第8話「もう一つの足跡」

通話記録のA4用紙は、一晩経っても机の上にあった。


深夜一時三分。発信。村瀬健一。四十七秒。基地局——橋本邸付近。瀬尾はその行を何度も読んでいた。蛍光灯の下で紙の表面が白く光り、印字された数字の列が目に貼りつく。コーヒーカップの底に茶色い輪が乾いている。いつ飲み終えたのか覚えていない。


千鶴は事件の夜、自宅にいなかった。


ペンを取り、ノートに書こうとした。だが何を書けばいいのか、まだ定まらない。千鶴に直接聞くか。「あの夜、橋本邸の近くにいましたね」と。瀬尾は喫茶店での千鶴を思い出した。「事件の夜」と聞いただけで手が止まり、答えずに席を立った。鞄の持ち手を白くなるまで握っていた指。コートの裾がテーブルの角に触れた音。「ごちそうさまでした」という、場にそぐわない丁寧な言葉。あの場面の後に通話記録をぶつけたら、千鶴は二度と会ってくれないだろう。


基地局情報が示すのは「橋本邸付近」であって「橋本邸」ではない。半径数百メートルの円。その中に千鶴がいたという事実だけでは、千鶴が橋本邸に足を踏み入れたことの証明にはならない。深夜一時に橋本邸の近くにいた理由は他にもありうる。通りかかっただけかもしれない。だが——深夜一時に、父親に電話をかけながら。


瀬尾は通話記録を裏返して伏せた。人を追い詰める前に、物を調べる。弁護士として当然の順序だった。感情で動けば失う。喫茶店で千鶴と向かい合ったとき、自分の無力さを見せてしまった。あの瞬間、千鶴の目が初めてこちらを向いた。それを消費してはいけない。


机の引き出しから事件の現場検証資料のコピーを引っ張り出した。角が折れたクリアファイルの中に、警察の書式で印刷されたA4の束がある。初めて読んだときは村瀬の自白と調書の照合に集中していて、周辺情報は流し読みだった。今度は違う目で読む。


書斎の検証。玄関の検証。庭の検証。ページを繰った。資料の七ページ目。駐車場の検証記録。「複数の足跡あり。うち一組は容疑者・村瀬のものと判断。他は住人および関係者のものと推定」。それだけだった。写真は一枚も添付されていない。採寸の記録もない。自白があり、指紋が一致し、動機も明確な事件で、駐車場の足跡を丁寧に調べる理由がなかったのだろう。


瀬尾はその行を指でなぞった。「推定」。判断ではなく推定。確認していないということだ。


ノートを開き、新しいページの上部に書いた。


駐車場——足跡。複数。村瀬以外は未確認。


ペンを置いて腕時計を見た。午前十時。窓の外は曇っていたが、雨は降っていなかった。鞄の中にメジャーがあることを確認して、事務所を出た。


橋本邸は住宅街の奥にあった。


駅からバスで十五分、バス停から歩いて五分。以前、監視カメラの確認で来たときは管理会社の安西に案内されて駐車場の映像機器だけを見て帰った。今回は一人で来た。駐車場そのものを見に来た。


門は施錠されていなかった。事件後、橋本邸は無人のままだと聞いている。門を押すと金属の軋む音がして、住宅街の静けさの中で妙に大きく響いた。


門から右手に折れると、車二台分のスペースがある。コンクリートの地面に、屋根のひさしが半分ほどを覆っている。車は置かれていない。油の染みが二箇所、コンクリートに黒い模様を作っている。


瀬尾は屋根の境界線を目で追った。ひさしの外側——雨が直接当たる部分は、事件から時間が経ち、何も残っていなかった。コンクリートの表面は乾いて白っぽく、人が歩いた痕跡は消えている。枯れ葉が隅に吹き溜まっていた。


ひさしの下に入った。地面が暗い色をしている。雨が直接当たらない分、汚れや痕跡が残りやすい。しゃがんで地面を見た。膝の上に鞄を抱えたまま、コンクリートの表面に目を凝らす。


最初に見つけたのは、はっきりした靴底の跡だった。大きい。革靴の底の模様が読み取れる。おそらく男性のもの。事件当夜のものかはわからない。ただ、検証資料に「村瀬のもの」と書かれた足跡はこれかもしれなかった。


その隣に、もう一つあった。


薄い。輪郭が曖昧で、注意して見なければ汚れの模様に紛れる。立ったままでは見落とす。だがしゃがんだ姿勢で、地面に近い角度から見ると、靴底のパターンが浮かび上がった。溝の間隔が狭い。スニーカーか、それに近い靴底。そして——明らかに小さい。


瀬尾はスマートフォンを取り出した。フラッシュをオンにして、三枚撮った。角度を変えてもう二枚。影の出方で靴底の溝がはっきり見えるポジションを探して、地面に膝をついた。スカートの膝のあたりにコンクリートの粉がついた。


鞄からメジャーを出した。足跡のつま先から踵までを測る。メジャーの先端を足跡の踵に合わせ、つま先まで伸ばす。目盛りを読んだ。


二十四センチ。


瀬尾はメジャーを巻き戻しながら、村瀬の拘置所の記録を思い出した。身体検査の項目に靴のサイズがある。二十七センチ。三センチの差。同一人物のものではありえない。


もう一度、足跡を見た。薄れかけてはいるが、消えてはいない。ひさしが雨を遮ったおかげで、ここだけが残った。検証資料には「住人および関係者のものと推定」と書いてあった。推定しただけで、誰の足跡かを確認した記録はない。


隣の大きな足跡と並んでいる。同じ方向を向いている。駐車場の奥——玄関の方向へ。


瀬尾は立ち上がり、玄関のほうを振り返った。門から駐車場を通って邸内に入るルート。橋本邸の玄関は駐車場の奥にある。この足跡の主は、門から入って玄関に向かっていた。帰りの足跡は見当たらない。


携帯電話が鳴った。事務所に登録している回線からの営業電話だった。出ずに切った。画面に時刻が映った。正午を少し過ぎている。二時間近くここにいたことになる。


駐車場を出る前に、もう一度しゃがんで足跡を見た。二十四センチ。女性のサイズだった。スマートフォンで最後にもう一枚、足跡の全体が入る引きの写真を撮った。


事務所のデスクに戻ったのは午後一時過ぎだった。


スカートの膝についたコンクリートの粉を手で払い、椅子に座った。コンビニで買ったおにぎりを脇に置き、ノートパソコンを開いた。スマートフォンから写真を転送し、画面に表示した。六枚。三枚目が一番鮮明だった。斜めからフラッシュが当たり、靴底のパターンが浮き出ている。スニーカーの溝。つま先の丸み。靴底の模様は量販店で売っているような、特徴のないデザインだった。


隣の大きな足跡——おそらく村瀬のもの——と並べて見ると、サイズの違いは一目でわかった。画面を拡大した。二つの足跡は同じ方向を向いている。玄関へ向かう方向。同じ時間帯に並んで歩いたのか、それとも別々のタイミングで同じルートを通ったのか。写真からはわからない。


ノートを開いた。駐車場の項目の下に書き足した。


足跡: 24cm。村瀬: 27cm。別人。形状はスニーカー系、女性サイズ。


ペンが止まった。


千鶴の通話記録のページに戻った。基地局情報。橋本邸付近。深夜一時三分。ノートの余白に、昨日書いた行が残っている。「千鶴——事件の夜・深夜1:03、父に電話。基地局情報: 自宅ではない。橋本邸付近」。


監視カメラの空白は二十三時十分から零時十分。足跡がいつ残されたものかは特定できない。だがひさしの下に残っていたということは、直近の雨以降に踏まれたものだ。事件前後の天候を調べる必要がある。


瀬尾はノートパソコンで過去の天気を検索した。前日の午後から降り始めた雨が、夜半に止んでいる。事件当日は晴れ。翌日以降も三日間、雨は降っていない。


前日の雨が止んだ後、事件当日のどこかで踏まれた足跡。雨が洗い流した後の地面に、新しく刻まれた痕跡。


ノートの別のページを開き、時系列を書いた。


前日夜半: 雨止む。

22:00〜22:40: 村瀬が橋本邸を訪問。

23:10〜0:10: 監視カメラの空白。

1:03: 千鶴が父に電話(基地局: 橋本邸付近)。


村瀬の足跡は訪問時のもので説明がつく。では二十四センチの足跡は。


カメラが止まっている間に、誰かが駐車場を通った可能性がある。あるいは、カメラが動いている時間帯に通ったが、駐車場のカメラの画角から外れていた可能性もある。安西から受け取った映像データを思い出した。カメラ復旧直後のフレームに映っていた人影。駐車場の端を横切っていた。


どちらにせよ、この足跡の主を警察は特定していない。検証資料の「住人および関係者のものと推定」という一行で片付けられている。村瀬が自白し、指紋も動機も揃っていた。


おにぎりの包装を破いた。一口食べたが、味がよくわからなかった。画面に表示したままの写真を見た。二十四センチの輪郭。薄いが、確かにそこにある。


瀬尾はノートに戻り、足跡の項目の横に赤ペンで数字を書いた。


24。


村瀬は二十七センチ。この足跡の主は村瀬ではない。女性のサイズ。千鶴か。恵美か。橋本不動産を突然辞めた前任秘書の水谷か。あるいは、瀬尾がまだ名前すら知らない誰かか。


ペンを置いた。窓の外で鳩が鳴いている。おにぎりの残り半分を食べて、包装を丸めてゴミ箱に投げた。入らなかった。拾わずに、もう一度写真を見た。


二十四センチ。千鶴の靴のサイズを、瀬尾は知らない。知らないまま、写真の中の輪郭が千鶴の足に重なりかけていた。

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