第5話(完)
年の瀬も近くなったある夜。
ノスタルジアは友人総出の大掃除を終えたばかりで、まだ客は入っていない。店内にはぬるく暖房が炊かれ、やわらかい灯りと静寂で満ちていた。
「リトート、例のロクデナシ親父さんはどうした」
「縛ってある」
ラドアンの問いかけに、リトート・フェニックス・ロペスは顎でホール中央をさす。
息子にお仕置きとして椅子に縛りつけられた父チューチョは、鼻をすすって情けなく泣いている。ラドアンはいつも通り、呆れた調子で鼻で笑った。
「さて、煤掃除もそこそこ終わったな。リロイ、もう上がっていいぞ」
ラドアンが声をかけると、舞台袖から元気な返事が響いた。
彼がフロアの照明を落とすと、ステージだけが柔らかなスポットライトに包まれる。舞台中央に現れたのは、金髪をゆるく巻いた少女だった。ライトグリーンのノースリーブ・ワンピース。裾に散らされたスパンコールが、呼吸に合わせて細かく瞬いている。
一瞬の沈黙。リロイは息を整えてから、弓を構えた。奏でられるのは、ケニー・Gによるアレンジバージョンの
バーカウンターの奥では、ラドアン、リトート、そしてシュヒが肩を並べて座っていた。グラスを傾けながら、寄せては返す音の波に身を預けている。
シュヒはステージを見上げたまま、ぽつりとつぶやいた。
「オールド・ラング・サイン——原曲はスコットランド民謡です。ハイドンもベートーヴェンもシューマンも、こぞってこの旋律に伴奏をつけました」
「おおっと。出たな生き字引」
いつもの雑学を訥々と語る。だが、リトートには、シュヒの表情がいつになく穏やかに見えた。
「今日はやけにおとなしいな。相棒くん」
リトートの問いに、シュヒはこくりとうなずく。彼の金色は、舞台上で堂々とヴァイオリンを構える娘を追っていた。照れくさそうに微笑み、
「子供の頃、学会でポスター発表をした時は、いつも養父母が見守ってくれていました。二人に見守ってもらったみたいに、ぼくがリロイを見守るのも……お返しになるかなって」
黒い手袋に包まれた両手を、膝の上でしっかりと握り込んでいる。
相棒は賢い男だ。彼なりに、自分に言い聞かせているのだろう。誰かを救うために命を投げ出すのではなく、誰かの成長を見守る。それもまた、彼なりにようやく辿り着いた、救済の別解なのだと。
リトートは口元をふっと緩め、相棒の肩を軽く小突いた。健全な感傷に浸っていたわけか。危なっかしい善性を暴走させて爆発した男が、ようやく地に足をつけて未来を見ている。そんな相棒の姿が、少しだけ微笑ましかった。
ふと、リトートは椅子に縛られた父を見やった。拘束されながらも、三頭身の体を上下左右に揺らして音楽を楽しんでいる。誰彼構わず『救済』しようとするシュヒのごとく、音楽もまた、聖人からロクデナシまでを平等に包み込むのだ。
リトートが視線を戻せば、幼馴染はグラスに目を落としていた。
「お前も、今日はリロイのために場所を貸してくれてありがとう。感謝する」
「別にいいさ。どうせ暇な店だからな」
ゆっくりと言葉を選びながら、低くささやく。
「……俺もリロイも、音楽を手放したつもりで、結局またノスタルジアに戻ってきたわけだ。彼女が音楽と仲直りできたなら、これほど嬉しいこともないさ」
低い囁きが、ジャズ調の旋律に溶けていく。グラスの中のアイスボールが、ステージライトを反射して宝石のようにきらめいた。
オールド・ラング・サインには歌詞がついている。ロバート・バーンズの詩は、旧友と再会し、思い出話をしつつ酒を酌み交わすといった内容だ。
苦い過去は忘れるべきか、それとも懐かしんで思い出すべきか?
答えはひとつ。忘れないままで、一杯やろう。
過去、現在、未来を円弧で結ぶ、静かな再会の音色。音楽に浸るうち、誰からともなく歌詞を口ずさみ始めた。シュヒの穏やかな声、チューチョの間抜けな鼻歌、ラドアンの低いハミング。リトートもまた、酒の回った喉で歌詞をなぞる。小さな歌声の輪が、ゆっくりと広がっていく。
ヴァイオリンの音が最後の高音を描いて、静かに消えた。拍手も歓声もなく、ただ余韻だけが残る。
リトートはラドアンと顔を見合わせ、それからシュヒに向けてグラスを高く掲げた。
「――おかえり、友よ」
グラスのふちが軽く触れ合い、澄んだ音を立てた。まるで、年の瀬の鐘のように。
Can't Get Enough of Music さかえ @skesdkm
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