第五章 鼻歌
翌朝、駅へ向かう道で、鼻歌を歌っていた。
気づいたのは、信号待ちで隣に立った小学生くらいの子どもが、こちらを見上げたときだった。私は口を閉じた。子どもは何も言わず、また前を向いた。
何を歌っていたのか、確かめなかった。
あの旋律だったかもしれない。別の何かだったかもしれない。確かめたら、何かが変わる気がした。変わってほしくなかった。変わってほしい気もした。どちらでもよかった。
信号が青になった。
* * *
その週末、実家に電話した。用事はなかった。ただ、久しぶりに声が聞きたかった。
母と少し話した。父は庭仕事をしていると言っていた。実家の話を聞きながら、リビングのピアノのことを思い浮かべた。まだあるだろうか。あるとしたら、誰も弾かないまま七年が経ったピアノが、どんな状態でいるだろうかと思った。
「そういえば、ピアノ、まだある?」
思っていたより素直に言葉が出た。
「あるよ、もちろん。調律、去年したよ。なんで?」
「別に。ちょっと気になって」
母は何も言わなかった。聞き返しもしなかった。それがありがたかった。
電話を切ってから、少し考えた。帰省しようかと思った。帰省して、ピアノを弾こうとは、まだ思わなかった。ただ、触ってみてもいいかなとは思った。
小さな違いだが、私には大きかった。
* * *
あれから何度か公園に行った。音が聴こえる夜もあったし、聴こえない夜もあった。
聴こえない夜は、ただ座って都市の音を聴いた。それでも悪くなかった。むしろ、どちらの夜もそれぞれ好きになっていた。音がある夜は音を聴く。音がない夜は静けさを聴く。どちらにも、何かがあった。
あの音が何だったのか、今でも知らない。星から降ってくるのか、この公園に何かが残っているのか、私の頭が作り出しているのか。わからないし、調べようとも思わなかった。
わからないままでいい、と思えることが、少し前の私にはなかった。
夏が終わりに近づいていた。朝の空気が、少しだけ変わっていた。
今日も駅までの道を歩きながら、私はまた鼻歌を歌っていた。今度は途中で気づいたが、止めなかった。誰かに聞かれても、構わなかった。
信号が青になった。私は歩き出した。夏の朝の光が、ビルの隙間から差し込んでいた。
星の音 @tumugi-26
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