レポート対象外。
同じ言葉が、もう何度も検討されていた。
「次は、分類する前に見るんだろ」
速水が言った。
霧島は頷いた。
「見る。嫌になるまで」
「嫌になるぞ」
「もうなってる」
「じゃあ、向いてる」
霧島は苦笑した。
「ひどいな」
「褒めてる」
「蓮に褒められると、だいたい疲れる」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。昔なら、その沈黙は気まずくなかった。同期として、同じ仕事をしてきた。速水が違和感を掘り、霧島がそれを会議で通る言葉に直す。そういう関係だった。
だが今、その関係は少し変わっていた。霧島は、有馬の通報を分類した。速水は、それを責めた。そして二人とも、そこから逃げられなくなった。
霧島が言った。
「俺さ」
「うん」
「分類するのが得意だと思ってた」
「得意だよ」
「でも、得意なことって、怖いな」
速水は答えなかった。
霧島は続けた。
「うまくできるほど、何を落としたかわからなくなる。見やすくした瞬間に、見えなくなるものがある」
速水は、有馬の観測ノートを思い出した。
出された言葉だけでなく、出されなかった言葉を見ろ。彼女の記録は、そう言っていた。
「それを見ればいい」
速水は言った。
霧島は顔を上げる。
「見る。次は、止まる」
「止まる?」
「分類できた、と思った瞬間に、一回止まる。これは本当に見たのか、ただ箱に入れただけなのか、考える」
速水は少しだけ頷いた。
「いいと思う」
霧島はマグカップを箱に入れた。
「有馬さんには、遅かったけどね」
その言葉には、言い訳がなかった。
速水は何も言わなかった。
遅かった。それは消えない。
だが、反省は次に生かすしかない。
葛城玲奈は、有馬千尋の記事を読み直していた。神保町の事務所の机には、印刷された記事が何本も広げられている。赤ペンで線が引かれ、余白には小さな字でメモが書かれている。
灰原が訪ねたとき、葛城は顔を上げなかった。
「また警察ですか」
「今日は警察じゃない」
「NEXUSの内部監査ですか」
「それも半分くらいです」
葛城は、ようやく顔を上げた。
「何ですか、それ」
「有馬さんの記事を読みに来た」
葛城は、少しだけ眉をひそめた。
「私が読む必要はあっても、あなたがここで読む必要はないでしょう」
「あなたがどう読んでいるかを見に来たんですよ」
「悪趣味ですね」
「よく言われる」
葛城はため息をついた。
机の上にある記事のひとつは、東湾トンネル崩落事故に関するものだった。有馬はそこに、個人名を出さず、ある告発者の信用がどのように失われたかを書いていた。
葛城が赤線を引いていた一節がある。
『名前は、本人より先に読まれることがある。
だから私は、名前の前に事実を置きたい。
その人が何者かを決めるのは、候補語でも見出しでもなく、最後まで残された記録であるべきだ。』
灰原は、その三行を読んだ。
葛城は、その横に赤字で書いていた。
「ここで名前を伏せた理由が、今ならわかる。」
灰原はその文字を見た。
「どういう意味です?」
「有馬さんは、瀬名透の名前を守ろうとしていたんだと思います。名前を出せば、また検索される。また疑われる。また消費される。だから、記事では構造だけを書いた」
葛城はペンを置いた。
「でも、それでは届かなかった」
「だからフォーラムで話そうとした」
「ええ」
葛城は、ゆっくり息を吐いた。
「私は、有馬千尋を一番嫌っていたのは自分かもしれないと思っていました」
「違うんですか」
「違いません」
葛城は即答した。
「でも、彼女の記事を一番読んでいたのも、たぶん私です」
その声は、以前より少しだけ静かだった。
「嫌いでした。腹が立った。あの人が顔で消費されることにも、その消費を無視できない自分にも。私は、私が一番嫌っていた見方で、有馬さんを刺した」
灰原は黙って聞いた。
葛城は続けた。
「でも、記事は残ります」
「そうだな」
「私は、記事を読みます。彼女の顔ではなく、書いたものを」
それが償いになるかどうかは、わからない。言葉で傷つけた人間が、言葉を読むことで何かを返せるのか。そんな都合のいい答えはない。だが、葛城玲奈は逃げずに読んでいた。
少なくとも、それだけは事実だった。
灰原は、机の上の記事を一枚手に取った。
「この記事、借りていいですか」
「コピーなら」
「原本にはこだわらない」
「内部監査官にしては、控えめですね」
「紙の所有権で争う気はない」
葛城は少しだけ笑った。
「有馬さんなら、今の返しを嫌いそうです」
「だろうな」
灰原も、少しだけ口元を動かした。
大槻航平は、湾岸署で二度目の事情聴取を受けたあと、瀬名透の墓へ行ったという。それを灰原が知ったのは、三枝からの報告だった。
「墓前で何か話したそうです」
三枝は言った。
「何を」
「そこまでは聞いていません」
「警察にしては珍しいな」
「聞く必要がないこともあります」
灰原は三枝を見た。
「いい判断だ」
「褒めていますか」
「少しだけ」
三枝は、どこかで聞いたような顔をした。
大槻が提出した録音データは、過去事故を一気にひっくり返すほどのものではなかった。だが、瀬名透が事故前から危険を訴えていたこと、現場会議で安全判断について強い懸念を示していたことは確認できた。
施工会社とPR会社への調査は、これからになる。五年前に閉じたものを、すぐに開けられるわけではない。記録は失われている。人は異動している。記憶は都合よく変わる。そして、誰もが少しずつ自分の責任を小さく語る。
それでも、大槻は証言すると言った。
「瀬名のとき、俺は黙った。有馬さんのときまで黙ったら、俺はもう何も残らない。」
三枝は、その言葉を報告書には書かなかった。
だが、灰原には伝えた。
「書かないのか」
灰原が聞くと、三枝は首を振った。
「報告書に書く言葉ではありません」
「そうだな」
「でも、覚えておく言葉です」
灰原は頷いた。
警察官として書く言葉。
人間として覚えておく言葉。
その違いを、三枝は知っている。
三科悠介の事件は、報道では「検索サジェスト悪用疑惑をめぐる殺人事件」として扱われた。
見出しは、どれも少しずつ違っていた。
AI時代の評判操作。
検索候補が生んだ悲劇。
炎上誘導と調査報道ライターの死。
巨大検索企業の透明性に再び疑問。
灰原は、それらの見出しを一通り見たあと、画面を閉じた。どれも間違ってはいない。だが、どれも有馬千尋を少しずつ別の形にしている。
人は事件を理解するために、見出しを必要とする。
だが見出しは、いつも何かを削る。有馬千尋は、それを知っていた。
だから、自分の名前を見ていた。
灰原は、NEXUS本社の屋上テラスに出た。夜の湾岸では強い風が吹いていた。遠くで車の音が流れ、ビルの灯りが海面に細く伸びている。
速水蓮が、少し遅れてやってきた。
「ここにいると思いました」
「なぜ」
「灰原さん、考え事をすると高いところに行くので」
「そんな癖はない」
「あります」
速水は、灰原の隣に立った。しばらく、二人は何も言わなかった。
NEXUS本社では、まだ多くの社員が働いている。検索結果を改善し、広告を審査し、サジェストを調整し、通報を分類し、透明性レポートの文言を見直している。
そのすべてが、必要な仕事だ。だが、そのどれもが、人を見失う可能性を持っている。
「三科さんは、最後まで認めませんでしたね」
速水が言った。
「認めないだろうな」
「なぜですか」
「認めたら、自分が置いた問いに答えることになる」
速水は少し考えた。
「三科さんにとっては、答えるより、問い続けるほうが安全だった」
「そうだ」
灰原は夜景を見ていた。
「問いは、人を動かす。だが、答えは人を縛る」
速水は、その言葉を胸の中で繰り返した。
三科悠介は、人に問いを置いた。
葛城には嫉妬を。
霧島には分類を。
NEXUSには透明性の死角を。
有馬には信頼を。
そして、すべての人間に、自分で選んだと思わせた。
「僕は、検索を信じたいです」
速水は言った。
灰原は何も言わなかった。
「でも、信じるなら、疑わないといけないんですね」
「信じることと、疑わないことは違う」
「前にも、そんなことを考えた気がします」
「考えただけなら足りない」
「はい」
速水は苦笑した。
「あなたは、相変わらず厳しい」
「お前が甘い」
「そうですね」
速水は、ポケットからスマートフォンを取り出した。検索窓を開く。何かを入力しかけて、指が止まった。
灰原が横目で見る。
「どうした」
速水は、検索窓を見つめたまま言った。
「今、自分が打とうとした言葉が、本当に自分のものか考えていました」
灰原は答えなかった。
検索窓には、まだ何も入力されていない。それなのに、画面の下には、過去の検索、話題の言葉、誰かが入力したらしい候補がうっすらと浮かんでいる。
速水は、その候補を見た。
便利だと思っていた。今も便利だと思う。だが、便利なものは、たいてい人の手前に入り込む。考える前に、選ぶ前に、疑う前に。
「検索する言葉も、疑え」
速水は、小さく言った。
灰原は、夜の海を見ていた。
「有馬さんなら、そう言ったかもしれないな」
速水は頷いた。
検索窓は、何も答えていない。ただ、こちらの指先を待っている。画面の下には、いくつかの候補が浮かんでいた。どれも便利で、どれも少しだけ速すぎた。速水は、候補を選ばず、自分で文字を打った。
『瀬名透』
検索結果が表示される。
そこには、まだ古い悪意の名残が混じっていた。だが、少しずつ別の言葉も増え始めている。
告発。安全データ。施工日誌。東湾トンネル崩落事故。有馬千尋。
消えた入口は、完全には戻らない。
失われた時間も、人も、戻らない。
それでも、入口はもう一度作ることができる。
速水は画面を閉じた。
灰原が言った。
「帰るぞ」
「はい」
二人は屋上テラスを出た。背後に、湾岸の夜景が残る。
検索窓は、これからも人の前に候補を差し出す。
便利で、速く、親切な顔をして。
だからこそ、速水はもう、そのまま選ばない。
死者の名前をもう一度辿るには、それで十分だった。
予測された殺人|検索の死角シリーズ まうP @mau_p123
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