第9話「処方箋」
足跡の写真は六枚ある。三枚目が一番鮮明だった。
瀬尾はノートパソコンの画面を見ながら、マグカップの縁に唇をつけた。コーヒーは冷めていた。二十四センチの輪郭が、フラッシュの光の中に浮かんでいる。スニーカーの溝。つま先の丸み。量販店で売っているような、特徴のない靴底。
ノートを開いた。昨日書いた候補のリストがある。千鶴。恵美。水谷。あるいは、まだ名前を知らない誰か。
千鶴に通話記録をぶつけるのは早い。喫茶店で答えずに立ち去った千鶴の背中を思い出す。あの場面の後にさらに追い詰めれば、二度と会えなくなる。水谷は電話番号もSNSも見つからない。消去法で残るのは——橋本恵美。葬儀で一度、顔を合わせた。参列者全員に同じ温度で「ありがとうございます」と返していた女性。あのときの違和感が、まだ引っかかっている。
瀬尾は画面を閉じ、電話を取った。橋本邸の番号を押す。三回のコールで出た声は、葬儀のときと変わらなかった。
応接間は窓が大きく、午後の光が薄いカーテン越しに入っていた。
ソファは革張りで、座ると身体が少し沈んだ。テーブルの上にコースターが四枚、等間隔に並んでいる。花瓶に生けてあるのは白い花で、種類はわからなかったが、水は澄んでいた。手入れされている。事件から何週間も経つのに、この家は人が暮らしている匂いがした。
恵美がティーポットを持って戻ってきた。白い磁器のカップに紅茶を注ぐ手つきが淀みない。湯気が窓からの光を横切って、すぐに消えた。
「わざわざお越しいただいて」
恵美は瀬尾の向かいに腰を下ろした。背筋が伸びている。髪はきちんとまとめられ、服装は地味だが生地に光沢があった。葬儀のときと同じだ。整っている。崩れたところがない。
「村瀬さんの弁護を担当しております、瀬尾です。事件について、奥様にもお話を伺えればと思いまして」
「ええ、もちろん。お力になれることがあれば」
恵美はカップを持ち上げ、一口飲んだ。置くときにカップの取っ手がコースターの端にちょうど収まった。
「事件の夜のことを、聞かせていただけますか」
「事件の夜」
恵美はその言葉を繰り返した。繰り返しただけで、感情は乗らなかった。
「主人のことは、私が一番よく知っています。あの人は——仕事熱心な人でした。夜遅くまで書斎にいることも珍しくなかった。あの日もそうだったのだと思います」
瀬尾は黙って聞いた。恵美の語り口は穏やかで、途切れることがない。質問に答えているようで、自分の言葉で場を埋めている。瀬尾が口を挟む隙がないのではなく、挟む必要を感じさせない話し方だった。
「書斎は二階の奥にあるんです。私の寝室からは離れていますから、何時まで仕事をしているのか、いつ寝たのか、あまり把握していないことが多くて」
恵美は窓のほうに目をやった。カーテンの隙間から庭の植え込みが見える。手入れされた低い生け垣だった。
「亡くなったと聞いたとき、不思議と驚かなかったんです。悲しいというより——運命だったのかもしれない、と思いました」
運命。瀬尾はカップに手を伸ばし、紅茶を一口含んだ。夫を殺された妻の口から出る言葉ではない。だが恵美の表情に不自然さはなかった。
「ご主人とのご関係は」
「普通の夫婦でした」
恵美の返答が速かった。一拍の間もなく、用意されていたかのように。
「長い結婚生活ですから、新婚の頃のようにはいきません。でもそれが普通でしょう」
紅茶の表面に、窓の光が細い線を引いている。恵美はカップの縁に指を添えたまま、持ち上げなかった。
「あの夜、ご自宅にいらっしゃったんですか」
「ええ。ずっと家におりました。ただ——」
恵美がカップをソーサーに戻した。音がしなかった。
「睡眠薬を飲んで寝ていたので、何も知らないんです。朝になって、警察の方が来て初めて知りました」
「睡眠薬を」
「ええ。もう何年も飲んでいます。眠れない体質で」
恵美は立ち上がり、部屋の隅にある飾り棚のほうへ歩いた。引き出しを開ける。中に小さな箱がいくつか見えた。薬の箱だった。白い箱に青い文字。処方薬のパッケージが、引き出しの中にきちんと並んでいる。
「かかりつけの先生に出していただいて。飲まないと、まったく眠れないものですから」
恵美は引き出しを閉め、ソファに戻った。何でもないことのように話している。瀬尾は紅茶を一口飲んだ。ダージリンだった。香りが鼻に残る。
「お辛いですね。長く飲んでいらっしゃると、身体への負担もあるのでは」
「慣れましたから。飲まないと一睡もできないのと、薬で眠るのと、どちらがましかというだけの話です」
恵美の口調に苦笑が混じった。口元がわずかに緩み、すぐ戻った。
「あの夜は、何時頃飲まれましたか」
「十時頃には飲んだと思います。いつもそのくらいですから」
十時。瀬尾の頭の中で数字が並んだ。村瀬が橋本邸を訪問したのは二十二時から二十二時四十分。恵美が十時に睡眠薬を飲んだのなら、村瀬が来た時間帯にはまだ薬が効き始める頃だ。玄関のチャイムが鳴れば気づくのではないか。
その疑問は口にしなかった。代わりにスマートフォンを取り出し、メモアプリに打ち込んだ。
22:00 睡眠薬
恵美がこちらを見ていた。画面に何を打ったか見えたかもしれない。だが恵美は何も言わず、紅茶に目を戻した。
「村瀬さんとは、面識がおありでしたか」
「いいえ。名前も存じませんでした。主人の会社の関係の方だと、後から聞きました」
「ご主人の会社のことは、あまりご存じなかった」
「主人は家で仕事の話をしない人でしたから。社員さんのことも、取引先のことも、ほとんど聞いたことがありません」
恵美はカップを持ち上げた。一口飲み、ソーサーに戻す。その一連の動作に乱れがない。日常を繰り返すように、正確に。
「そうですか」
「村瀬さんのこと——きちんと弁護してあげてくださいね」
恵美の声のトーンが変わらなかった。カップの中の紅茶が、窓からの光で琥珀色に透けていた。
「奥様。睡眠薬を飲まれた後、物音などは聞こえませんでしたか。たとえば来客の音とか」
「いいえ。飲むと、朝まで目が覚めないんです。何も聞こえません」
恵美はまっすぐ瀬尾を見て答えた。目が笑っていないことに、瀬尾は気づいた。口元は穏やかなのに、目だけが別の温度をしている。葬儀のときもそうだった。
「お時間をいただきまして、ありがとうございました」
瀬尾が立ち上がると、恵美も立った。玄関まで見送られる間、廊下の壁に家族写真が一枚もないことに気づいた。リビングにも、応接間にも。飾り棚には薬の箱が入っていて、写真立ては一つもなかった。
「何かあれば、またいつでも」
恵美は玄関の框に立ったまま、瀬尾が門を出るまで見ていた。
バス停のベンチに座り、ノートを開いた。
恵美の発言を時系列に並べる。十時に睡眠薬を飲んだ。飲むと朝まで目が覚めない。何も知らない。
監視カメラの空白は二十三時十分から零時十分。村瀬の訪問は二十二時から二十二時四十分。ノートの左側にそれらの数字を縦に並べた。
22:00 恵美、睡眠薬を服用
22:00〜22:40 村瀬、橋本邸を訪問
23:10〜0:10 監視カメラの空白
恵美が十時に薬を飲んで眠ったのなら、二十二時の来客に気づかなかったことは説明がつく。二十三時以降の出来事も知らないことになる。つじつまは合う。
だが。
瀬尾はペンを止めた。バスがまだ来ない。向かいの歩道を犬を連れた老人が通り過ぎた。
恵美は「十時頃には」と言った。「頃」。正確な時刻ではない。睡眠薬を毎日飲んでいる人間が、飲んだ時刻を覚えていないのは自然だ。だが「十時頃」が二十二時ちょうどなのか、二十一時半なのか、二十二時半なのかで意味が変わる。
村瀬が橋本邸に来たのは二十二時。チャイムを鳴らしたかどうかはわからない。だが来客があったのなら、物音はあったはずだ。恵美はそれに気づいたのか、気づかなかったのか。
ノートに書いた。
恵美——「何も知らない」。村瀬の来訪も?
バスのエンジン音が聞こえた。ノートを閉じて鞄に入れた。立ち上がりながら、恵美の目を思い出していた。口元は穏やかで、目だけが別の温度をしていた。あの温度が何なのか、まだわからない。
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完全な自白 神田要 @indigonightism
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