第32話 第三工房の扉

朝の工房は、いつもこうして始まる。


ネロがカウンターの端にノートを広げ、セイチが調合台の前に立つ。蒸留器の火を確認し、バイザーをかけ直す。そのことが、気づけば体に染みついていた。


「先生、昨日の……」


ネロが言いながら、ページをめくる。めくる。もう一枚めくる。セイチは手を止めずに待った。探しているのではない――どこから訊くか、整理しているのだ。以前は「あの、えっと」が三回くらい入っていた。今は黙って選んでいる。


「フォンティカ苔の水属性成分、昨日の蒸留で収率が上がったのって、温度管理の話ですか。それとも加圧のほう」


「両方だよ。ただ、効いてる順番がある」


「温度が先?」


「何度だったか、言ってみて」


ノートをたどる音がした。一拍も置かずに答えが来た。


「六十三度。……あ、そこで揮発の閾値が変わるから――」


「そう、続けて」


小さな声で、ネロが考えながら喋り続けた。セイチは調合台の上の小瓶を持ち上げ、バイザー越しに成分の分布を確認した。訂正は一か所だけ必要だった。


「加圧との組み合わせで言うと、順序が逆になる条件がある」


「条件って、どんな場合ですか」


「素材の繊維密度が高いとき。書いといて」


「……はい」


ペンが走る音がした。止まった。また走った。セイチは小瓶を棚に戻しながら横目でチラと見た。余白がない。以前は一行書いて、半ページ空いていた。今は図まで入っている。


(ここまでできるようになったか)


ネロはもう次のページを開いていた。


「もう一個いいですか」


「どうぞ」


「ラディカ琥珀の――」


ふと、扉の蝶番が鳴った。


扉を開けたのはリナだった。ベンゾがその後ろから入ってくる。二人とも装備のままで、どこかへ寄った帰りらしかった。リナが工房の中を見回し、セイチを見つけた。


「邪魔するよ」


「どうぞ」


ネロが顔を上げて「リナさん、ベンゾさん」と言った。リナが軽く手を振る。ベンゾは無言で頷いた。


リナがカウンターに近づいてきた。いつもより少しだけ歩みが遅かった。セイチは作業台に向き直ったまま、手を動かし続けた。


「……よかった」


静かな声だった。セイチは手を止めなかった。


「何が」


「とぼけないでよ」


リナの声に笑いが混じった。泣きそうな笑いではなかったが、いつもより少しだけ柔らかかった。セイチはバイザーを額にずらし、小瓶を棚に戻した。


「父のこと、ごめん」


「何のことだ」


リナが少し黙った。何か言おうとして、やめた気配がした。


「あなたって本当に……」


言いかけて、止まった。続きは来なかった。セイチも引き取らなかった。リナもそれ以上押さなかった。長い付き合いというのはそういうもので、言わなくていいことは言わないで済む。お互いそれでいい、という間があった。


ベンゾが作業台の奥をゆっくりと見ていた。布をかけた装置のあたりで、視線が止まった。腕を組んで、少し首を傾げた。


「なあ、あそこに何かあるな」


「どこに」


「布の下」


「材料置き場だ」


「そうか」


間があった。


「でかいな」


「そうか」


ベンゾが腕を組んだまま、一度だけ頷いた。


「爆発するかもよ」


リナが吹き出した。ベンゾが低く笑った。


「そりゃ怖いな」


「怖いだろう」


「近づかないでおく」


「賢明だ」


ネロがカウンターの端で、ノートに目を落としたまま、少しだけ背筋を伸ばした。台詞はなかった。ただそれだけの動作だったが、セイチにはわかった。しばらくして、リナが腰を上げた。


「また来る」


「どうぞ」


ベンゾが軽く手を上げた。扉が閉まった。いつも本当に来る。それがこの二人だった。


夕方の光が窓から斜めに差し込む頃、また扉が鳴った。ネロが顔を上げた。セイチも手を止めた。


扉を開けたのはゲラインだった。その隣にシトロが立っていた。二人並んで工房の入り口に立っている。普段はない組み合わせだった。


「迷惑をかけた」


ゲラインが言った。権威でも謝罪でもなく、ただそう思っているから言った、という口ぶりだった。セイチは作業台の前に立ったまま、ゲラインを見た。


「お互い様ですよ」


押しつけでも慰めでもなかった。本当にそう思っている顔だった。ゲラインが少し息を吐いた。


間があった。シトロが一歩、前に出た。


「一つ伺いたいことがある」


「どうぞ」


「魔導真空蒸留だ」


セイチは作業台の前の椅子を引いた。座り直した。シトロが近づいてくる。ゲラインはその後ろで、工房の入り口近くに静かに立っていた。


「あの収率はおかしい。通常の水蒸気蒸留と比べて、フォンティカ苔の水属性成分で言えば三倍近い。熱変性も見られない。なぜか」


「減圧しています。沸点を下げて、低温で引き出す」


「それは知っている。問題は温度管理だ。減圧環境で沸点が変動する中、どうやって成分ごとの揮発域を制御している」


セイチは少し間を置いた。


「温度計があります」


「見せてくれ」


顎でしゃくった。シトロが棚に近づき、温度計を手に取った。しばらく眺めた。裏返した。また眺めた。


「自作か」


「ええ」


「目盛りの刻みが細かい。零点五度単位か」


「その通りです」


「……どこで学んだ」


「独学です」


シトロが温度計を持ったまま、セイチを見た。疑っているのではなかった。腑に落ちない、という顔だった。


「独学でこの精度は出ない。蒸留塔の設計も、還流比の制御も、通常の調香師が辿り着く領域じゃない。揮発成分の分画にバイザーを使っているのか」


「使っています。成分の揮発域をリアルタイムで確認しながら、圧力と温度を同時に調整する」


「同時に、か」


シトロの声が少し低くなった。


「それは人間の判断速度で対応できる操作じゃない」


「慣れます」


短い沈黙があった。


「……どのくらいかかった」


「最初の一年は失敗続きでした」


シトロが温度計を棚に戻した。作業台の前に立ち、装置の布をちらりと見た。訊かなかった。セイチも言わなかった。


「もう一つ訊く。収率が上がる条件として、加圧との組み合わせがあると聞いた。減圧と加圧を切り替えるタイミングはどう判断している」


「バイザーで成分の分布を見ながら、揮発の波が落ち着いたところで切り替えます。素材によって違いますが、フォンティカ苔なら――」


セイチは立ち上がり、作業台の上に手を置いた。説明しながら、道具の配置を確認するように指が動いた。いつもより言葉が多かった。訊かれると、出てくるものがある。


ネロが横でノートを開いた。ペンを持った。問いと答えが行き来するたびに、ページが埋まっていく。ゲラインが入り口近くで腕を組んだまま、工房の中を静かに見ていた。


問いと答えが続いていた。ネロのペンが一瞬止まった。すぐにまた動き出した。


第三工房の扉は、今日も開いている。

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香師の工房 〜調香魔術師セイチの豊かなる日常〜 夜灯工房 @NightglowWork

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