乾杯
夜になりきる前の街は、たいてい少しだけやさしい。
川沿いの遊歩道には、昼のぬくもりがまだかすかに残っていて、風はその上を静かに撫でていく。水面には街の灯りが細く揺れ、向こう岸のアパートの窓が、誰かの生活を遠くから知らせていた。
花屋は店じまいの途中で、並べられたバケツの中の白い花が薄闇に浮かんでいる。橋の下では、遅い電車の音が鈍く反響し、それが通り過ぎると、また夜が何事もなかったように戻ってくる。
明日、この街を離れる。
それだけのことなのに、世界は妙に輪郭を持って見えた。
何度も歩いた道、見慣れた信号、川に沿って並ぶベンチ、古い手すりの冷たさ。失うわけではない。ただ遠くなるだけだ。なのに人は、遠くなるものに対して、失うものと同じように胸を痛める。
二人は並んで歩いていた。
肩が触れるほど近くはない。けれど、意識しなければいけないほど遠くもない。その距離が、二人の時間の長さをそのまま表しているようだった。
会話は途切れ途切れだった。
何かを言えば、それが別れにふさわしい言葉になってしまいそうで、どちらも少し慎重になっていた。だから、ごくどうでもいい話だけを選んだ。昼間の風の強さとか、駅前の店がなくなるらしいとか、今年の春は少し遅いとか。
そういう話のほうが、かえって切実だった。明日になればもう、そんなくだらないやりとりのほうが簡単にはできなくなる。
広場の手前で立ち止まり、自動販売機に小銭を入れた。
金属音がして、転がり落ちてきた缶を二本拾い上げる。一本が差し出される。
「飲む?」
受け取る。缶は冷たく、表面には細かい水滴がついていた。
「何に乾杯するの」
そう聞くと、相手は少し考えるふりをした。
それから、どこか笑っているような、でもごまかしていない目でこちらを見る。
「あなたのこれからに」
あまりにまっすぐで、返す言葉がすぐには見つからなかった。
プルタブを引く。炭酸の抜ける音が小さく立ちのぼり、春の夜に消える。
「抽象的だね」
「良い言葉が見つからないだけ」
「じゃあ、ちゃんと考えて」
「考えてるよ」
缶を片手に、相手は川の流れへ視線を移した。
「あなたには、なるべくたくさん良いことがあってほしい」
それは、よくある励まし文句のようでいて、実際にはもっと個人的な響きを持っていた。
成功してほしい、とか。夢をかなえてほしい、とか。もちろんそういう意味も含まれているのだろう。けれど、その一言の中には、それだけでは済まない何かがあった。もっと生活に近く、もっと静かで、もっと本質的なもの。
「良いことって?」
「ぐっすり眠れる日とか」
「それ、ずいぶん地味だね」
「大事だよ」
「まあ、そうだけど」
「朝起きて、今日もそんなに悪くないって思えることとか。無理しないで笑えることとか。自分をすり減らさないで誰かにやさしくできることとか」
思わず、缶を持ったまま小さく笑った。
相手はときどき、こういうふうに拍子抜けするほど正確なことを言う。
新しい街へ行くことを、楽しみにしていないわけじゃなかった。
むしろその逆で、楽しみにしているからこそ怖かった。行きたかった場所へ本当に行けてしまうと、その先ではもう言い訳ができない。環境のせいにも、タイミングのせいにもできなくなる。残るのは、自分が何者かということだけだ。
その事実は、自由というより、審判に近い顔をして迫ってくる夜がある。
たぶん、その不安を、相手はずっと前から知っていた。
「あなたは、頑張りすぎるから」
唐突にそう言う。
「そうかな」
「そうだよ」
「そんなことない」
「あるよ。自覚がないところまで含めて」
言い返せなくて、少しだけ視線を落とした。
遊歩道のタイルの隙間に、春先の雑草が細く生えている。踏まれても抜かれず、目立ちもしないのに、妙に強い。
「だからさ」と相手は言った。
「休んでほしい。ちゃんと」
その言葉は、なぜだか予想していた以上に胸に響いた。
頑張れと言われることには慣れている。期待されることにも、応えるふりをすることにも。けれど、休めと言われると、急に自分がひどく無防備になる。見透かされたようで、少しだけ泣きたくなる。
「成功するとかしないとか、その前に」と相手は続けた。
「ちゃんと食べて、しっかり眠って、たまには何もしないでいてほしい」
川の水は暗く、ゆっくり流れていた。
水面に映る光は揺れているのに、その揺れ方には妙な落ち着きがある。壊れそうで壊れない、夜の中の小さな秩序。
「あなたはさ」
少し黙ってから、相手はまた口を開いた。
「多分、向こうでも誰かのことを救うと思うよ」
「大げさだな」
そう返したものの、声には自分でもわかるくらい力がなかった。
「救うっていうと大げさだね。変える、かな」
「そんなふうに見える?」
「うん。あなたは気づかないまま、人の人生の角度を少し変えるタイプ」
風が吹いた。
髪が頬にかかり、それを指で払う。そんな仕草を、相手が見ているのを感じる。あからさまではないのに、見られているとわかる視線。長い時間の中でしか生まれない、静かな親密さだった。
それは恋と呼べるのかもしれないし、まだ呼ばないままの何かだったのかもしれない。
けれど名前は、この夜にはあまり重要ではなかった。大事なのは、ここに確かに好意があり、それが相手の未来を狭めるのではなく、むしろ広げようとしていることだった。
「寂しくなる?」
不意にそう聞いていた。
相手は笑うでもなく、驚くでもなく、少しだけ肩をすくめた。
「なるよ」
「どれくらい」
「思ってるよりずっと」
「じゃあ、引き止めればいいのに」
その言葉には半分だけ冗談が混ざっていた。
残りの半分が何だったのか、自分でもうまく説明できなかった。
相手はしばらく黙っていた。
冗談なら、ここで軽く流すこともできたはずなのに、そうしなかった。
「引き止めたくないの」
やがて、静かな声でそう言った。
「いてほしいとは思う。でも、行ってほしい」
その一言だけで、胸の奥に何かがすとんと落ちた。
美しい言葉だと思った。きれいすぎて少し残酷なくらいに。
自分の願いより、相手の未来を選ぶ言葉。映画の中なら出来すぎていると感じるかもしれない。でも、夜の川辺ではそれが妙に本当らしく聞こえた。
「今日が良い日だったとしても」
相手は前を向いたまま言う。
「明日はそれよりもっとよくなってほしい」
「欲張りだね」
「そうかな」
「今日の最高が、明日の最低になるくらいってこと?」
「それくらい」
思わず笑う。
けれどその大げさな願いは、軽薄には響かなかった。むしろ、若さの特権みたいにまっすぐだった。未来はきっと今より良くなると、本気で言い切ってしまう強さ。あるいは祈り。
広場の隅では、まだ固い桜のつぼみが街灯に照らされていた。
咲いてしまった花より、その寸前のもののほうが、時々美しく見える。何かになろうとしているものの静かな緊張が、そこにはある。
自分もまた、そういう途中にいるのだと思った。未完成で、不安定で、でもそのこと自体が悪いわけではない。
缶の中身はもう半分も残っていなかった。
夜はさっきより深くなり、水面の黒はさらに濃くなっている。どこか遠くで笑い声がした。橋の向こうを自転車が一台通り過ぎる。世界はちゃんと続いていて、自分たちの特別な夜だけに都合よく止まったりはしない。
そのことが、なぜだか少し救いだった。
「じゃあ」と言う。
「今度はぼくが乾杯していい?」
相手が頷く。
缶を少し持ち上げる。
「君にも、良いことがたくさんありますように」
言ってから少し照れくさくなった。
けれど、もう引っ込めることはできない。
「ちゃんと笑えて、ちゃんと眠れて、ちゃんと誰かに大事にされますように」
「うん」
「それから……」
そこで言葉が止まる。
いくつかの続きが頭に浮かんで、どれも少し違う気がした。
会いたい、とか。忘れないで、とか。好き、とか。そういう言葉はどれも、この夜を急に狭くしてしまう気がした。
だから、少し遠回りな形を選ぶ。
「ときどき、ぼくを思い出して」
相手は目を細めた。
笑ったようにも見えたし、こらえたようにも見えた。
「ときどきで済むかな」
その返事だけで十分だった。
二人は缶を軽く合わせる。
小さな音が鳴る。乾杯というには、あまりにささやかな音。けれど、そのささやかさこそがよかった。
約束ではない。誓いでもない。ただ、今ここに確かにあった気持ちを、形にしただけの音だった。
別れ際、どちらも少しだけためらった。
抱きしめるには関係が曖昧で、何もしないには感情が多すぎる。結局、笑って手を振るという、いちばん無難な仕草を選ぶしかない。
たぶんそれでよかったのだと思う。未完成なものには、未完成なままの美しさがある。
少し歩いてから振り返る。
街灯の下に立つ相手は、まだこちらを見ていた。春の風が、コートの裾をかすかに揺らしている。
その姿は、映画のラストシーンみたいに整いすぎてはいなかった。背景に音楽が流れるわけでも、花びらが都合よく舞うわけでもない。
ただ、夜の空気の中にひとり立っているだけだった。
なのに、その普通さが、どうしようもなく美しかった。
明日から先、うまくいく日ばかりではないだろう。
選んだ道を疑う朝もあるし、ひどく寂しい夜もある。何かを手に入れるたび、別の何かを取りこぼした気がする瞬間も、きっとある。
それでもこの夜のことは、たぶんずっと残る。
誰かに、未来を祝福された夜。
成功だけではなく、休息や幸福や、愛されることまで願われた夜。
そして、そばにいてほしい気持ちを隠さずに持ちながら、それでも行ってほしいと言ってもらえた夜。
そんな夜を一度でも持った人は、少しだけ強くなれる。
帰り道の途中で、ポケットの中の手を握る。
冷たい缶の感触はもうないのに、指先にはまだ、乾杯のときの小さな衝撃が残っている気がした。
あの音は、別れの音ではなかった。
何かが終わるというより、何かが静かに始まる音だった。
たぶん人生には、全部を手に入れることなんてできない。
けれど、全部を願ってくれる人がいる夜はある。
それだけで、人は少し遠くまで行ける。
こころの雨 秋山 史郎 @aki716
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