ミラクルおじさんの伝説

ミラクル

本編

 2003年、6月28日。土曜日。午前11時。


 ウインズ新橋の払い戻し窓口に、1人の中年男性が立っていた。


 襟付きのシャツにスラックス。どこにでもいるサラリーマン風の男だ。40代の後半だろうか。髪にちらほら白いものが混じっている以外、これといった特徴はない。


 男は安田記念の的中馬券を差し出した。

 アグネスデジタルの単勝。130万円分。


 窓口の職員が金額を確認し、1222万円の現金を渡した。


 男はそのまま、隣の発売窓口へ歩いた。


 マークシートはすでに記入してある。

 明日の宝塚記念。単勝。ヒシミラクル。1222万円。全額。


 窓口の女性の手が、一瞬だけ止まった。


「……こちらの金額で、お間違いないでしょうか」


「はい」


 男の声は穏やかだった。


 ヒシミラクルは長距離GIを2つ勝っている実力馬だ。

 だが当時は、ムラのあるステイヤーという見方も強かった。春の天皇賞を勝ったばかりとはいえ、シンボリクリスエスやネオユニヴァースが揃った今年の宝塚記念で、主役級ほどの支持を集めていたわけではない。


 その馬の単勝に、1222万。


 馬券が発行された。男はそれを封筒に入れ、内ポケットにしまった。


 周囲の何人かが見ていた。


「あのおっさん、何買った?」

「ヒシミラクルの単勝」

「ヒシミラクルに全額?」

「正気か」


 男には聞こえていたはずだ。

 だが、振り向かなかった。


 ウインズを出て、新橋の雑踏に紛れていく。

 6月の日差しが、薄い雲を通して降りてくる。


 男は1度だけ空を見上げ、小さく息を吐いた。


 その横顔に、狂気はなかった。

 ギャンブルに取り憑かれた人間の目ではなかった。


 もっと静かなものだった。


 答え合わせを待っている人間の目だった。


    *


 男にとって、この夏は2度目の夏だ。


 1度目の人生で、男はそこそこ競馬が好きだった。

 毎週買うほどではない。だがGIレースだけはテレビで追っていた。ダービー、有馬記念、天皇賞。年に何度か、1000円か2000円の馬券を握って画面に向かう。そのくらいの距離感だった。


 2003年のGI戦線は、よく覚えている。


 ネオユニヴァースがダービーを勝った。

 安田記念はアグネスデジタル。前走までにGIを5つ勝っていた名馬で、芝ダート両方のマイル実績も十分あったが、近走は少し成績を落としていて、絶対視まではされていなかった。男はテレビの前で「まだやるんか」と声が出た。

 そして宝塚記念。ヒシミラクル。人気の中心ではなかった芦毛の馬が、外からまくって押し切った。


 ——今年のGI、荒れるなあ。


 それが感想だった。


 その後の人生は、長く続いた。

 長く続いて、特に何も起こらなかった。


 毎日会社に行き、毎日帰り、週末にはテレビを見た。妻とは途中で別れた。子供はいなかった。友人と呼べる人間は、いつの間にかいなくなった。


 定年まで勤め上げた。退職金が出た。


 持て余した。

 何かをしたかった。自分にはまだ判断力がある、衰えていない——そう証明したかったのかもしれない。


 FXを始めた。


 最初は勝った。少し勝って、気が大きくなった。

 次に負けた。取り返そうとした。

 取り返そうとするほど、深く潜った。


 気づいたときには、退職金の大半が消えていた。


 72歳の冬。暖房の効かないワンルームで、天井を見ていた。

 何も残っていなかった。金も、人も、やり直す時間も。


 FXで退職金を溶かしたあと、男は何度も同じ空想をした。


 もし、今の記憶を持ったまま、あの年に戻れたら。


 ネオユニヴァースのダービー。

 アグネスデジタルの安田記念。

 ヒシミラクルの宝塚記念。


 ダービーのネオユニヴァースだけは、当時の自分でも買えたかもしれない。

 1番人気で、単勝は2.6倍。堅いと思える馬だった。


 だが、その先は違う。

 アグネスデジタルも、ヒシミラクルも、当時の自分が本気で張れるような馬ではなかった。

 テレビの前で「へえ」と思って見ていただけだ。


 だが今なら違う。

 結果を知っている今なら、この3つを1本の線でつなげられる。


 眠った。


 目が覚めたら、2003年の5月だった。


 40代の身体。動く足。痛まない腰。


 カレンダーを見た。ダービーの前だった。


 男は30秒ほど天井を見た。

 それから起き上がって、銀行に行った。50万円を下ろした。


    *


 ダービーは順当だった。


 ネオユニヴァース。1番人気。2.6倍。50万が130万になった。


 払い戻しを受けたとき、男の指先はわずかに冷たかった。当たるとわかっていたはずだ。1番人気だった。それでも、札束を受け取る瞬間に身体が強張った。


 ここまでは、1番人気の単勝を買っただけだ。

 度胸のある競馬好きなら、やれないことではない。


 安田記念。アグネスデジタル。


 ここからが違う。


 デジタルはGI5勝の実績馬で、マイル適性も十分に証明済み。

 だが近走の成績に陰りがあり、盤石の本命ではなかった。


 だが男は知っている。

 勝つのはこの馬だ。


 ——知っている、はずだ。


 130万を全額、単勝に入れた。

 手が震えた。今度は少しではなく、はっきりと。


 ダービーは来た。だからといって、安田記念も同じように来る保証はどこにもない。

 戻った世界が、前の人生と寸分違わず進んでいる証拠など何もない。騎手の判断が1つズレるだけで、展開が1つ変わるだけで、すべてが崩れる。


 知っている。知っているはずだ。

 72歳の自分がテレビで見たのだ。「まだやるんか」と声が出たのだ。


 レースが始まった。


 デジタルが勝った。


 9.4倍。130万が1222万になった。


 払い戻しを受けたとき、男は窓口の職員に「ありがとうございます」と言った。職員は少し驚いた顔をした。1200万の払い戻しで礼を言う客は、あまりいないのかもしれない。


 だが男の中では、まだ終わっていなかった。

 最後の1戦が残っている。


 ヒシミラクル。宝塚記念。


 ここが本番だ。


 ダービーは順当な本命だった。

 安田記念は人気を落としていたとはいえ、GI5勝の名馬だった。

 どちらも、勝っても不思議ではないと言える馬だ。


 だがヒシミラクルは違う。


 ムラのある長距離型が、距離の短い宝塚記念で、シンボリクリスエスとネオユニヴァースを倒す。

 誰がどう見ても、おかしな賭けだ。


 1222万。全額。


 おかしな賭けを、おかしな金額でやる。


 前の人生でこんなことをしたから退職金が消えたのだ、という声が頭の中で聞こえた。


 だが、今回は違う。

 あれは何も知らずに賭けた。

 今回は知っている。


 ——知っている、はずだ。


 そこに、恐怖が混じった。


 ダービーは来た。

 安田記念も来た。

 だが、それだけで宝塚記念まで前の人生と寸分違わず進む保証が、どこにある。


 ここで外せば終わりだ。


 50万に戻るわけじゃない。

 また、何もないところへ落ちる。


 男は唇の内側を噛んだ。


 頼む。

 ここだけは、前の人生のままでいてくれ。


    *


 6月29日。日曜日。15時40分。


 ファンファーレが鳴った。


 ウインズ新橋のモニターの前で、男は紙コップを握っていた。1口も飲んでいない。


 ゲートが開く。


 先行馬がハナを切り、ペースが流れる。主役級は中団に控えている。

 ヒシミラクルは後方にいた。


 3コーナー。騎手が動いた。外からまくりにかかる。


 来た。


 男の喉がひくりと鳴った。


 知っている。この馬は、ここから上がっていく。

 テレビで見た。ソファに寝転がって見た。何でもない日曜の午後に、他人事みたいに眺めていた。


 だが今は違う。


 頼む。

 そのまま来てくれ。

 ここで止まるな。


 直線。


 芦毛の馬体が先頭に立った。


 後ろから1頭迫ってくる。もう1頭が粘っている。主役級は伸びない。


 差が、縮まらない。


 ハナ差。


 押し切った。


 ウインズがどよめいた。


 男は紙コップをゴミ箱に捨てた。最後まで1口も飲まなかった。


 内ポケットに手を当てた。


 50万が、130万になり、1222万になり、約2億円になった。

 ダービーから1ヶ月。3回の転がしで、50万が2億になった。


 翌日のスポーツ紙は、この男を「ミラクルおじさん」と呼んだ。

 騎手はインタビューでこう言った。

 ——いっぱい買ったファンの方もいたみたいで。僕よりよほどの勝負師ですね。


 1度目の人生に、ミラクルおじさんはいなかった。

 テレビの前で「荒れるなあ」と呟いていた男がいただけだ。


 伝説は、男が自分で作った。


 ウインズを出た。

 新橋の駅前は、宝塚記念の結果を知らない人たちで溢れていた。買い物をしている家族。デートの2人組。部活帰りの学生。


 世界は何も変わっていない。


 変わったのは、男の内ポケットだけだ。


    *


 翌年の春。


 横浜港の大さん橋に、客船「飛鳥」が停泊していた。

 白い船体に濃い青のライン。午前の光を受けて、船体がやわらかく光っている。世界1周クルーズ。約100日間。


 男はデッキにいた。


 出港まで少し時間がある。手すりにもたれて、港を見ていた。


 タキシードはデパートで買った。

 店員に用途を聞かれて「船に乗ります」と答えたら、急に丁寧にされた。丁寧にされることに、まだ慣れない。

 部屋は1人で使うには広すぎた。冷蔵庫に知らない銘柄のワインが入っていた。飲んでいいのかどうか3秒ほど考えた。自分の部屋だ。飲んでいいに決まっている。だが手は出なかった。


 前の人生で、男は1度も船に乗らなかった。海外にも行かなかった。会社と家の往復だけで何10年も過ぎて、退職して、それでも家の中にいた。


 今、足の下で船が揺れている。


「すみません、シャッター押していただけますか?」


 声がかかった。


 振り向くと、女性が1人立っていた。

 同年代か少し下くらいだろうか。派手ではないが、目を引く人だった。使い捨てカメラを持っている。船体を背景に撮りたいらしい。


 どう返す。「ええ、もちろん」か。少し大げさか。「いいですよ」か。軽すぎないか——


「……はい」


 最短で返した。


 カメラを受け取り、シャッターを押した。もう1枚あったほうがいい気がして、もう1度押した。


「2枚も。ありがとうございます」


「……保険です」


 なぜ保険と言ったのか自分でもわからない。

 だが女性は少し笑った。


「お1人ですか?」


「はい」


「私もなんです。1人で乗る人って少ないから、ちょっと安心しました」


 安心。

 自分の存在が誰かを安心させている。あまり経験のない感覚だった。


「あの、お夕食のとき、もしよかったら近くの席にしてもらえないか聞いてみようかと思うんですけど」


 男は一瞬固まった。


 夕食。誰かと一緒に食べる。

 前の人生では、退職後に誰かと食事をした記憶がほとんどない。


 断る理由はない。

 ないが、受ける理由を頭の中で組み立てようとしている自分がいる。理由は要らない。「いいですよ」で済む。済むのに、口が開くまでに二秒かかった。


「……ぜひ」


 女性は嬉しそうに笑った。


「よかった。じゃあ、また今夜」


 また今夜。


 小さな約束だ。

 100日間の旅の、最初の夜の、夕食の席が近い、というだけの約束。


 だが男にとっては、前の人生にはなかったものだった。

 次がある、ということ。

 明日があって、そこに誰かがいるかもしれない、ということ。


 出港のドラが鳴った。


 飛鳥がゆっくりと岸壁を離れていく。紙テープが風に流れ、見送りの人たちが手を振っている。


 男はデッキの端に立って、横浜の街が遠ざかるのを見ていた。


 72歳の自分がこれを見たら、泣くだろうな、と思った。

 あの暖房の効かない部屋で天井を見ていた自分が、今ここに立っている。


 風が強くなってきた。紙テープが全部ちぎれて、港が小さくなっていく。


 男は海を見た。東京湾の水は、お世辞にも綺麗とは言えない。だが太陽の光を受けて、ところどころ銀色に光っていた。


 2億円は、税金で引かれてもまだ十分に残る。

 そのうえ、頭の中には、この先何10年分かの知識がある。全部ではないが、前の人生にはなかった地図がある。


 前の人生で欲しかったものは、金だけではなかったのかもしれない。

 時間。余裕。少し先の予定。

 そして、もしかしたら誰かと笑える夜。


 フォーマルナイトのことを考えた。タキシードをいつ着ればいいのか。着たとしてダイニングの入口でどうすればいいのか。名前を言うのか。言うとしたらどのくらいの声量で——


 まあ、そのときになったら何とかなるだろう。


 何ともならなかったら、あの人に聞けばいい。


 船はゆっくり進んでいく。

 100日ある。

 100日あれば、いろいろなものを見る。いろいろな場所を通る。たぶん、いろいろなことを考える。


 男は小さく笑った。


「……さて、これからどうしようかな」


 誰に聞かせるでもない声だった。


 だがそれは、前の人生では1度も口にできなかった言葉でもあった。

 どうしようもなくなってから考えるのではなく、

 まだ何にでもできるときに口にする「どうしようかな」。


    *


 2003年の宝塚記念で、ヒシミラクルの単勝を1200万円以上購入し、約2億円の払い戻しを受けた男の正体は、今も明らかになっていない。


 マスコミは「ミラクルおじさん」と呼んだ。


 1度目の人生に、ミラクルおじさんはいなかった。

 テレビの前で「荒れるなあ」と呟いていた男がいただけだ。


 伝説は、男が自分で作った。

 50万円と、3つのGIの記憶だけを元手にして。


 その金で何をしたかといえば——


 船に乗った。

 世界を少し見て回ろうと思った。

 今夜の夕食も、少し楽しみだった。


 それだけだ。

 だが男には、その「それだけ」の先が、ようやく見え始めていた。

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