エピローグ

 返された記録の入った茶封筒は、机のいちばん下の引き出しに入れてあった。


 鍵をかけているわけではない。

 毎日取り出して見るわけでもない。

 けれど、どこにあるかは、手を伸ばさなくても分かっていた。


 篠宮慶子は、朝の支度を終えてから、机の前に立ったまま、少しだけ引き出しを見た。

 開けはしない。

 ただ、その中にあることを確かめるように、視線だけを置く。


 それから小さく息をついて、バッグを持った。


 今日は面接だった。


 特別な会社ではない。

 駅から徒歩十分ほどの場所にある、小さなソフトウェア運用会社。

 受託開発というより、既存システムの保守と運用補助、それにドキュメント整備を請けるような会社だった。

 募集要項も地味で、給与も飛び抜けてはいない。

 けれど、今の彼女には、そういう普通さのほうがありがたかった。


 アパートを出ると、空気は春の終わりらしく少しやわらかかった。

 薄い上着でちょうどよく、日差しは明るいのに暑すぎない。

 駅までの道では、小学校へ向かうらしい子どもが母親に手を引かれていて、その横を自転車の会社員が追い越していった。


 どこにでもある朝だった。


 そういう朝の中に、自分がちゃんと混ざっていることを、篠宮はまだ時々、不思議に思う。


     ◇


 面接は、拍子抜けするほど普通に進んだ。


 会議室と呼ぶには少し狭い部屋に、採用担当らしい三十代の男と、現場責任者らしい四十代の女がいた。

 机の上には履歴書と職務経歴書。

 壁際には小さな観葉植物。

 空調の音が少しだけ強い。


「篠宮さん、今日はありがとうございます」


 最初にそう言われた時、彼女はほんの一瞬だけ反応が遅れた。


 面接そのものに緊張していたせいだと思われてもおかしくない程度の遅れだった。

 だが実際には、その名前がごく自然に呼ばれたことに、少しだけ心が引っかかったのだった。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 自分でも驚くほど、声は安定していた。


 質問はどれも普通だった。


 前職でどのような業務をしていたか。

 運用補助とドキュメント整備の経験はあるか。

 小規模な現場で、複数の雑務を並行してこなせるか。

 突発対応はどの程度まで可能か。


 答えながら、篠宮は不思議な感覚を覚えていた。


 誰も、必要以上に過去を掘らない。

 空白期間について尋ねられないわけではない。

 だが、説明を求められるのは履歴書の流れとして必要な範囲だけだった。

 事情を暴きたい人間の聞き方ではない。


 ただ、働けるかどうか。

 何ができるか。

 この先、どういう形で来てもらえるか。


 それだけを見ている。


 それがこんなにも、少し不思議で、少しだけ楽だとは思わなかった。


「篠宮さんは、どちらかというと前に出るタイプではないですよね」


 現場責任者の女が、職務経歴書を見ながら言った。


「はい」


 篠宮は少し考えてから答えた。


「ただ、整理する役のほうが長かったので、そういう意味では前に出ないほうがやりやすいです」


 女は頷いた。


「うち、目立たないけど、そういう人が一番助かるんです」


 その言い方は営業用の持ち上げではなく、本当にそう思っている人間の口調だった。

 篠宮は小さく会釈をした。


 面接は三十分ほどで終わった。


「結果は数日以内にご連絡します」


 採用担当の男がそう言い、最後にまた自然に言った。


「本日はありがとうございました、篠宮さん」


 篠宮は立ち上がり、頭を下げる。


 会社を出たあと、駅までの道を歩きながら、彼女は少しだけ空を見上げた。

 青くもなく灰色でもない、曖昧に晴れた空だった。


 何かが起きたわけではない。

 ただ、思っていたより普通だった。

 そのことが、思っていたより心に残った。


     ◇


 連絡が来たのは、その三日後の午後だった。


 部屋で求人サイトを開き直していた時、机の端に置いたスマートフォンが震えた。

 表示された番号は登録されていない。

 だが、地域と時間帯で、何となく分かった。


「はい」


 出た声は、自分で思っていたより少し低かった。


『お忙しいところ失礼します。先日面接にお越しいただいた、村瀬システムサポートの高木です』


「はい」


『篠宮さん、お時間よろしいでしょうか』


「大丈夫です」


 電話の向こうで、紙をめくる小さな音がした。

 形式的な確認を一つ二つ挟んでから、高木という男は言った。


『選考の件ですが、ぜひ来月からお願いできればと思いまして』


 篠宮は、その瞬間だけ返事ができなかった。


 沈黙は、たぶん一秒か二秒ほどだった。

 電話の向こうでは、それを「驚いているのだろう」と受け取った程度だろう。


『篠宮さん?』


「……はい」


 ようやく声が出た。


「ありがとうございます」


『こちらこそ、よろしくお願いします。詳細はメールでもお送りしますが、開始日は……』


 そのあとの説明は、きちんと聞いた。

 開始日。勤務時間。必要書類。初日の持ち物。

 聞き漏らさないように、机の上のメモ帳へ一つずつ書き留める。


 けれど同時に、彼女の中では別のところが静かに動いていた。


 篠宮さん。


 電話の向こうの男は、ただそう呼んだだけだった。

 仕事として、自然に。

 特別な意味なんて何も込めずに。


 けれど、その名前を、誰かの都合ではなく、自分のこれからのために呼ばれたのは、たぶん初めてだった。


 電話を切ったあと、篠宮はしばらくそのまま椅子に座っていた。


 机の上には、書きかけのメモ。

 開始日と、初日の出勤時間。

 持参書類の欄に、自分の字で「身分証」「口座情報」「印鑑」と並んでいる。


 ごく普通の事務的なメモだ。

 だからこそ、少しだけ眩しかった。


 やがて彼女は立ち上がり、机のいちばん下の引き出しを開けた。


 茶封筒は、そこにあった。


 角の少しつぶれた、古い封筒。

 中には、誰かが勝手に整えた経路の断片が入っている。

 移送先、引受先、連絡不要と書かれた紙片。

 自分がどう消されたかの痕跡。


 篠宮はそれを取り出さなかった。

 ただ、そこにあることを見て、引き出しを静かに閉めた。


 同じ引き出しには、榊原美緒からの白い封筒も入っている。

 読んだのは、一度だけだった。

 謝罪ではなく、自分が何を見誤り、どこで立ち止まったのかを書いた短い手紙だった。

 篠宮は返事を書いていない。

 それでいいと思っている。

 受け取ったことと、返すこととは、同じではない。


 過去は消えない。

 消えなかったから、ここまで来た。

 でも今は、それが他人の手の中にあるわけではない。


 彼女は机へ戻り、メモ帳の新しいページを開いた。


 来月のカレンダーを書き、勤務開始日を丸で囲む。

 その横に、小さく「初出勤」と書いた。


 書き終えてから、少しだけ眺める。


 別の名前で生きた時間も、自分の時間だった。

 安西慶子として失ったものは戻らない。

 けれど、篠宮慶子としてこれから続いていく時間は、もう誰かの処理の続きではない。


 窓の外では、午後の光がゆっくり傾き始めていた。

 向かいの建物の壁が白く明るく、洗濯物が風に少しだけ揺れている。


 篠宮はペンを置き、いつもより少しだけ深く息をついた。


 それは、何かを乗り越えた人間の息というより、

 ようやく普通の始まりの前に立てた人間の息に近かった。


---


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 この物語で描きたかったのは、誰かが死んだかどうかではなく、

 人が「いなかったこと」にされていく怖さでした。


 失われた時間は戻りません。

 それでも、自分の過去を誰かの説明の中に置いたままにしないこと。


 篠宮慶子が選んだ小さな一歩を、結末として残したいと思いました。


 また次の黒崎探偵事務所の物語でお会いできれば嬉しいです。

 今後とも、よろしくお願いいたします。

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黒崎探偵事務所 Ⅱ -彼女が、ここに来た理由- 定年プログラマー @Retirement_Programmer_0328

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