ヒマワリ畑にて。

月兎耳

俺の太陽


「ヒマワリって、太陽に向かって咲くんだよ」

「へぇ。俺にとっちゃ夕月も、太陽みたいなもんだな」

「いや、恥ず…」


 翔吾の手を借りてバイクから降りると、長時間振動を感じていたお尻にまだ痺れが残っているような感覚がする。


 プロテクター入りのジャケットを脱いで、2人でヒマワリ畑に歩き出した。


「おっきー!綺麗な黄色だね…!」


 ヒマワリはちょうど翔吾の頭と同じくらいの位置に花をつけていた。開花した時期にばらつきがあるのか、ほうぼうを向いて咲いている。


 でも、皆んな花開いた時の太陽の方を向いているんだと思うと、ちょっときゅんとした。


「夕月には葉っぱしか見えないんじゃないか?抱っこしてやろうか。」

「子どもじゃないんですけど…!?」


 翔吾の揶揄う声が頭上から降ってくる。

 あの時、抱っこして貰っておけばよかったのだ。


「ねぇ!翔吾、写真…」


 振り向いた先に、翔吾の姿はなかった。

 ヒマワリが風で揺れ、視界が遮られる


「夕月、こっち。」


 隣の畝を見ると、彼の姿が見えた。


「ねー、びっくりしたじゃん。」


 ヒマワリの間をすり抜けて笑っている翔吾の腕に触れると、ヒマワリの産毛が付いたのか、少しだけざらっとした。


「せっかくだから写真撮ろうよ」


 スマホの画面を操作して振り仰ぐと、また翔吾がいなくなっている。


「もー!またなの!?」


 きょろきょろと見回すと、少し離れた場所に見慣れた毛色が見えた。


「ねぇ!少しは話聞いてよ。」


 見えた、と思った方へ行くと、そこに彼の姿はなく、ただヒマワリが俯いて咲いていた。


「あ、あれっ?」


 翔吾の明るい髪色と見間違えてしまったのだろうか。

 規則的に並んだ種の中に、1匹の蟻が歩いているのが見えて、その向こうには抜けるような青空が広がっていた。


 遠くで「夕月ー、どこ行ったー?」と翔吾の呼び声が聞こえた。

 風が強く吹き抜けて、ヒマワリの青臭い香りがやけに鼻につく。


「夕月、俺こっち。」


 またすぐ近くから声が聞こえた。振り返るとまたヒマワリ。


 人の顔よりよほど大きな、産毛の生えた葉っぱが視界をみっしりと覆っている。

 顔を上げるとこれまた大きな黄色い花が黄緑色の太い茎に繋がっている。


 何となくその中の1つと目が合った気がして、顔を逸らした。


「翔吾…!どこ?見えないよ!」


 心細くなって声を張った。でも、ちっとも届いている気がしない。


「こっちだって。」


 葉っぱの少ない根元なら見通せるかも知れない。膝が汚れるのも構わずに蹲って横を見ると、いくつか向こうの畝に翔吾の足が見えた。


「翔吾、今行くから!動かないでそこにいてー!」


 ほっとして気持ちに余裕が出来ると、地面に付いた手のすぐ横に蝉が死んでいるのに気付いて、思わず手を引っ込めた。


「こっちだって。早くこいよ。」


 もう一度翔吾の位置を確認して、ヒマワリの間をすり抜けた。剥き出しの腕や顔をざらざらとヒマワリの葉が撫でる。


 辿り着いた先に、翔吾はいなかった。


「なんで待っててくれないの……!?」


俯くと溢れた涙が蝉の死骸の隣に落ちた。


「えっ……ここ、」

「夕月、こっちだよ。」

「夕月、俺はここにいるぞ。」

「夕月、早くこっち来いよ。」


 夕月、夕月、夕月、夕月ゆきゆきゆき…。


 よく知っている筈の声が遠く近く渦を巻いた。


 耐え切れなくて、走った。


 翔吾は呼ばなかった。呼んでも意味のある返事が返って来なかった。


 頭を抱えて何度も蝉の死骸の上を通った。



 こんなに広いヒマワリ畑があるわけなかった。


 息を切らして、体力の限界を感じた時、一つの言葉を思い出した。


『夕月も太陽みたい』


 痺れた足が止まる。

 その瞬間、ぐるん、と全てのヒマワリがこちらを向いた。


「夕月、こっち見て。」

「夕月、今行くからそこにいろよ」

「夕月、ここにいるよ。」

「夕月、太陽みたい。」


 後退った足が何かにぶつかった。


 振り向かなくてもわかる。


 足元には蝉の死骸。


 背中に当たるのはザラついた茎と厚い葉。


 頭上には、縊れたように俯いた、大きなヒマワリが顔を覗き込んでいる。


 全身にヒマワリの産毛が張り付いてひりひりしている。


 ヒマワリが一斉に笑った。




「ハァッ…!はぁ、は…っ、は…!」

 大きく息を吸い込んで目を覚ます。喉が引き攣れて痛んだ。


 深夜3時。


 隣では翔吾がいつも通りの寝息を立てていた。

 滑らかなその肌を確かめるように腕に縋り付いた。

 濃い黄色に囲まれて、渦巻く様にぎっしり並んだ焦茶色のぶつぶつした種が頭に焼き付いていて、気が狂いそうだった。


「翔吾…!翔吾、起きて、お願い…!」

「…うわっ、なんだよ、夕月!?…いてっ、爪立てんな…!」


 飛び起きた翔吾が戸惑いながら、半狂乱の背中を抱く。

 がたがた震えながら翔吾の顔を見上げた。


「……こ、怖い夢、見た。」

「なんだ、夢か…脅かすなよ…、ほら、もう大丈夫だ。」


 安堵の息を吐いた翔吾が私の背中を撫でながら、また横になる様に促す。


「こわかっ…、本当に、怖かったんだから…っ」

「わかったよ。俺がついててやるから。」


 面倒くさそうにしながらも、翔吾は私が眠るまでその背中をさすってくれていた。

 次の日の朝、眠気でぼーっとしていると、翔吾が一冊の雑誌を差し出した。


「夕月、明日ここ行かないか。」


 紙面が目に入った瞬間、総毛立った。

 真っ青な空。

 一面の緑と黄色の中に、黒い闇がぶつぶつと開いている。

 美しいヒマワリ畑。


「夕月、花好きだろ?最近元気なかったし……」


 翔吾の声が遠く捻れていく。

 ツンと青臭くヒマワリが香る。

 足元に蝉が死んでいるのが見えた。


 




 あれから一年が経ち、また夏が来る。


 真っ白なシーツ、消毒液の臭い、細い手首に巻かれたピンク色のネームタグ。


 医師は何度も首を捻り、やがて匙を投げた。

 妊婦のように大きく膨らんだその腹の中には何度調べても何も入っていなかった。


 あの日、ヒマワリに呑まれる夕月の背中を見送ってしまった。

 あの時手を離さなければ。ヒマワリ畑に連れて行かなければ。


 パイプ椅子に座って、もうずっと目が合わない彼女を見つめていた。

 夕月は窓の外に広がるヒマワリ畑を見て微笑んでいた。

 空っぽの筈の腹に、何か恐ろしい物が宿っている。

 それだけは確信していた。


 ある朝、夕月が言った。


「翔吾、私たちの赤ちゃん、もうすぐ生まれるの。」


 『私たち』が誰を指すのかわからなかった。

 夕月に導かれて渋々その膨らんだ腹に触れると、手のひらの下で、何かが確かに脈打った。

 驚いて手を引こうとすると、夕月の小さな手が強い力で手首を掴んでいた。

 夕月は幸せそうに笑っていた。

 夕月の手が、まだ手首を掴んでいる。

小さなはずのその手は、骨の奥まで届くような力で、俺を離さない。


 「ねえ、翔吾、もうすぐなの。ね?」


 彼女の声は、夢の中のように柔らかく、でも、どこか遠くから響いていた。

 この手の下で、彼女の中で、何かが蠢いている。

 俺は知らない。それは俺たちのものではない。

 それは、ヒマワリの芽だ。

 病室に備え付けの引き出しにもう一方の手をかけた。静かに、音を立てないように。

 引き出しを開けると、小さな果物ナイフがあった。

 親指で鞘を弾くと、先の尖った刃が、朝の光を受けて光った。

 今までどんな喧嘩でも刃物は握った事がなかった。

 柄は固く冷えている。

 夕月は、虚ろに笑っている。

 俺は、彼女の前に立った。


 「翔吾……?」


 ナイフを振りかざす。

 その瞬間、夕月の瞳が、俺を見た。




 何度も頭の中で繰り返した。


 連れて行かなければ。手を離さなければ。 間に合わなかった。守れなかった。


 あの日。

 俯いて咲いたヒマワリの根元に倒れていた夕月を抱き起こした時。

 その目は自分を通り越してヒマワリの群れを映していた。


 愛しい女の腹が膨らんでいくのを、白い手がその腹を撫でるのを、一年、ただ見ていた。


 温かい彼女の血を浴びて、そこが空なのを確認した時、心から安堵した。


 あの日以来初めて、懐かしい夕月の瞳が俺を見て微笑んだ。


  「夕月…。」


 1年間、無力に座り続けたパイプ椅子を蹴り飛ばす。


 俺に命をくれた夕月はもう居ない。 なら、俺も彼女の元に還ろう。

 

 


 風が吹き抜けるヒマワリ畑に、俺はじっと立っていた。

 サクサクと小さな足音が近づいてくる。

 高い声。優しい笑顔。

 大切な、大切な、俺の太陽。

 彼女は、かつて何かに奪われた。 今度こそ、誰にも渡さない。


 誰かが誰かを呼んでいた。


 俺の知らない声、知らない名前。


 違う。間違っている。


 それは。


 その女は、俺の太陽だ……!


 縊れたヒマワリが目を覚ます。もう一度愛しい彼女をその手に抱く為に。

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ヒマワリ畑にて。 月兎耳 @tukitoji0526

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