第4話

 閉店後のノスタルジアに、哀愁漂う人影がふたつ。

 一人は店主の息子、コードネームは《ラドアン》。今日公演を行ったバンドのTシャツが汗で身体に張り付き、がっしりした体つきを強調している。彼はモップがけをしながら、時折身をかがめてフロアのゴミを拾っていた。騒がしい脳内を冷ますにはちょうどいい単純作業だ。

 カウンターの向こうでは、リロイの小さな影が動いていた。濃い金髪をポニーテールにまとめ、制服の袖をまくり上げて、真面目な様子で椅子の片づけを手伝っている。養父のシュヒが入院中のため、今夜は非番の同僚に預けられた形だ。

 ラドアンはモップを動かしながら、几帳面に椅子を並べる彼女の様子を盗み見ていた。子どものくせに手際がいい。

 掃除も子どものお守りも嫌いじゃない。地味な役回りだが、確実に友人を支えている。

 今宵の公演はアマチュアのジャズバンドだった。リロイは、ステージの隅に置かれた黒いジャズピアノに目を向ける。

「ラドアンさん、ピアノ……音程が少しずれているようですよっ!」

 彼女はどこから取り出したのか、チューニングハンマーを手に取り、かすかに金属音を鳴らした。年齢に似合わぬほど正確な指先の動きだ。

 ラドアンは手を止め、しげしげと彼女を見やる。

「おいおい……どこで調律なんぞ覚えたんだ?」

 そこで養父シュヒの顔が浮かぶ。かれは一家そろって発明狂家系だ。シュヒ自身、理系畑の研究者だったところ、技術力を買われてリトートのバディとして引きずり込まれたと聞いている。娘なら、ピアノの調律くらいできてもおかしくない。浮世離れした光り輝く才能の鞭撻を受けたのだろうか。

 しかしリロイはハンマーを握りしめて、どこか気まずそうにつづけた。ペリドットの瞳がさまよう。

「ボク、一通り楽器を経験していたので。……調律も、お勉強させられました」

「流石の天才少女だ。シュヒに似たな」

 少女らしい顔立ちが、照れくさそうな笑みを作った。

 彼は何とはなしにモップを壁に立てかけ、息を吐きながら天井を見上げた。照明のまぶしさに瞳を細めながら、

「懐かしいな。オレも昔はピアノをやってたんだ。両親の店を手伝わされてただけだけどな」

「今はもうやめてしまったんですか?」

「今は警官だからな。音楽は……もう過去の話だ」

 しばらく沈黙があった。彼女の細い指がハンマーを所在なさげに弄んでいる。年端のいかない子どもに気を使わせてしまったかと、ラドアンは胸の内で苦笑した。

 ラドアンは少年時代からお巡りさんになりたかった。かれを突き動かしたのは、美しき理想ではない。むしろ、ニューアトランティスという巨大な都市を回す小さなねじになることを望む、諦観にも似た覚悟だった。夢をかなえた今となっては、交通違反切符を切り、酔っ払いを片づけ、職務質問で薬物中毒者を洗い出す毎日に奇妙な安寧を覚える。

 好きでもない音楽を選ばなくて良かったと本気で思う。華やかなのはうわべだけ、個人の才能にいやでもスポットライトがあてられる残酷な世界。

 そう説明しようとした矢先、リロイがぽつりと呟いた。

「ボクも、音楽なんて好きじゃありませんでした」

「だが、ヴァイオリンの名手なんだろ?」

 リロイは顔もあげず、左右にかぶりをふる。

 一度ハンマーを置き、また拾い直してから、ようやく重い口を開く。

「ボクのお兄ちゃんはヴァイオリンが得意だったんです。ボクはお兄ちゃんのマネをして、両親を喜ばせたかっただけ。才能があるって言われて、やめることもできませんでした。結局、両親とは最後まで上手くいかなくて……」

「そうか。野暮な質問だった」

 彼女のペリドットの瞳が、暗いフロアを見つめる。一旦感情が溢れたら止まらない。堰を切ったようにまくし立てた。

「音楽なんて、あの人たちが押し付けた手枷ですっ。ちょうど、リトートさんのお父さんに楽器を売れって頼まれて……。チャンスだと思って、こっそり楽器を売り払う密約をかわしました。少しも惜しくなかった」

 ――あのロクデナシ親父。借金で首が回らなくなって、ついに小学生の楽器にまで手を出しやがった。

 ラドアンは瞳を小さく見開いたが、すぐに目を伏せた。後で息子とともに締め上げるしかあるまい。

 しかしラドアンは、ステージの隅に置かれたフルサイズヴァイオリンを指さす。リロイの私物だ。

「でも、結局中身は売らなかったんだろ?」

「はい。リトートさんに慰問演奏をしろと言われて……。ボクの嫌いな音楽が、ボクの大好きなシュヒさんを癒している。穏やかな風景が忘れられなくて……ケースだけを渡したんです」

 リロイの指が、ピアノの弦を正しい音へと引き戻していく。

 音楽が嫌いなのではなく、音楽を押しつけられた関係が嫌で、切り離せると思って楽器を売ろうとした。けれど音楽自体は手放せなかった。そんなところか。自分と似ている、とラドアンは思った。

 ラドアンはわざわざ照明を落とし、機材が残ったままの薄暗いステージに上がった。調律されたばかりのピアノの前に腰を下ろし、指を鍵盤に滑らせた。人差し指でブルーノートをなぞる。

「昔、どうしても弾けなくて拗ねてた曲があったんだよな。でも、不思議なもんで……今になって自然とその曲ばかり弾いちまう。一番苦手だった曲が、一番のおはこになっちまった」

 視界の端でリロイはおもむろに顔を上げ、青年の横顔を見つめた。

 黒い指先が、白鍵と黒鍵を交互に叩く。指先から流れ出したのは、物憂げなジャズの旋律。あえて半音ずらした音の揺らぎのかなしさが、正しい音よりも深く胸に突き刺さる。

「消せない過去ですね」

「……そうかもな」

 彼はわずかにためらってから、肯定だけを返した。

 ジャズのメロディが内なる感傷を呼び覚ます。否定し続けていても、彼の感性の根底には今も音楽が脈打っている。先日、幼馴染たちがグルーヴに乗る姿を眺めて、心のどこかで「やっぱりいいな」と思ってしまった。認めざるを得なかった。

 一曲を弾き終えて、ラドアンは鍵盤を叩く手を止めた。

「なに、無理に嫌うことはないさ。やらされてた音楽も、好きだった音楽も否定できないんだろ。今の自分にとっての『音楽』の居場所を、探してみてもいいんじゃないか?」

 ラドアンはステージの上からちいさな観客を見下ろす。手枷だと思っていたものも、時間を置いて見てみればブレスレットに変わっているかもしれないから。

 少女は頷き、音の行く末を確かめるように微笑んだ。

「なら……もう少しだけ、弾いていてくれますか? ラドアンさん」

 返事の代わりに鍵盤を叩いた。

 リロイはモップを手にステージを見上げ、ゆっくりと体を揺らし、ジャズの音色に乗っていた。

 店に鍵をかけて出ようとなったころ、リロイの前に通話パネルが灯った。

 映ったのは、ブルネットの女医。シュヒが病院から消えたという知らせに、彼女の顔が一気に白くなる。

「ウソですよねっ! 早くシュヒさんを探しに行かないとっ……!」

「マジかよ。リロイ、じっとしてろ。荒事は大人に任せて……」

 ラドアンが銃の残弾を確かめ、駆け出そうとしたその時。

 突然、入り口ドアの向こうから声が響いた。

「ちょーっと待った!」

 二人が驚いて振り返ると、入口に立っていたのは全裸の馬鹿――リトートだった。男らしく凛々しい顔立ち、鍛え抜かれた派手な肉体美を惜しげもなく晒し、股間には申し訳程度にジャケットを巻きつけている。いかにもギーク・デザインのジャケットは、どうやらシュヒの私物らしい。

 彼の奥からは、アジア系の細身の青年・シュヒがおずおずと中をうかがっていた。なぜか黒焦げになって、ふわふわの天然パーマは煤だらけの綿あめになっている。

 リトートはずけずけと階段を降り、声を張り上げた。

「おいザップ、聞いたぞ。ノスタルジア、地上げ屋に屈して閉めるって?」

「本名で呼ぶな。ラドアンって呼べ」

 ラドアンは銃から指を離し、幼馴染に冷めた視線を送った。

「それよりリトート、なんで全裸なんだ? うちにドレスコードはないが、裸で入店していいとも言ってねえぞ」

「はーっはっは! 聞いて驚け! 俺はさっきまで闇オクにコレクターズ・アイテムとして出品されていたんだ。ちゃちゃっと縄抜けして、主催者どもの拠点はシュヒが爆破してきたから安心しろ」

 恐らく事実を説明しているのだろうが、因果関係が散らかりすぎて意味がわからない。

「バカみたいな生き方だないつもいつも……」

 ラドアンは半眼になった。驚きよりも呆れが勝る。この男がまともな格好で報告に来るはずがないのだ。どうせ相棒と二人で馬鹿をやってたのだろう。

 全裸の後ろから、シュヒがおずおずと声をかける。

「リトートさん、店を閉めないように説得するきっかけなんて、本当にあるんですか?」

「あるさ。ここにひとつな!」

 全裸のリトートがどこかから取り出したのは、一つの古びたカセットテープだった。プラスチックケースはすっかり黄ばんでいて、ラベルには手書きの文字が残っている。

「なんですか? というかどこから取り出したんですか? そのテープは……」

 シュヒが半眼で見つめている。

 ラドアンは眉をひそめてテープを受け取り、目を見開いた。幼馴染はわが意を得たりとばかりにうなずく。

「まさか、こいつ……」

「見て驚け! ライトニングの拠点で拾ったんだ。ノスタルジアの地上げの時に持ち去られたんだろうな。覚えてるか? 昔、俺のために、お前が録音してくれたやつだよ」

 昔から、ロクデナシどものせいでリトートの家は貧乏だった。音楽サービスにも入れない、ライブにも行けない、流行歌も何一つ知らない。そのざまを憐れむのも嘲笑うのも抵抗があり、代わりに彼の好きな曲を録音して渡してやったのだ。ソウルのカバー。

 リロイは興味深そうに目を輝かせる。

「ラドアンさん、歌ってたんですかっ?」

 耳と頬に熱が集まっていると自覚しながら、ラドアンはテープを見つめた。

「いや……まあ、当時は何でもかんでも真似したくなる年頃でな。廃材置き場から機材を拝借して、一本録ったんだ」

「聴いてみたいです」とシュヒが笑う。

 ラドアンは少し躊躇いつつも、三人から向けられた期待の視線を断ち切ることもできなかった。嘆息し、店の奥から古いデッキを持ってきた。テープを挿入し、再生ボタンを押す。

 かすれた音とノイズ。それでも少年の歌声は、驚くほど澄んでいた。時折音程を外しながらも、友人のためにまっすぐに歌っている。

「……やれやれ、我ながら下手くそだな」

「のびのびした歌声で、素敵ですねっ!」

 子どもの純粋な感想に、ラドアンは目を伏せた。

 切り離したつもりの過去に、ふとした拍子に支えられている。音楽も、本名も、思い出も。縛られたくはないが、完全に捨てるほど嫌いでもない。まるで、目の前の腐れ縁の友人たちのように。

 テープの音楽はあえて止めずに、突き放す。

「ノスタルジアを閉めるなんて、いつ言った。俺たちは警官だろ? 違法な地上げ屋が来たら逮捕するまでさ」

「なにっ? 閉めるつもりはないのか?」

「勝手に勘違いするな。屈する気なんざ、はなからなかったさ。両親の資産はおんぼろライブハウスくらいだからな、きっちり相続させてもらわなきゃな」

 ラドアンはいつも通り皮肉っぽい口調で言い、肩をすくめる。

 別に本当のことを言う義理はない。どうせ、言わなくても伝わってしまうのだから。

「結局人間ってのは、与えられた役目を放り出すのが下手くそなのさ。オレもその一人だ」

「……お前、ほんとに昔から素直じゃないな。わからん奴」

「お互い様だろ。オレはオマエの自己主張の激しさの方がよほど理解不能だ」

 少なくともラドアンには、公道を全裸で歩く図太さなど確実にない。

 ラドアンはその場を離れる口実を探して、ライブハウスを見回す。少し離れた壁に立てかけていたモップを掴み、雑に掃除用具入れに入れた。

 すると、今度はシュヒが小さく咳払いする。彼は手に持っていた黒いケースを持ち上げた。明らかに高価な代物だ。

「もうひとつお届け物です。リトートさんが、闇オークションの会場でヴァイオリンのケースを見つけたそうです。ネームタグがついてるけど、リロイのだよね?」

 ペリドットを思わせる瞳が大きく見開かれ、顔色が青ざめていく。

「それ……ボクの……ヴァイオリンケース……! どうしてシュヒさんが……」

 声が震えている。リロイは秘密裏に手放したつもりだったのに。

 しかしシュヒは、色白の顔立ちに穏やかな微笑みを浮かべてみせる。

「たまたま拾ったんだよ。あんなところに転がってて驚いちゃった」

「はぅ! ご、ごめんなさい……」

 リロイはしょんぼりと肩を落とした。受け取ったケースにおずおずと手を伸ばし、小さな指先で革を撫でた。

 シュヒは腰を落とし、養女の髪を優しくなでる。それ以上詮索しなかった。真相を知っていて庇っているのか、本当に知らないのかは読み取れない。どちらにせよラドアンは、親子の再会に水を差すつもりはなかった。

「病室で慰問演奏してくれてありがとう。ぼくのバイタルが正常値に戻って、こうして生きていられるのも、きっとリロイのおかげだよ」

「そ、そんな……でも、お役に立てたなら……よかったですっ」

 リロイはくすぐったそうに目を細めた。

「ぼく、きみの音が好きだな。今度はまた、病院以外で聞かせてね」

 ペリドットの瞳がゆっくりと伏せられる。子供らしいふっくらした頬が赤く赤く染まって、空になったヴァイオリンケースをぎゅっと抱きしめていた。まるで寝る前にぬいぐるみに縋りつく子ども。

 ラドアンは、その様子を黙って見守っていたが、やがて口を開いた。

「なあリロイ。もし、まだ少しでもヴァイオリンを弾きたい気持ちがあるなら――ステージで、弾いてみないか?」

 音楽は、人と記憶と関係をつなぐもの。ノスタルジアを、これからも音楽が集う場所にしたい。彼は改めてそう実感していた。

「ほう。粋な誘いをするじゃないか」

 全裸が余計な口をはさんできたので、ラドアンはまた皮肉に笑って目をそらした。本音なんか、誰にも言ってやらない。

 ノスタルジアに響く未来の音色を想像して、彼はわずかに口元を緩ませた。

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