夫が歯車を吐き出した
猫小路葵
夫が歯車を吐き出した
夫が歯車を吐き出した。
夫婦で囲む朝の食卓。箸を持ったまま、まるで鰯の小骨でも吐き出すように。
夫は極小の歯車を指でつまむと、小皿にカチャンと置いた。妻はそれを見ると、心配そうに言った。
「あなた、またなの。いい加減お医者様に診ていただいたら……」
「ああ。仕事が一段落ついたらね。すぐには休めないよ。納期が遅れてるんだ」
しかし、遅かった。
夫はその夜、疲れて帰宅したあと、入浴中に倒れた。
物音に驚いた妻が風呂場に走ると、夫は洗い場で口から大量の歯車を吐き、意識を失いかけていた。投げ出された無言のシャワーヘッドから熱い湯がほとばしっていた。
「あなた!」
大小さまざまな銀の歯車。酷使され、それでも懸命に夫の体内で回り続けていた歯車。一緒に吐かれた赤い血が糸のように湯に流れ、排水溝へと吸い込まれていた。
妻は湯を止めた。そして携帯電話を手に戻り、119ではなく、夫の会社の専用ダイヤルにかけた。
「もしもし、夫が――」
電話の相手は、冷静に妻を落ち着かせた。そして状況を聞くと、力強く励ました。
「すぐに向かいます。ご主人は大丈夫ですよ。奥様、どうかお気を確かに」
妻は夫の体にバスタオルを掛けて待った。
夫の口が何か言おうと動いた。口内に残る歯車に歯が当たり、カチャカチャと音を立てた。
「あなた、何?」
「……納期、が……まことに、申し訳……」
夫が咳き込んだ。喉がガボッと鳴り、歯車が更に吐き出された。
職員たちが緊急車両で駆け付け、夫は運ばれていった。
「ご主人にお帰りいただくのは三日後を予定しております。日程に変更が生じた場合はご連絡いたしますので、よろしくお願いいたします」
そう説明を受けた。
妻は応じた。
「急ぎませんので、よろしくお願いいたします」
ひとりになった家で、妻は浴室に散らばった歯車を拾い集めた。血や唾液が付いていたので、改めてシャワーで洗った。ざるに入れてざんざんと水を切ったあと、玄関の三和土に古新聞を敷き、歯車を並べた。次の不燃ごみに出すため、乾燥させなければならない。
「明日の朝には乾いてるかしら」
妻はようやく風呂に入り、就寝した。
翌朝、夫を送り出す必要のない妻は、いつもより朝寝坊をした。
カーテンの向こうで雀たちがかしましい。
すると、玄関の方で金属音がした。
妻が起き出していくと、昨夜の歯車たちが自力で組み合わさり、左右にふらつきながらも立ち上がろうとしていた。落としきれなかった血の痕が乾き、カシカシと軋む。摩耗した歯と歯が嚙み合わさり、ヒトの声のような音を出した。
「納期ガ、遅レテルンダ……」
そう聞こえた。
「行ッテクル……」
妻はそんな歯車をいつものように送り出した。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「ウン……」
それは、不完全で未完成な「すずの兵隊」のように、覚束ない足取りで玄関を出て行った。
妻は自分のために簡単な朝食を用意して、食卓についた。
そしてふと、「三日後に帰ってくる夫」と「今、出社していった夫」のどちらが本物なのかと考えた。
「どっちを愛せばいいのかしら」
彼女は少し首を傾げて、けれども結局、
「どっちも愛せばいいか。二馬力ならお給料も倍なのかしら」
そう呟き、トーストをさくりと齧った。
夫が歯車を吐き出した 猫小路葵 @90505
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