エピローグ:海に至るノイズ

 世界は、正しい音を失った。

 かつて僕たちの鼓膜を支配していたのは、佐藤さんの刻む四拍子の規律だった。

 アイロンの滑る音、洗剤を注ぐ音、そして「正しい息子」を規定する静謐な声。

 けれど今、僕の耳を埋め尽くしているのは、輪郭のない、圧倒的な量の「ノイズ」だ。


• ザザ、という一回目の波音。

 それは、砂浜に刻まれた「過去」を無差別に消去する音。


• ザザ、という二回目の波音。

 それは、佐藤さんの定規では決して測ることのできない、海水の質量が動く音。


• ザザ、という三回目の波音。

 それは、僕たちがようやく手に入れた、意味を持たない自由の音。


 三拍子でも、四拍子でもない。

 この不規則な反復こそが、僕たちが求めていた「脱出速度」の果てにある風景だった。

 視線の先では、健斗が波打ち際に立ち、あの修理された野球ボールを海に向かって投げようとしていた。

 彼は一度、大きく息を吸い込む。その背中は、佐藤さんの家の無菌室にいた時よりもずっと大きく、頼もしく見えた。

「見ててよ、兄ちゃん。今度は、重力なんて関係ないから」

 健斗が腕を振り抜く。ボールは白い放物線を描き、空を切り裂いて海へと吸い込まれていった。

 その瞬間、健斗が僕の方を振り返った。

 僕はそれを、勝利を確信した少年の、眩いばかりの「喜び」の表情として解析した。

 けれど、彼が僕に向けたその視線の微かな「揺らぎ」を、当時の僕は読み取ることができなかった。彼が微笑む直前、僕の顔色を伺うように一瞬だけ瞳を泳がせ、僕の頷きを確認してからようやく「喜び」を爆発させたこと。それが、佐藤さんの顔色を伺っていたあの頃の瞳の動きと、全く同じ周波数であったことに、僕は気づかなかった。

 小春は、砂浜にノートを広げ、貝殻で何かを削り取っている。

 彼女が描いているのは、もう「白い点」ではない。ただ、波が来るたびに、彼女は自分の描いた線を砂で消した。

「お兄ちゃん、見て。海が、ノートを全部白くしてくれるよ」

 僕は笑って、彼女の頭を撫でた。

 そうだ。僕たちはもう、自分たちを縛るための法則も、誰かの言葉を盗んだ「魔法」も必要ない。このノートを閉じ、海のノイズに身を任せれば、僕たちは僕たちだけの、名前のない物語を歩んでいける。

 僕は、ポケットの中のペンを砂の中に深く埋めた。

 

 潮風が、僕の髪を乱暴にかき乱す。

 海鳴りの反復が、僕の脳内に残っていた佐藤さんの残響を、一音残らず押し流していく。

 空はどこまでも高く、不純物に満ちた青さが広がっていた。

 僕は深く、深く、新しい世界の空気を肺に溜め込んだ。

 「行こう」

 僕は二人の背中を追いかけ、波打ち際へと走り出した。

 

 そして僕は今、ノートを書いている。法則ではなく、物語として。

 鬼は家族のかたちをしていた。でも、僕たちは物語のかたちをしていた。

 物語というのは、現実を変えない。でも、現実の名前を変える。佐藤さんという気象現象は、今も誰かの家の空気を書き換えているだろう。それは変わらない。ただ僕は今、あいつに名前をつけた。鬼、と。名前をつけた瞬間に、あいつは僕の物語の登場人物になった。現実ではなく、物語の中の存在に。そうなれば、僕が物語を閉じるとき、あいつも一緒に閉じられる。


――風。


 海風が、髪を掻き乱した。

 水平線の向こうに、雲が一つだけ浮いていた。白く、どこまでも白く、それでいてひどく自由な形をしていた。

 潮の匂いの中に、ひどく清潔な何かが混じっていた。

 また風が来た。髪がめちゃくちゃになった。

 波が来る。それは透き通るように青い。波が来る。それは信じられないくらい冷たい。波が来る。それはひどく美しく、正しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼は家族のかたちをしている 楠本ラリアット @keisuke-0704

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ