ネオンの先

街はいつだって、金の匂いがした。


ダウンタウンの高層ビルの窓は夕陽を跳ね返し、まるで空そのものが富に染まっているみたいだった。通りにはタクシーのクラクション、フードトラックの油の匂い、遠くで鳴るサイレン、誰かの笑い声。大通りの巨大な広告には、白い歯を見せて笑う成功者たちが映っている。磨かれた腕時計、高級車、海の見えるペントハウス。ここでは、夢に値札がついていた。


その街の片隅、古びたアパートの三階に、小さな部屋があった。


窓枠はゆがみ、暖房は気まぐれで、冷蔵庫の中には卵が二つと安いビール一本、昨日のテイクアウトの残り。壁紙はところどころ剥がれ、天井には雨漏りの跡が茶色く残っている。夜になると、通りのネオンがブラインドの隙間から差し込み、部屋の中を赤や青に染めた。


ベッドに寝転び、薄いマットレス越しにスプリングの感触を背中に受けながら、よく目を閉じた。


すると、別の景色が見えた。


フラッシュが瞬くレッドカーペット。雑誌の表紙を飾る自分の顔。黒いSUVが縁石に滑り込み、歓声のなかでドアが開く。ロサンゼルス、シカゴ、マイアミ、ニューヨーク、毎晩違う街のステージに立ち、名前が呼ばれ、何万人も熱狂する。


目を開けると、現実には古いシーリングファンがぎいぎい鳴っているだけだった。


昼はファミレスで皿を下げ、夜はバーの閉店後に床を拭いた。チップは日によってまちまちだ。レジ横のチップジャーに札が増える夜もあれば、コーヒー1杯で何時間も粘る客に愛想笑いだけ置いていかれる夜もある。


それでも、夢は減らなかった。


むしろ腹が減るたび、ポケットの中身が軽くなるたび、夢は妙に鮮明になった。

金持ちになりたかった。


ただ、高級車が欲しいだけじゃない。確かに欲しかった。光るホイール、革張りのシート、バレーの係員にキーを放る仕草。そういうものへの憧れがないと言えば嘘になる。でもそれだけじゃなかった。


本当に欲しかったのは、もう値札を見てため息をつかなくていい人生だった。家族からの留守電を聞いて、すぐ送金できる余裕。腹を空かせた誰かに食事を渡しても、自分の明日の昼飯を心配しなくていい余裕。請求書の束を見ても、心臓が少し速くなるだけで済む余裕。


冬の入り口、風の強い夜だった。


バーの裏口からゴミ袋を抱えて出ると、路地にひとりの少年が座っていた。フードを深くかぶり、スニーカーの先は濡れ、手はポケットの中で固く握られていた。年は十歳か、もう少し上か。痩せた肩が寒さで震えていた。


視線が合うと、少年はすぐにそらした。


「何してる」


答えはなかった。


ゴミをコンテナに放り込み、少し迷ってから、裏口を開け直した。キッチンは締め作業の最中で、グリルの火は落ち、シンクには泡の残りが光っている。カウンターの端に、捨てるはずだったバーガーとフライドポテトが包まれていた。冷めてはいたが、まだ食べられる。


紙袋を持って戻ると、少年はまだいた。


「いらないなら捨てる」


そう言って差し出すと、少年はしばらく動かなかった。それから、ゆっくり受け取った。袋の中を見た瞬間の目の色だけが、路地の暗がりの中で急に生きものみたいに光った。


「ありがとう」


かすれた声だった。


「気にするな」


少年はその場でバーガーの包みを開いた。大きくかぶりつくでもなく、少しずつ、確かめるみたいに食べた。その様子を見ているあいだ、なぜか胸の奥が妙に静かになった。


ネオンも拍手も、表紙もリムジンもなかった。


それでも、たしかに何かが満たされる音がした。


その夜、部屋に戻ってもすぐには眠れなかった。窓の外では、向かいのビルの非常階段に赤いネオンサインの光がこぼれていた。遠くでパトカーのサイレンが鳴り、上の階ではテレビの音が壁越しにくぐもって響いていた。


ベッドの脇のノートを開く。


そこには走り書きで、いくつもの願いが並んでいた。


大きな家。母親に新しいキッチン。借金をなくす。いつでも誰かに食事を奢れる金。児童施設への寄付。自分の財団。NBAのコートサイド席。雑誌の表紙。誰もが知る名前になること。


少し考えて、その最後に一行書き足した。


空腹のまま眠る子どもを減らす。


文字はひどく不格好だったが、その一行だけは妙にはっきり見えた。


春が来るころには、街路樹の根元にゴミが吹きだまり、歩道のひび割れから草がのぞいた。生活は相変わらずだった。皿を下げ、酒を運び、酔った客の愚痴を聞く。けれど、夜が終わって部屋に戻ると、古いマイクに向かって声を吹き込んだ。


言葉にしたかった。

この街で金を夢見ることの、みっともなさも、切実さも。

豪華な暮らしへの憧れと、腹を空かせた誰かを見過ごせない気持ちが、同じ胸の中にあることを。


録音した音は荒く、車のクラクションや隣室の物音まで混ざった。それでも、何度もネットに上げた。最初はほとんど見向きもされなかった。再生回数は笑えるほど少なく、コメントはスパムばかりだった。


けれど、ある夜、一つの曲が遠くまで届いた。


誰かがシェアし、誰かが真似して歌い、気づけば数字が跳ね上がっていた。連絡が来た。小さなステージ。次はもう少し大きな箱。その次は州をまたぐ移動。モーテルの安い部屋、深夜のハイウェイ、ガソリンスタンドのコーヒー。やがて歓声がつき始めた。


目を閉じるたびに見えていた景色が、少しずつ現実に追いついてきた。


雑誌の撮影では、スタイリストがスーツの襟を直し、カメラマンが「そのままでいい」と叫んだ。車寄せには黒いSUV。ホテルの最上階から見下ろす夜景は、昔アパートの窓から見ていたネオンよりもずっと遠くまで続いていた。


成功だった。


誰が見ても、成功と呼ぶしかない場所まで来ていた。


だが、撮影の帰り、信号待ちの車窓から、寒空の下で段ボールを敷いて座る親子が見えた。赤信号の短い時間だった。子どもは母親のコートにくるまり、紙コップがひざの横に置かれていた。ほんの数秒。それだけで、昔の路地裏の光景が胸の底から戻ってきた。


あのとき、自分はただ食べ物を渡しただけだった。

大したことじゃない。

世界を変えたわけでもない。

でも、あの夜からずっと、忘れられなかった。


成功は、欲しかったものを運んできた。金も、部屋も、車も、服も、名前も。

けれど同時に、問いも運んできた。


それで何をする。

どこまで持てば足りる。

誰のために大きくなる。


夏の終わり、熱気の残る夜だった。チャリティーイベントの会場は、古いレンガ倉庫を改装した洒落たホールで、天井には電球のガーランドが吊るされていた。スーツ姿の人々がグラスを片手に談笑し、ジャズバンドが隅で静かに演奏していた。


壇上に立つ番が来た。


スポットライトが目にまぶしかった。

けれど、もう昔みたいにその光に飲まれはしなかった。


マイクの前に立ち、会場を見渡す。磨かれた靴、ダイヤモンドのイヤリング、シャンパンの泡。その向こうに、寄付先の子どもたちの写真がスクリーンに映っていた。笑っている子もいれば、どこか警戒した顔の子もいる。


静かに息を吸い込む。


「昔は、金持ちになりたかった」


会場が少し静まる。


「雑誌の表紙に載りたかったし、いい車にも乗りたかった。誰もが振り向くような人生がほしかった。たぶん今夜ここにいる多くの人と、そう変わらない理由で」


小さな笑いが起きた。


「でも、ある夜、裏通りでハンバーガーを渡した相手の顔を、ずっと忘れられなかった」


会場はしんとしていた。


「それでわかったんだ。金っていうのは、持つことそのものより、何を減らせるかのほうが大事だって。空腹を。恐怖を。選べなさを。明日を諦める気持ちを」


自分の声が、思っていたよりずっとまっすぐに響いた。


「だから今夜集める金は、誰かの人生を飾るためじゃない。誰かの夜を、少しでも暖かくするために使いたい」


拍手は、派手というより深かった。

波のように会場を満たし、それがやんだあとも、しばらく耳の奥に残った。


イベントの帰り、運転手つきの車を断って、一人で少し歩いた。真夜中の街は昼より正直だった。飲み屋街の明かり、地下鉄の風、タトゥーショップの閉まったシャッター、路上で鳴るサックス。見上げれば、ビルの窓明かりが星座みたいに散っている。


ポケットに手を入れて歩きながら、ふと笑った。


まだ高級車は好きだった。いいスーツだって気分が上がる。豪華なホテルのベッドは、やっぱり最高だと思う。成功の味を、嫌いになったわけじゃない。


ただ、それだけじゃもう足りなかった。


本当に欲しかったのは、世界の上に立つことじゃない。

世界の痛みに手が届く場所まで行くことだった。


交差点の角で立ち止まり、赤信号の向こうに広がる街を見た。巨大な広告スクリーンには、新しい顔が次々に映り、誰かの成功がまた別の誰かの欲望を煽っていた。


その光景を見ながら、ゆっくり目を閉じる。


昔と同じように、名前が光の中に浮かぶ。

違う街、違う夜。

歓声、ライト、拍手。


でも今は、それだけじゃない。


温かい食事。

安心して眠る子ども。

請求書を前にしても震えない手。

誰かが「助かった」と言える朝。


目を開ける。


信号が青に変わっていた。


街は相変わらず、金の匂いがした。

けれどその夜、その匂いの向こう側に、ほんの少しだけ希望の匂いが混じっている気がした。


そして、その希望を現実に変えるためなら、もっと大きくなってもいいと思えた。

もっと稼いでもいい。

もっと有名になってもいい。

もっと遠くまで行ってもいい。


そのすべてを、誰かの明日のために使えるのなら。


ネオンの海のなかを、一人で歩いていく。

背筋はまっすぐだった。

まるで街のほうが、その足音を待っていたみたいに。

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