第17章 ここに残る必要はない

 記録が返り、兄と会い、母の所在を知ったあとも、慶子の生活が急に明るく変わったわけではなかった。

 それでも、次にどこへ進むかを決める権利だけは、ようやく彼女の手元に戻っていた。


 記録を受け取ったあと、黒崎は慶子のこれからを確認した。


「これから、どうしますか」


 黒崎が聞くと、慶子はすぐには答えなかった。


 バッグから、一枚の紙を取り出す。

 それは、エス・フィールズシステムからの採用通知だった。

 あの時に真田の前に置いたものと同じ封筒から出した、同じ紙だ。


「これ」


 慶子はそれを見た。


「辞退します」


 声は静かだった。


「そうですか」


「はい」


「理由を聞いても?」


 慶子は少し考えてから頷いた。


「私は、この会社に入って勝ちたいわけじゃなかったんです」


 その言葉に、黒崎は小さく目を細めた。


「採用される位置まで行けるかは、確かめたかった。そこまでは必要だったと思います。でも、入るところまでは違う」


「なぜですか」


「そこに入ったら、今度は私のほうが“ここでやっていく理由”を作らないといけなくなるからです」


 慶子は言葉を選びながら続けた。


「それは、もう私が背負うものじゃないと思いました。返してもらうものは返ってきた。だったら、その先まであの会社に預ける必要はない」


 線引きだった。

 逃げでも、意地でもない。

 ここまでは必要で、ここから先は違う。

 その判断を、自分で引いている。


「では、これからは」


「今の名前で、今の生活を続けます」


 慶子は言った。


「ただ、続けるっていう感じが、少しだけ変わりました」


「どう変わったんですか」


「前は、説明の続きを生きてる感じだったんです」


 彼女は採用通知を封筒へ戻した。


「でも、これからは、自分で決めた続きを生きます」


 黒崎は、その言葉に何も足さなかった。

 十分だった。


     ◇


 榊原が事務所へ来たのは、そのさらに数日後だった。


 あの日よりも少しだけ顔色が戻っている。

 ただ、疲れが取れたのではなく、考える方向が定まった人間の落ち着きに見えた。


「その後、篠宮さんは」


 応接に座るなり、そう聞いた。


「ご本人が選ばれる話ですから、全部はお伝えできません」


 黒崎がそう言うと、榊原は頷いた。


「そうですよね」


「ただ、一つだけ言えるとすれば」


 黒崎は言った。


「最初に榊原さんが止まったのは、間違いじゃありませんでした」


 榊原は、その言葉をすぐには受け取らなかった。

 少しだけ目を伏せてから、静かに言う。


「私、最初は、“採用していい人か”を確認したかっただけなんです」


「ええ」


「でも途中から、それを考えてること自体が、すごく嫌になりました」


 黒崎は答えない。


「この人は危ない人ですか、問題ありますか、採って大丈夫ですか、って。……そういうふうに誰かを見てること自体が、すごく変だった」


 その言葉に、杉本が静かに顔を上げた。

 榊原がようやく、そこまで来たのだと分かったのだろう。


「もちろん、人事だから確認しなきゃいけないことはあります」


 榊原は続けた。


「でも、今回は違った。確認される側に問題があるんじゃなくて、確認してる側のほうに、ずっと放ってきたものがあった」


「そうですね」


 黒崎が初めて頷く。


「そこを見誤らなかったのは、大きいと思います」


 榊原は、そこで少しだけ肩の力を抜いた。


「社長は退任することになりました」


 その言葉は淡々としていた。


「表向きは一身上の都合です。会社の中で全部が明るみに出たわけじゃありません」


「でしょうね」


「でも、少なくとも、何もなかったみたいには続かなくなった」


 それで十分だった。

 世の中には、全部が裁かれなくても、もう元どおりには続かないことでしか届かない責任もある。


「榊原さんは」


 黒崎が聞く。


「この会社に残りますか」


 榊原は、少し考えた。


「今は残ります」


「理由を聞いても?」


「逃げるみたいに辞めたくないんです」


 彼女はそう言った。


「私が止まった場所がどこだったのか、ちゃんと見たうえで、もう少しだけここで考えたい。……それでも駄目だと思ったら、その時は自分で決めます」


 その答えもまた、この件にふさわしかった。

 誰かに決められた結末ではなく、自分で選ぶ保留。

 それも一つの回復だ。


     ◇


 その日の帰り際、榊原は小さな白い封筒をテーブルへ置いた。


「これ、篠宮さんに渡してもらえますか」


 黒崎は封筒へ目を落とした。


「中身は」


「手紙です」


 榊原は少し迷ってから、言葉を足した。


「謝罪ではありません。私が勝手に謝るのも違うと思ったので」


「では」


「最初に、あなたを確認対象として見てしまったこと。そのあと、自分の中で見え方が変わっていったこと。それだけを書きました」


 黒崎は頷いた。


「お預かりします」


 榊原は立ち上がり、深く頭を下げた。


 その背中が事務所を出ていく。

 ドアが閉まったあと、しばらく誰も口を開かなかった。


 白い封筒は、応接テーブルの上に残っていた。

 薄く、軽く、何の変哲もない封筒だった。

 だがその軽さが、かえって目についた。


 杉本が、封筒を見ながら小さく言った。


「榊原さんも、戻る途中なんですね」


「そうだな」


 黒崎は答えた。


「誰も、一度で戻れるわけじゃない」


 佐伯は、少し考え込むようにしてから言った。


「篠宮さんにとって、この手紙って、必要なんでしょうか」


 黒崎はすぐには答えなかった。


 必要かどうか。

 それは、こちらが決めることではない。

 受け取るかどうかも、読むかどうかも、読まずにしまうかどうかも、本来なら本人の側にあるべきものだ。


「必要かどうかは、分からない」


 黒崎は静かに言った。


「ただ、渡すかどうかをこちらで止めるものでもない」


 水瀬が頷いた。


「読むかどうかは、篠宮さんが決めることですね」


「そうだ」


 黒崎は封筒を手に取った。

 白い紙の感触は、あまりにも普通だった。


 この仕事で返すものは、いつも大きなものとは限らない。

 記録。

 名前。

 手紙。

 言えなかった言葉。

 選ばせてもらえなかった保留。


 それらはどれも、外から見れば小さい。

 だが、小さいものだからこそ、勝手に奪われると、人は長く戻れなくなる。


 黒崎は封筒を机の上に置き直した。


「明日、連絡する」


 誰も、それ以上は言わなかった。


 階下の喫茶店から、閉店の準備をする物音がかすかに聞こえてくる。

 カップを重ねる音。

 椅子を引く音。

 いつもと変わらない夜の音だった。


 けれど、その普通の音の中で、事務所のテーブルには一通の封筒が残っていた。


 誰かが、ようやく自分の言葉で書いたもの。

 そして、誰かが読むかどうかを、自分で決めるもの。


 黒崎は、その封筒をもう一度だけ見た。


 この事件で戻ったものは、まだ多くはない。

 失われた時間は戻らない。

 母の記憶も、兄妹の二十年も、消された名前の重さも、元には戻らない。


 それでも、少なくともひとつだけは変わっていた。


 誰かが決めた説明の中に置かれていたものが、

 少しずつ、本人の手元へ戻り始めている。


 事務所の窓の外で、夜の街が静かに光っていた。

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