文学はロックンロールだ。 アンドレ・ブルトンはその『第一宣言』において、セリーヌはその無法な毒づきにおいて、ヘンリー・ミラーは『ネクサス』『セクサス』『プレクサス』のはらむビートにおいてロックンロールだ。 ジョイスは自己創造と破壊において、ウィリアム・ブレイクは創世術において、W・バロウズは『裸のランチ』という動詞において、トリスタン・ツァラはその美しい名前においてロックンロールだ。文学は骨の太いロックンロールだ。 クライブ・バーガーは『血の本』でバスタブ一杯の血を用意し、ジャック・リゴーは『不在』において、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグは夜への通底によってA・ネーポンは『非在』において、アントナン・アルトーはペストの名において泉鏡花は植物描写において、T・S・エリオットはわらの詰まり具合によって、アレン・ギンズバーグはバロウズとの『麻薬書簡』においてロックンロールだ。ロックンロールとはまだ名づけられていないある種の精神状態のことだ。——中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』
中島らもが『バンド・オブ・ザ・ナイト』で「文学はロックンロールだ」って書きつけた箇所を読み返すたび、こっちの頭の中でアンプが変なハウリングを起こすような感覚がある。並べられた名前の中にセリーヌがいて、あの毒づきがロックだと言われると、確かにそうとしか言いようがないんだけど、ふたりが立っている場所の距離感はかなり違う。
共通しているのは、頭の良さそうな観念から文学を始めていないことくらいだ。胃酸を吐くとか、金がないとか、二日酔いで頭が割れそうとか、そういう肉体のどうしようもなさからしか言葉が出てこない。
ただ、らもはその無様さを、全部まとめて自分たちの側に引き戻してしまう。『バンド・オブ・ザ・ナイト』を読んでいると、社会からこぼれ落ちたアル中やジャンキーを「まともになれ」と説教するんじゃなくて、「まあ、生きるのはクソだけどさ、とりあえず一杯飲もうや」って肩を抱くような体温がある。傷だらけのまま、夜の路地裏で鳴らすガレージバンドの祝祭感だ。
一方で、セリーヌの本を開くと、もっと単純に読むのが嫌になる瞬間がある。『夜の果てへの旅』も『なしくずしの死』も、死への憧れなんかじゃなくて、死ぬまで終わらない「生」の嫌悪感が延々と続く。戦争で撃たれて、泥水飲まされて、病気になって、金に困って、それでも次の朝が来て生き続けなきゃならない。その生理的な拷問に耐えかねて、客席に向かって一人で怒声を張り上げている。
死にたいわけじゃない。生きること自体が生々しすぎて、罵声を吐くために身体が生理的に生き延びてしまう。
らもは「生きるのはクソだけど、まあ生きようぜ」と笑う。セリーヌは「生きること自体がクソだ、ふざけんな」と怒鳴る。
どちらも自分の身体を傷つけずに世界を語るような真似はしなかった。夜の暗がりの中で、それぞれがどんな顔をしてその音を鳴らしていたのか、ページを閉じた後もしばらく耳鳴りみたいに残っている。